チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

チヴィタ・カステラーナ

チヴィタ・カステラーナ Civita Castellana

ローマから、鉄道とバスで約2時間。
(ローマ・トラステヴェレ駅からラ・ストルタ(La Storta)駅まで約40分。
バスに乗り換えて約1時間20分。)

サンガッロ城塞からボルジア門まで徒歩で15分ほど。歩いてまわれます。

枢機卿時代のロドリーゴ・ボルジアが、教皇シクストゥス4世によって与えられた街。ロドリーゴは総督としてこの街を治めた。
アレクサンデル6世として教皇に選出された数年後、城塞の建築を始める。
ローマから60キロほどで(馬で1日あれば移動できる)、フラミニア街道が街のすぐ東を通っているので、ボルジア家は要衝としてこの街を重要視していたと思われる。

チェーザレのローマ近郊における拠点のひとつ。



サンガッロ城塞(Forte Sangallo)

1494年、中世の要塞跡地に教皇アレクサンデル6世が建築を始めた城塞。
アレクサンデル6世の死後、ユリウス2世が完成させた。ので、アレクサンデル6世の紋章とユリウス2世の紋章がどちらも掲げられている。ボルジアの紋は外壁に、ローヴェレの紋は内部にある。ユリウス2世、よくボルジア紋を削り取らなかったね!?

右手の紋章(城壁部分)がアレクサンデル6世の紋章。木で隠れてるけど中央にもある。
建物部分の紋章がユリウス2世のもの。城塞の中庭や入口の扉の上などにもある。(右下の写真。)
サンガッロ城塞

中庭

2つの家の争いを避けるためか?建築家アントニオ・ダ・サンガッロ(Antonio da Sangallo)の名前で呼ばれている。

アントニオ・ダ・サンガッロは、
Antonio da Sangallo il Vecchio(イル・ヴェッキオ、1455?1460? - 1534)
Antonio da Sangallo il Giovane(イル・ジョヴァネ、1484 - 1546)
伯父・甥2人いて、どちらも建築に関わっている。伯父がボルジア家に依頼されて始めた仕事を、甥がユリウス2世に依頼され引き継いだとされる。
(ちなみにこの時代の芸術家サンガッロはもう1人いる。ジュリアーノ・ダ・サンガッロ(Giuliano da Sangallo、1445 - 1516)。イル・ヴェッキオの兄。しかしこの人はボルジアの城塞建築には関わってはいないよう。)

サンガッロ・イル・ヴェッキオは、当時の近代的な要塞設計のスペシャリストで、ボルジアは彼を重用していた。

城塞は教皇庁領の北の境界線に位置する実際的な防波堤で、チェーザレのローマ近郊における拠点のひとつだった。金、銀、宝石、貴重な宝石、美術品などの莫大な富を保管するための安全な場所であり、兵士の宿舎でもあった。
チヴィタ・カステラーナはアペニン山脈の麓だし、城塞は岩陵の上にあるので、かなり堅固だったと思われる。
実際、16世紀の教皇領における軍事建築の最高傑作のひとつと言われている。

サンガッロ城塞の立地

← 19世紀に描かれたサンガッロ城塞。

めちゃくちゃ攻めにくそう。
ここに城塞作ったボルジア家、やるじゃん!!

1846年から1961年までは軍の監獄として使用されていた。その後修復され、現在は国立アグロ・ファリスコ考古学博物館(Il Museo Archeologico dell’Agro Falisco)として利用されている。ファリスカ(現在のチヴィタ・カステラーナ、古代ローマ時代の呼称)から出土した数々の興味深い遺物が展示されている。
9つの部屋に分かれており、宮殿のメインフロアの大部屋は教皇アレクサンドル6世の居室であったとされる。

上空から見ると五角形をしていて、かっこいい。


アレクサンデル6世とチェーザレが1501年に作らせた同じ名前の城塞、Forte Sangalloがネットゥーノ(Nettuno)(ローマの南のティレニア海沿いの街)にもあるので、混同に注意!


  • 開館時間
    火曜日 - 土曜日:8:30 - 19:00(最終受付18:00)
    日曜・祝祭日:8:30 - 13:00(最終受付12:00)

閉館
月曜日、1月1日、5月1日、12月25日

入場無料

※開館時間はけっこう変動しているようなので、確認必須。



ボルジアの門(Porta Borgiana)

ボルジアーナ門。
15世紀、市内に出入りするための扉のひとつだった。
ボルジア門

画像の説明

カリストゥス3世の教皇時代(1455年~1458年)に、枢機卿であったロドリーゴ・ボルジアが建設したもの。

(← 飾られる紋章が、教皇ではなく枢機卿の紋章になっている。)
(ロドリーゴの紋章の上に、なぜか17世紀初頭の教皇パウルス5世の紋章がある。修復でもした?)

1482年、シクストゥス4世からチヴィタ・カステラーナの街を与えられた枢機卿ロドリーゴ・ボルジアは、教皇に選出される1492年までこの街の総督を務めた。門は総督ロドリーゴに感謝した市民が捧げたものとも言われる。
(門の横にある解説パネルにはカリストゥス時代に〜と書かれているので、そちらが有力かな。)

サンガッロ要塞とともに、チヴィタ・カステッラーナが教皇庁領北部にとって戦略的に重要であったことを示す証のひとつである。
ローマからも近く、フラミニア街道が街のすぐ東を通っているので、ロドリーゴ(とチェーザレ)は要衝としてこの街を重要視していたと思われる。

門はローマ建築の形式を復元した構造となっている。
大理石は、ローマ帝国の廷臣グリツィオ・ガッロ(L. Glizio Gallo)の記念碑的墓所を壊して再利用したもの。と、碑文にきざまれている。
また近隣のファリスコ遺跡から掘り出された装飾も利用されている。

現在は片側が擁壁で閉じられている。






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