チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ファルネーゼ

ファルネーゼ家 (farnese)

15世紀に台頭した傭兵出身の一族。
教皇マルティヌス5世により教皇領の一部を封土されたことにより、勢力を伸ばす。ローマ北部ボルセナ湖畔付近が本拠地。
枢機卿や教皇、パルマ公を輩出する。

ジュリア・ファルネーゼ(Giulia Farnese)

(1474年(1475年の説も) - 1524年3月23日)
ピエール・ルイジ・ファルネーゼとジョヴァンナ・カエターニの末娘。ローマ北部ヴィテルボ近くのカニノ生まれ。
2人の兄(アレッサンドロ、バルトロメオ)と弟(アンジェロ)妹(ジローラマ)を持つ。
カエターニ家は教皇ボニファティウス8世を輩出した家であるが、ファルネーゼ家は当時まだ、田舎貴族のひとつだった。

突出した美しい容貌をもち、Giulia la Bella(美しきジュリア)と呼ばれた。チェーザレも彼女の大きな黒い瞳を称えていたらしい。

1489年
5月21日、バッサネッロの領主オルシーノ・オルシーニ(ロドリーゴ・ボルジアの従妹アドリアーナ・ミラの息子)と結婚。この時すでにロドリーゴ・ボルジアの愛人となって1年弱くらいだった。
(愛人関係となったのは結婚後と言う説もある。)
オルシーノは隻眼、もしくは斜視であったと言われており、覇気のない、あまり魅力のない人物であったよう。

1492年
11月30日、彼女の唯一の子(娘)である、ラウラを出産。教皇アレクサンデル6世となっていた、ロドリーゴの娘ではないかとも言われるが、公式にはオルシーノの嫡出の娘とされている。後にオルシーノの遺産も受け継いでいる。

ジュリアは夫とは生活せず、夫の母アドリアーナ・ミラとアレクサンデルの娘ルクレツィアとともにヴァティカンで生活。ルクレツィアとはむつまじい仲であったと言う。
アレクサンデルはジュリアを溺愛し、彼女の兄アレッサンドロを枢機卿に叙任したり、オルシーニ家にカルボニャーノの地を与えたりしている。

1494年
5月、シャルル8世のイタリア侵攻時、ローマで発生した疫病を避けるため、婚家ペーザロへ向かったルクレツィアに、アドリアーナとともに同行。ペーザロの社交界に君臨し華やかに暮らす。
7月、兄アンジェロの病床を見舞うため、アドリアーナを伴いカポディモンテへ。兄の死後も、(夫オルシーノの強制で?)ローマへ戻らなかったため、アレクサンデルを激怒させる。彼はジュリアを破門するとまで言って嫉妬を爆発させている。

11月末、ようやくローマへと発つが、カッシア街道でフランス軍と行き会い、捕虜となってしまう。
フランス軍指揮官イヴ・ダレグレは騎士道精神を発揮し、丁重に彼女たちをあつかう。アレクサンデルは身代金3千ドゥカーティをただちに送り届け、事なきを得た。

1499年
または1500年頃まで、11〜12年間アレクサンデルの愛妾であり続けるも、この頃2人は平和裏に別れたよう。同じ頃夫オルシーノが亡くなっている。
ジュリアはアレクサンデルよりオルシー二に与えられた地、カルボニャーノへ移る。

1505年
娘ラウラがユリウス2世(ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ)の甥ニッコロ・デッラ・ローヴェレと結婚。式に出席するために一時ローマへ戻る。
同年ナポリの貴族ジョヴァンニ・カペス・ディ・ボットゥートと再婚。しかし彼は1517年には死亡している。

1506年
1522年までカルボニャーノの総督を務める。統治者としての才を発揮した。

1524年
再びローマへ戻り、兄アレッサンドロの宮殿ファルネーゼ宮で死去。死因はわかっていない。享年50歳。




アレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese)

(1468年2月29日 - 1549年11月10日)
パウルス3世(Paulus III)(在位1534年 - 1549年)
ロドリーゴ・ボルジア(アレクサンデル6世)の愛人ジュリア・ファルネーゼの兄。
1493年、枢機卿に。妹のコネによる任命は、「スカート枢機卿(il cardinale della Gonnella)」と言われて揶揄された。
よからぬコネで枢機卿になったかのようだが、後に教皇パウルス3世となる。

ローマ、もしくはカニーノ生まれ。
幼い頃から、聖職者の道を歩むように育てられ、ローマ、フィレンツェ、ピサで学ぶ。この時に、彼のルネッサンス人的な人文主義が形成された。
しかし1488年頃、家族間のもめごとで投獄されるという事件を起こしたりしている。

1491年、ロレンツォ・デ・メディチの推薦で、教皇の秘書を兼ねた書記官となる。
1492年6月、ヴィテルボのサン・ロレンツォ教会の聖堂参事会会員に。また教皇庁の会計官も務めた。
1493年9月20日、枢機卿に。
1496年、教皇特使として訪れたヴィテルボで、住人の熱烈な支持を得る。翌年ホアン・ボルジア(サヴィオなのかシレンツィオなのか不明。おそらくサヴィオ。)によってヴィテルボの総督に任命された。

1515年、現在フランス大使館として使われているファルネーゼ宮の建設に着手する。ブラマンテやサンガッロ、ミケランジェロらの手によって作られた宮殿は「16世紀のイタリア建築のおいては最も壮大で素晴らしい建築」と称えられた。

1534年、クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ)没後のコンクラーヴェにて、パウルス3世として教皇に選出される。
当時の緊急課題であった教会改革に積極的に取り組み、反動宗教改革としてイエズス会の認可、トレント宗教会議の招集などを行った。
1538年、イングランド王ヘンリー8世を破門。
前教皇クレメンス7世がミケランジェロに依頼していたシスティーナ礼拝堂の祭壇画「最後の審判」は、1541年、彼の治世時に完成した。




アンジェロ・ファルネーゼ(Angelo Farnese)

(1465 - 1494)
ジュリア・ファルネーゼ兄弟姉妹の長兄。
カニーノとモンタルトの領主。
1488年5月11日、ピチリャーノ伯ニコラ・オルシーニとエレナ・コンティの娘アンジェラ・オルシーニと結婚。
1494年、カポディモンテにて病死。
妹のジュリア・ファルネーゼはペーザロから病床に駆けつけるが、間に合わなかった。
享年29歳。
彼の死後、妻アンジェラ・オルシーニは結婚の誓約を守り修道女としてフィレンツェで暮らした。1510年に死去。




ラウラ・オルシーニ(Laura Orsini)

(1492年11月30日 - )
ジュリア・ファルネーゼの唯一の嫡子。
出生時から実の父親はアレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)ではないかと言われるが、オルシーノ・オルシーニとの嫡出子として認知されている。
しかしその真偽は今だわかっていない。
出生後すぐにアストーレ・マンフレディ(ファエンツァの領主。当時7歳。)やジュリアーノ・デ・メディチ(ジョヴァンニ(レオ10世)の弟?であったら当時13歳。)との婚約が検討される。がいずれも実現はしない。

1503年、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレが教皇ユリウス2世になると、教皇との関係を強化するために、ユリウス2世の従姉妹の息子ニッコロ・デッラ・ローヴェレとの結婚が決められる。
この結婚はラウラの伯父アレッサンドロ・ファルネーゼ(後のパウルス3世)が強く後押ししており、オルシーニ家のためと言うより、ファルネーゼ家のための結婚だったよう。
1505年11月15日、ニッコロ・デッラ・ローヴェレと挙式。
母ジュリア、伯父アレッサンドロ、教皇ユリウス2世の他、ジョヴァンニ・デ・メディチも出席した。




ピエール・ルイジ・ファルネーゼ




アレッサンドロ・ファルネーゼ






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