チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ボルジアの間。

ボルジアの間

ボルジアの間


13世紀から15世紀にかけて建てられたヴァティカン、教皇宮殿の2階部分。
1492年、アレクサンデル6世は教皇に選出されるとすぐに、一連の部屋を、ピントリッキオ(ベルナルディーノ・ベッティ)に、装飾させた。これを「ボルジアの間」と呼ぶ。作業は1494年まで続いた。
ピントリッキオの助手として、
アントニオ・ダ・ヴィテルボ(イル・パストゥーラ)、
ピエトロ・ダンドレア・ダ・ヴォルテッラ、
ベネデット・ボンフィーリ、
がいた。

ヴァティカン美術館見学コースの、ラファエロの間の次、システィーナ礼拝堂の手前、にある。(けっこう後の方。)
全14室からなり(第1室~13室、28室)、
うち8室が公開されている(第1室、3室、4室、5室、6室、7室、13室、28室)。
「現代宗教美術」の展示室となっているので、多少の違和感がある。




ボルジアの間地図

   ボルジアの間地図






※写真にマウスを置くと、多少の説明が出ます。

ボルジアの間 第1室 巫女の間 (Sala delle Sibille)

天井の周りを彩る12のリュネット(半月形の枠。右下の写真の天井部に見られるもの。)に、巫女と預言者が描かれているので、巫女の間と呼ばれる。
中央に見える出入口が、ボルジアの間第2室へ続く。が、こちらは公開されていない。 左に見える出入口は、入ってきたところ。
ラファエロの間を終わると、せまい階段を下っていく。階段の終わったところにある最初の部屋が、ボルジアの間第1室。
ここと、続く第3室が、アレクサンデル6世によって建てられた「ボルジアの塔」部分にある部屋。

この部屋の装飾は、ピントリッキオではなく、アントニオ・ダ・ヴィテルボ。真ん中にアレクサンデルの紋が。 左上の写真の右端に見える窓が、これ。


1500年、ルクレツィアの2番目の夫、アルフォンソ・ダラゴーナが、ミゲル・ダ・コレッラによって暗殺されたのはこの部屋。
また、1503年、オスティアで捕縛されたチェーザレが、ユリウス2世によって軟禁されたのもこの部屋。
しかし捕囚状態だったチェーザレはあちこちに移動させられていて、ずっとここにいたわけではなかったよう。




ボルジアの間 第3室 信徒信条の間 (Sala del Credo)

この部屋にも12のリュネット(半月形の枠。下の写真の天井部に見られるもの。)が描かれる。預言者と使徒が、信徒信条の巻紙を携えていることから、この名で呼ばれる。
正面に見える窓の向こうは、ボルジアの中庭。ベルヴェデーレの中庭のある方から(入り口側から)部屋の奥を見た構図。 天井のリュネット。この部屋もピントリッキオではなく、アントニオ・ダ・ヴィテルボ、もしくはティベリオ・ダッシジの手による。

オブジェに隠れて見えないが、左端に入ってきた入り口がある。窓の向こうはベルヴェデーレの中庭。ボルジアの中庭のある方から、入り口を見た構図。

第1室と同様、「ボルジアの塔」の部分にある部屋。
入ってすぐ左と、正面にある2つの窓は、ベルヴェデーレの中庭に面している。(左の写真に見える窓。)
もう1つ、部屋の奥にある窓からは、ボルジアの中庭が見える。(左上の写真に見える窓。)

天井のアレクサンデル6世の紋。画像が粗くてすみません・・・。











ボルジアの中庭に向かって右の壁際には、なぜか教皇ピウス11世の胸像が置かれている。
(左上の写真の中央右に見える白い像。)




ボルジアの間 第4室 自由七学芸の間 (Sala delle Arti Liberali)

天井のリュネット(半月形の枠。下の写真の天井部に見られるもの。)には、3つの文芸科目と4つの科学からなる、自由七学芸が描かれる。
左下の写真は、入ったところ付近から撮ったもの。
右の出口に向かって人が集まっているが、これはこちらがシスティーナ礼拝堂への順路だから。
ボルジアの間第5室への出口はその対角線上にあるので注意!
(人の流れに乗せられて、見過ごしてしまいがち。)
(5室への出口は、ロープが張られて閉じられていることも多い。が、これは単に「今、監視人の手が足りないから」といった理由であったりするようなので、粘ると入れる可能性もある。)

奥に見える暖炉は、もともとサンタンジェロ城にあったものらしい。 ピントリッキオが描いたのは一部。ほとんどがアントニオ・ダ・ヴィテルボとティベリオ・ダッシジの手による。

アレクサンデル6世の書斎であったところ。食事もここでとっていたらしい。
1503年、マラリアに倒れた彼の遺体はここに置かれ、暑さによって膨らみ黒く変色したという。

天井中央にある紋(逆さまに見えています)と金の漆喰細工の牛。 左の写真の両端に見える金のインプレーザ(Impresa)のアップ。豪華なボルジアの牡牛。




ボルジアの間 第5室 諸聖人の間 (Sala dei Santi)

聖セバスティアヌス、聖バルバラ、聖カタリナなどの聖人が描かれる部屋。ボルジアの間の中で、ピントリッキオ自身の手がけた部分が最も多い。(他の部屋は、ピントリッキオの弟子であったアントニオ・ダ・ヴィテルボ、ティベリオ・ダッシジなどの手が多く入っている。)
「アレクサンドリアの聖カタリナ」。クリックすると拡大して説明が出ます。

ピントリッキオによる「アレクサンドリアの聖カタリナ」。奥に見えるのはコンスタンティヌス帝の凱旋門。



左下の写真は上の写真の左部分のアップ。玉座の皇帝はチェーザレ、聖カタリナはルクレツィアの肖像と言われている。
(ルクレツィアの方はかなり定説となっているが、チェーザレの方は一説にすぎない感じ。)

右下の写真は上の写真の右部分のアップ。
チェーザレの肖像であるという説がある。が、弟ホアンであるという説、ヴァティカンに居住していたトルコ王子ジェームであるという説もある。

他に、皇帝(左の写真、椅子に座っている人物)はチェーザレの肖像で描かれている。(この説は今ではけっこう有力。)
右に立っているターバンの人物がチェーザレであるという説などもある。これをジェームとする説もある。

「肖像画」のページにルクレツィアのもっと大きい画像があります。 馬が・・・ちっちゃくない??

左に見えるのが入ってきたところ。第4室へ戻る方。この真向かいに第6室への出口がある。 この絵もピントリッキオ。

左の写真に見える窓の向かい側に、1番上の写真の絵「アレクサンドリアの聖カタリナ」が描かれている。
右の写真は、ボルジアの間第6室へ続く出口の上に描かれている聖母子像。ジュリア・ファルネーゼがモデルであると言われている。




ボルジアの間 第6室 奥儀の間 (Sala dei Misteri)

天井のリュネット(半月形の枠。下の写真の天井部に見られるもの。)には、信仰の奥儀が描かれる。

入って右手側奥を見た構図。 中央上に見えるリュネットの下にあるのが、入ってきたところ。

右上の写真、中央上に見えるリュネットを拡大したものが、下の写真。
アレクサンデル6世と4人の息子たちが描かれる。
「復活」。クリックすると拡大して説明が出ます。
右上の写真を見てもらえばわかりますが、意外に大きな絵ではありません。

上の写真の右端部分のアップ。

左端がアレクサンデル6世。
武器を持っていない右端の人物が、僧籍にあったチェーザレであるという説、
長い槍を持った赤い衣装の人物がチェーザレである、という2つの説がある。
棺の向こうにいるのは、長兄ペドロ・ルイス、
中央棺の下にいるのは、末弟ホフレであると言われる。

メニューの「肖像画」にもっと大きな画像があります。

槍を持つ人物はホアンで、右端の人物は枢機卿となるフランチェスコ・ボルジア(カリストゥス3世の庶子であると言われる人)であるという説もある。








ボルジアの間 第7室 諸教皇の間 (Sala dei Pontefici)

教皇ステファヌス2世、ハドリアヌス1世、ウルバヌス2世、マルティヌス5世など、10人の教皇を称える銘文の刻まれている部屋。これに由来してこの名で呼ばれる。

この部屋は今までの部屋よりも広々としています。 やはり画の雰囲気が違うように思います。

枢機卿会議などの公式行事が行われていた部屋。宴会や謁見もここで行われていたよう。
1500年6月、雷がこの部屋に落ち、3人が死亡する事件が起きる。
アレクサンデル6世は崩れた梁天井の下敷きとなるが、額に傷を負っただけにとどまった。

現在見られる装飾は、レオ10世時代のもの。12星座と7つの惑星(当時は7つしか知られていなかった。)、踊る天使たちが描かれている。
公開されている一連のボルジアの間の中で、この部屋にだけ、ボルジアの紋が見られない。
左の写真、中央オブジェの後ろに見えるのが、第8室へ続くドア。(公開はされていない。)




ボルジアの間 第8室 私的謁見の間

非公開。
アレクサンデル6世の私的謁見の間であったところ。階段で、上階のラファエロの間につながっているらしい。




ボルジアの間 第9室 第二祭服の間

非公開。
「パパガッロの間」(pappagallo、オウムの意味。)と呼ばれていたが、教皇がここで着替えを行うことから、「衣替えの間」となり、
また、執務や謁見、儀式なども行われるので、「教皇枢密会議の間」とも呼ばれていた。
「金のバラ」の授与式などが、ここで行われていたらしい。)
現在は「第二祭服の間」と呼ばれる。




ボルジアの間 第10室 祭服の間

非公開。
枢機卿たちはここで祭服に着替えていた。




ボルジアの間 第11室 ニコラウス5世の寝室

非公開。
ニコラウス5世の時代に作られ、シクストゥス4世の時代に修復された天井がある。そのため、天井はシクストゥスの紋章が散りばめられているらしい。
・・・なんでここがボルジアの間に含まれるのかは謎。




ボルジアの間 第12室 ファルダの間

非公開。
ファルダ(falda)とは教皇の法衣のこと。
特筆される説明が見られないので、クローゼットのような部屋だったのかも。(着替えの間にも近いし、つながっているし。)




ボルジアの間 第13室 アレクサンデル6世の寝室

第4室からシスティーナ礼拝堂へ向かう方向へ続いている。縦に長いので、やや通路のような感じ。
アレクサンデル6世の寝室であった部屋。彼が息を引き取ったところはここ。
暖炉は埋められていて、形だけです。 修復中のボルジアの中庭。味もそっけもありません。

右上の写真は修復途中のボルジアの中庭。左側の壁に「Cortile Borgia」とプレートがある。右側の壁や窓には紋もついている。
正面奥はセンティネッラの中庭に続き、左手にシスティーナ礼拝堂がある。

天井はあまり高くないです。
天井モチーフのアップ。

ボルジア家の紋章のモチーフで飾られた天井は、木組みでできている。




ボルジアの間 第28室 浴室と宝庫

入って突き当たりを見たところ。左に見えるのは27室(非公開)へ続く出口。 右に見えるのが、入ってきたところ。右下はシスティーナ礼拝堂へ降りていく階段。

浴室と宝庫として使われていた、とされる部屋。

紋章つき豪華天井。
左上の写真、左に見える出口から、27室をのぞいたところ。

なぜ、浴室と宝庫が同じ部屋にされていたのか、謎。
「13室に付随する2室」という記述がみられたので、以前は2室に分かれていたのかも。












ヴァティカン俯瞰図

ヴァティカン俯瞰図






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