ネットゥーノ
ネットゥーノ Nettuno
鉄道で、ローマ、テルミニ駅から1時間ちょっと。乗換えなしで行ける。
ネットゥーノとは、イタリア語でネプチューン(ポセイドン)の意味。
駅も見どころも海岸沿いに集中しており、徒歩でまわれる。
ティレニア海に面したラツィオ海岸沿いにある街。
紀元前1000年頃、ラテン民族の人々によって建設される。
紀元前5世紀初頭、この地域に定住したヴォルチア人によって占領される。
紀元前459年、ローマの支配下に。
6世紀初頭ゴート族に、9世紀サラセン人に侵略された後、教皇ベネディクト8世の力で教皇庁領となる。
一時はオルシーニ家の所領となり、同家は街の周囲に8つの塔を持つ城壁を築いた。
1427年、コロンナ家出身の教皇マルティヌス5世の時代にコロンナ家の所領になる。
1501年、ボルジア家によりコロンナ家は放逐され、ボルジア家の所領になる。
アレクサンデル6世は、1499年に生まれたばかりの、ルクレツィアとアルフォンソ・ダラゴーナの息子ロドリーゴに、この地を与えた。
(8月20日の教皇勅書によりロドリーゴに付与され、10月16日の勅書で領有権が確認されている。)
アレクサンデル6世とチェーザレは、1501年から1503年にかけて、ローマと教皇庁の海側の守備を固めるため、サンガッロ城塞を建築させる。
これは、チェーザレのナポリ侵攻を視野に入れていたとも考えられる。
ネットゥーノには数百人の住民しかいなかったが、これを機に多くの人々が移住してきた。
小麦栽培、ブドウ収穫、木材伐採、石炭生産、漁業が盛んになり、アストゥーラ港(ネットゥーノの南にある港)からナポリやピサに出荷される製品によって、街は豊かになった。(ボルジア家やるじゃん!)
1503年、ボルジアの没落により再びコロンナ家の所領に。
1625(26?)年、コロンナ家から教皇庁に売却される。
1809年、ナポレオン・ボナパルトにより併合され、ローマ県ヴェレトリ郡の一部になる。
1815年、ナポレオンが敗北し、再び教皇庁領に。
1870年、イタリア王国に編入された。
サンガッロ城塞(Forte Sangallo)
※ アレクサンデル6世とチェーザレが1494年に作らせた同じ名前の城塞、サンガッロ城塞(Forte Sangallo)がチヴィタ・カステラーナ(Civita Castelana)にもあるので混同に注意!
城塞裏から。手前は砂浜で、すぐ海。
裏だけれども、当時の唯一の出入口はこちら側にあった。主塔の右側に見える、長方形の中にアーチがあるところが門だった。
半分は石、半分は木で作られた階段が地上へ続いており、「海への階段(scala a mare)」と呼ばれていた。
20世紀の工事で撤去された。
また、中央の主塔も現在は4階建てであるが、当時は3階建てだった。右の稜堡の上にある見張り塔もなかった。
外壁まわりは、ほとんど変わらずに残っている。
1501年から1503年にかけて、アレクサンデル6世とチェーザレが作らせた城塞。(なのに建築したサンガッロの名前で呼ばれる。解せん。)
城塞は、3キロほど離れたアンツィオのネロニアーノ港(Porto Neroniano)を強化し、北のオスティア城塞、チヴィタヴェッキア城塞と合わせて、海からのローマへの攻撃を完全に防御するかたちになっている。
1494年のシャルル8世イタリア侵攻時、騎兵2000と歩兵5000の仏軍別働部隊が、海からネットゥーノに上陸し、コロンナ家と合流する作戦があったようなので、ボルジアはこの地を堅持しておきたかったんだと思われる。
また、カンパニア州に近く、南東には自然の要塞であるポンティーネ湿地(paludi pontine)が広がっていた場所でもあるので、チェーザレの対ナポリ前線基地として利用することも視野に入れて建てられたとも推測される。
戦略的にすぎる。かっこいい。
- チヴィタヴェッキアの城塞 - 現存するミケランジェロ要塞(Forte Michelangelo)は、1508年ユリウス2世によって作られたもので、ボルジアの時代にはなかった。(基となる古い要塞はあった。)つまりユリウス2世は、ボルジアが始めた海岸線の強化を引き継いでいる。やるじゃん。
- オスティアの城塞 -
- ネットゥーノの城塞 -
4方向に突き出た稜堡が、ハート型になっている珍しい城塞。
大砲の威力から城壁を守るため考案された、星型城塞のはしり。
横からだとわかりにくいけど、四角や円でないことはわかる。
上から見た図。
数字の場所に8人配置すれば、死角がない。
図の、線が2本あるところは攻撃を受けやすい前線で、人員が二重に配置された。
城塞正面入口。手前の石畳は通りの歩道。
この入口は当時はなかった。
門をくぐって中に入ったところ。
この内部の空間は、20世紀の修復で大幅に変更されている。
上の右の写真、階段の上は、連合軍上陸博物館(Museo dello Sbarco Alleato)。
ネットゥーノは、第二次世界大戦で連合軍が上陸したところ。
細長い2階部分が使われている。
中庭の中央と手前にある建物は、市立考古学博物館(Museo Civico Antiquarium Comunale)。
中央は主に発掘されたローマ時代の遺物の部門、手前は先史時代と古生物の部門。
メインは中央の黄色の建物。
2階の右から2番目の窓はチェーザレの部屋!
。
入口上部にボルジアの紋章があるが、剥ぎ取られている。
ボルジア没落後、ネットゥーノを取り戻したコロンナ家によって、剥がされた。
(他にあるボルジア紋章も、牛部分が削られていたりしている。哀。城塞正面にある紋章もボルジアではなく、コロンナとバルベリーニ家のもの。)
チェーザレの部屋内部。発掘された陶器などが展示されている。
1503年5月11日、チェーザレは完成した城塞の視察のため、アレクサンデル6世とともにネットゥーノを訪れている。
5日ほど、この地に滞在したよう。
1503年に城塞を奪還したコロンナ家は1594年、軍事遠征による借金を返済するために、教皇庁に城塞を売却する。
教皇庁の下で、1655年から1667年にかけて、現在の出入口である橋が架けられ、南東と北西の稜堡に見張り塔が作られる。
1831年、ボルゲーゼ家に売却され、
1870年、国に売却される。
1886年、民間の手に渡り、壁面の修復が行われる。
1920年、所有者はファッシーニ家となり、中庭に回廊が作られ、主塔に上階が足され、内部の配置が変更される。
1960年代、ディア・フィルム社の所有下で、ホテルに転用されるための大きな改築が施される。が、1970年代に中止された。
1988年、ネットゥーノ市の所有となり、保存修復作業が続いている。
以前は屋上や濠跡にも入れたようだけれど、現在は立ち入り不可。
外壁が修復中なので、終了すれば濠には降りられるようになるかも。
- 開館時間
月曜日〜金曜日
09:30 - 12:30 / 15:30 - 19:00
サン・フランチェスコ教会(Chiesa di San Francesco)
Chiesa di San Giovanni Battista ed Evangelista
Basilica of Our Lady of Graces & St. Maria Goretti Santuario Santa Maria Goretti
Borgo Medievale di Nettuno
Torre Astura
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