チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

その他の絵画。

その他の絵画-OtherPaintings

その他の絵画

  • 製作年代の古い順に載せています。

※ 旅行ガイドの中の、各美術館の紹介ページにも多少の絵画を載せています。

コンスタンティヌスの寄進

Papa Silverster ad laevam et Caesar Constantius ad dexteram

1246年頃。
ローマ、サンティ・クァットロ・コロナーティ教会、サン・シルヴェストロ礼拝堂。

ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスが、教皇シルウェステルに、宝冠を与えている場面を描いている。

宝冠は現世の権力の象徴であり、この場面は「皇帝が教皇の世俗権力を認めた」ことを示している。
このことは「コンスタンティヌスの寄進状」に明文化されているとして、中世の叙任権闘争時に、教皇の皇帝に対する優位性の根拠として利用された。
が、15世紀、「寄進状」は人文学者ロレンツォ・ヴァッラによって、捏造であることが証明されている。

このフレスコ画は、惣領冬実「チェーザレ」7巻、Virtu56に、右端の馬部分などが端折られた形で描かれている。




15世紀の戦闘

パオロ・ウッチェロ(Paolo Uccello)
「サン・ロマーノの戦い」

1450年頃。
3枚の羽目板からなる屏風絵。メディチ家の所有であったが、現在はバラバラになっている。
上は、フィレンツェ、ウフィッツィ美術館、
下は、パリ、ルーブル博物館。
もうひとつは、ロンドン、ナショナル・ギャラリー、
にそれぞれ所蔵。
1432年のフィレンツェとシエナの戦いを描いたもの。
惣領冬実「チェーザレ」1巻のカラーページに似ている!
 

サン・ロマーノの戦い


サン・ロマーノの戦い2




ダ・ヴィンチの「吊るされたバロンチェッリ」

レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo DaVinci)
「吊るされたバロンチェッリ」

hanging baroncelli

1479年。フランス、バイヨンヌ、ボナ美術館。
パッツィ家の陰謀」の実行犯であったバロンチェッリはコンスタンチノープルまで逃亡するが、捕らえられフィレンツェに送り返される。
ロレンツォ・デ・メディチは彼をバルジェッロ館の中庭、公衆の面前で絞首刑に処した。
フィレンツェに暮らしていた若きレオナルド・ダ・ヴィンチ(1479年当時27歳)は、その様子をスケッチした。




シャルル8世のフィレンツェ入城

Entry of Charles VIII into Florence

フランチェスコ・グラナッチ(Francesco Granacci)。1518年。
フィレンツェ、ウフィッツィ美術館。
1494年、フランス王シャルル8世はナポリ王国の王位継承権をを主張し、イタリアに侵攻する。
ピエロ・デ・メディチに一方的な要求を呑ませたシャルルは、悠々とフィレンツェに入城した。その場面を描いたもの。

これをきっかけにして、フィレンツェ市民のメディチ家に対する不満が爆発、サヴォナローラ派の扇動を受けて暴動へと発展、メディチ家は追放の憂き目を見ることとなる。




サンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会

Santa Maria della Febbre

ピーテル・ヤンス・サーンレダム(Pieter Jansz Saenredam )
「Church of Santa Maria della Febbre, Rome」
1629年。
ワシントン、ナショナル・ギャラリー。

サンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会(Santa Maria della Febbre)は、サン・ピエトロ大聖堂のすぐ南、ローマ帝国時代の競技場跡地に建っていた円形の教会。
現在のサン・ピエトロ大聖堂の宝物殿の辺りになる。
18世紀後半、教皇ピウス6世在位時に、サン・ピエトロ大聖堂の拡大再建の犠牲となって解体されている。

絵は、その教会を描いている。
前に立つオベリスクは、現在のサン・ピエトロ広場に立つものと同じもの。
1586年、教皇シクストゥス5世はオベリスクを広場に移動させるが、それ以前は、ローマ帝国の競技場跡、サンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会の傍らに屹立していた。

旧サン・ピエトロ大聖堂は、もっと右手の方(北側)にあり、絵には入っていない。
(下の15世紀のサン・ピエトロ大聖堂のスケッチと見比べるとよくわかる。)

カリストゥス3世とアレクサンデル6世は、死後このフェッブリ教会に埋葬された。

教会が解体された時に、彼らの墓はサンタ・マリア・ディ・モンセラート教会に移されている。




サヴォナローラの火刑

Supplizio del SAvonarola

フィレンツェの無名画家。17世紀。
フィレンツェ、サン・マルコ美術館。
1498年5月23日、フィレンツェはシニョーリア広場にて、サヴォナローラは2人の忠実な弟子とともに火刑に処された。
遺灰は信仰の対象にならないように、アルノ河に廃棄された。




イサベル女王の遺言

Doña Isabel la Católica dictando su testamento(カトリック女王、イサベルの遺言)

エドゥアルド・ロサーレス。1864年。
マドリード、プラド美術館。
1504年に死去したスペイン女王イサベルの、遺言の場面を描いたもの。
立ち会っているのは、左から、
狂女と言われた娘ファナ、
後継者に指名され統一スペイン王国の王となる夫フェルナンド2世、
遺言を記述している公証人、
奥にモヤ公爵夫妻、
イサベルの聴罪司祭であった枢機卿フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス、
イサベルの会計士であったロペス・デ・レカラッガ、
カスティーリャの海軍提督であったエンリケ。

イサベルの死去した場所であるメディナ・デル・カンポの王宮には、この絵画をもとにしてイサベルの寝室が再現してある。




グラナダ陥落

La Rendicion de Granada

フランシスコ・プラディーリャ・オルティス(Francisco Pradilla Ortiz)。1882年。
マドリード、スペイン上院議事堂(Palacio del Senado)。
(グラナダ、王室礼拝堂(Capilla Real)にもレプリカがある。)

1492年、レコンキスタに成功したアラゴンとカスティーリャの両王フェルナンドとイサベルは、グラナダに入城する。
イスラームの王ボアブディル(Boabdil)(ムハンマド12世)は、グラナダの城門の鍵とアランブラ宮殿の鍵をフェルナンド王に渡す。
その、歴史的瞬間を切り取った絵画。

「チェーザレ」Virtu 62に登場するグラナダ入城の場面。




15世紀のサン・ピエトロ大聖堂

Basilica di San Pietro 1450

ヘンリー・ウィリアム・ブルワー(Henry William Brewer)。
1891年。

推測によって描かれた1450年頃のサン・ピエトロ大聖堂俯瞰図。
惣領冬実「チェーザレ」2巻、Virtu 8に描かれているものとそっくり。

左端に、サン・ピエトロ広場に移動される前のオベリスクが見える。
その背後にあるのが、カリストゥス3世やアレクサンデル6世が埋葬されたサンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会。
(上のピーテル・ヤンス・サーンレダムの絵)と見比べるとよくわかる。)




その他の絵画 - ボルジア家

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