ネットゥーノ
ネットゥーノ Nettuno

鉄道で、ローマ、テルミニ駅から1時間ちょっと。乗換えなしで行ける。
ネットゥーノとは、イタリア語でネプチューン(ポセイドン)の意味。
駅も見どころも海岸沿いに集中しており、徒歩でまわれる。
ティレニア海に面したラツィオ海岸沿いにある街。
紀元前1000年頃、ラテン民族の人々によって建設される。
紀元前5世紀初頭、この地域に定住したヴォルチア人によって占領される。
紀元前459年、ローマの支配下に。
6世紀初頭ゴート族に、9世紀サラセン人に侵略された後、教皇ベネディクトゥス8世の力で教皇庁領となる。
一時はオルシーニ家の所領となり、同家は街の周囲に8つの塔を持つ城壁を築いた。
1427年、コロンナ家出身の教皇マルティヌス5世の時代にコロンナ家の所領になる。
1501年、ボルジア家によりコロンナ家は放逐され、ボルジア家の所領になる。
アレクサンデル6世は、1499年に生まれたばかりの、ルクレツィアとアルフォンソ・ダラゴーナの息子ロドリーゴに、この地を与えた。
(8月20日の教皇勅書によりロドリーゴに付与され、10月16日の勅書で領有権が確認されている。)
アレクサンデル6世とチェーザレは、1501年から1503年にかけて、ローマと教皇庁の海側の守備を固めるため、サンガッロ城塞を建築させる。
これは、チェーザレのナポリ侵攻を視野に入れていたとも考えられる。
ネットゥーノには数百人の住民しかいなかったが、これを機に多くの人々が移住してきた。
小麦栽培、ブドウ収穫、木材伐採、石炭生産、漁業が盛んになり、アストゥーラ港(ネットゥーノの南にある港)からナポリやピサに出荷される製品によって、街は豊かになった。(ボルジア家やるじゃん!)
1503年、ボルジアの没落により再びコロンナ家の所領に。
1625(26?)年、コロンナ家から教皇庁に売却される。
1809年、ナポレオン・ボナパルトにより併合され、ローマ県ヴェレトリ郡の一部になる。
1815年、ナポレオンが敗北し、再び教皇庁領に。
1870年、イタリア王国に編入された。
- ネットゥーノ Nettuno
- サンガッロ要塞(Forte Sangallo)
- サン・フランチェスコ教会(Chiesa di San Francesco)
- 中世の街並み(Borgo Medievale di Nettuno)
- サン・ジョヴァンニ・バッティスタおよびサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会(Chiesa di San Giovanni Battista ed Evangelista)
- オルシーニ宮殿(Palazzo Orsini)
- ドーリア・パムフィーリ宮殿(Palazzo Doria Pamphili)
- 古い噴水(Fontana Vecchia)
- セニェーリ宮殿(Palazzo dei Segneri)
- 恩寵の聖母と聖マリア・ゴレッティの聖堂(santuario di Nostra Signora delle Grazie e di Santa Maria Goretti)
- アストゥーラ塔(Torre Astura)
- アンツィオ Anzio
- ネットゥーノ地図
→ ネットゥーノ地図
サンガッロ要塞(Forte Sangallo)
※ アレクサンデル6世とチェーザレが1494年に作らせた同じ名前の要塞、サンガッロ要塞(Forte Sangallo)がチヴィタ・カステラーナ(Civita Castelana)にもあるので混同に注意!
要塞裏から。手前は砂浜で、すぐ海。
裏だけれども、当時の唯一の出入口はこちら側にあった。主塔の右側に見える、長方形の中にアーチがあるところが門だった。
半分は石、半分は木で作られた階段が地上へ続いており、「海への階段(scala a mare)」と呼ばれていた。
20世紀の工事で撤去された。
また、中央の主塔も現在は4階建てであるが、当時は3階建てだった。右の稜堡の上にある見張り塔もなかった。
外壁まわりは、ほとんど変わらずに残っている。
1501年から1503年にかけて、アレクサンデル6世とチェーザレが作らせた要塞。(なのに建築したサンガッロの名前で呼ばれる。解せん。)
要塞は、3キロほど離れたアンツィオのネロニアーノ港(Porto Neroniano)を強化し、北のオスティア城壁、チヴィタヴェッキア要塞と合わせて、海からのローマへの攻撃を完全に防御するかたちになっている。
1494年のシャルル8世イタリア侵攻時、騎兵2000と歩兵5000の仏軍別働部隊が、海からネットゥーノに上陸し、コロンナ家と合流する作戦があったようなので、ボルジアはこの地を堅持しておきたかったんだと思われる。
また、カンパニア州に近く、南東には自然の要塞であるポンティーネ湿地(paludi pontine)が広がっていた場所でもあるので、チェーザレの対ナポリ前線基地として利用することも視野に入れて建てられたとも推測される。
戦略的にすぎる。かっこいい。
- チヴィタヴェッキアの要塞 - 現存するミケランジェロ要塞(Forte Michelangelo)は、1508年ユリウス2世によって作られたもので、ボルジアの時代にはなかった。(基となる古い要塞はあった。)つまりユリウス2世は、ボルジアが始めた海岸線の強化を引き継いでいる。やるじゃん。
- オスティアの城塞 -
- ネットゥーノの要塞 -

4方向に突き出た稜堡が、ハート型になっている珍しい要塞。
大砲の威力から城壁を守るため考案された、星型要塞のはしり。
横からだとわかりにくいけど、四角や円でないことはわかる。
上から見た図。
数字の場所に8人配置すれば、死角がない。
図の、線が2本あるところは攻撃を受けやすい前線で、人員が二重に配置された。
要塞正面入口。手前の石畳は通りの歩道。
この入口は当時はなかった。
門をくぐって中に入ったところ。
この内部の空間は、20世紀の修復で大幅に変更されている。

上の右の写真、階段の上は、連合軍上陸博物館(Museo dello Sbarco Alleato)。
ネットゥーノは、第二次世界大戦で連合軍が上陸したところ。
細長い2階部分が使われている。
中庭の中央と手前にある建物は、市立考古学博物館(Museo Civico Antiquarium Comunale)。
中央は主に発掘されたローマ時代の遺物の部門、手前は先史時代と古生物の部門。
メインは中央の黄色の建物。
2階の右から2番目の窓はチェーザレの部屋!
。
入口上部にボルジアの紋章があるが、剥ぎ取られている。
ボルジア没落後、ネットゥーノを取り戻したコロンナ家によって、剥がされた。
(他にあるボルジア紋章も、牛部分が削られていたりしている。哀。要塞正面にある紋章もボルジアではなく、コロンナとバルベリーニ家のもの。)
チェーザレの部屋内部。発掘された陶器などが展示されている。
1503年5月11日、チェーザレは完成した要塞の視察のため、アレクサンデル6世とともにネットゥーノを訪れている。
1週間ほど、この地に滞在したよう。
1503年に要塞を奪還したコロンナ家は1594年、軍事遠征による借金を返済するために、教皇庁に要塞を売却する。
教皇庁の下で、1655年から1667年にかけて、現在の出入口である橋が架けられ、南東と北西の稜堡に見張り塔が作られる。
1831年、ボルゲーゼ家に売却され、
1870年、国に売却される。
1886年、民間の手に渡り、壁面の修復が行われる。
1920年、所有者はファッシーニ家となり、中庭に回廊が作られ、主塔に上階が足され、内部の配置が変更される。
1960年代、ディア・フィルム社の所有下で、ホテルに転用されるための大きな改築が施される。中庭にプールなどが作られた。が、1970年代に中止された。
1988年、ネットゥーノ市の所有となり、保存修復作業が続いている。

以前は屋上や濠跡にも入れたようだけれど、現在は立ち入り不可。
外壁が修復中なので、終了すれば濠には降りられるようになるかも。
- 開館時間
月曜日〜金曜日
09:30 - 12:30 / 15:30 - 19:00
サン・フランチェスコ教会(Chiesa di San Francesco)
サンガッロ城塞の向かいにある教会。
ネットゥーノで最も古い教会で、基礎は古代の女神フォルトゥーナ神殿の遺跡の上に築かれている。チェーザレの時代には、隣接して修道院と市営墓地があった。
もともとは聖バルトロメオに捧げられていた教会だった。13世紀、ガエタへ向かう途中の聖フランチェスコがネットゥーノに立ち寄った際この教会が彼に寄進され、聖フランチェスコ教会となった。
当時のネットゥーノはコロンナ家の支配下にあり、「1223年にコロンナ家がアッシジの聖人(聖フランチェスコ)に、現在の教会に付属する家屋を寄贈した」という記録が残っている。
長い年月の間に幾度も改修が施され、建築時の構造はほとんど残っていない。
17世紀半ばまで、この教会には二つの身廊があり、床には1482年にアルフォンソ・ダラゴーナに対するカンポモルトの戦いに参加したネットゥーノ市民の名を刻んだ石板がはめ込まれていた。
1660年には、教会は三身廊を備え、側面に六つ、中央に二つ、計八つの副祭壇を持つ構造になっていた。1871年には、古い床が破壊され、大理石の床に置き換えられた。
1873年、入口に設置された碑文が示すように、現在のファサードが建設された。この改修の際、側面の祭壇は四つに減らされた。
20世紀末から21世紀初頭にかけて、床の改修、タベルナクル(聖櫃)の修復、鐘楼の補強が行われ、それと同時に側面の祭壇はすべて撤去された。
教会正面内部の壁には、左右に2つの15世紀のフレスコ画が保存されている。
右側には、マエストロ・カルドラ派に属する画家による祝福する聖アントニオ・アバーテの図が、
左側には、マエストロ・ペトルス作とされる二人の天使に囲まれた聖母子像が描かれている。
右側の壁を支配する大きなテンペラ画「レパントの戦い」は、ネットゥーノ出身のジュゼッペ・ブロヴェッリ・ソフレディーニ(1863-1936)の作品。
中世の街並み(Borgo Medievale di Nettuno)

グリエルモ・マルコーニ広場(Piazza Guglielmo Marconi)、マルカントーニオ・コロンナ広場(Piazza Marcantonio Colonna)(下の写真)を中心とした、中世の街並みを残した旧市街。多くのカフェやレストラン、ホテルがあり賑わっている。
中世(Medievale)と付いているが、起源は中世より古く、ローマ時代のアンティウムの港と神殿に遡る。
(アンティウム(Antium)は、古代ローマ時代の都市で、ネットゥーノと西隣の街アンツィオ(Anzio)の一帯に位置していた。)
皇帝ネロの死後、ゴート族の侵略によりアンティウムが廃墟となる中で、ネットゥーノは新たな中心地となる。
9世紀のサラセン人の侵略、オルシーニ家による要塞化、16世紀の教皇アレクサンデル6世によるサンガッロ要塞の建設などを経て、街は長年にわたり戦略的な要塞都市としての役割を果たして来た。文化・宗教・行政の中心地であり、貴族の館や重要な教会が集まるエリアだった。
海側にはフォンターナ・ヴェッキア(Fontana Vecchia)と呼ばれるローマ時代から存在すると言われる泉があり、包囲戦になった際にも耐えられるようになっていた。
サン・ジョヴァンニ教会やオルシーニ宮殿、パムフィーリ宮殿はこのエリアに建っている。
ネットゥーノの街は二重の城壁に囲まれていた。(↓ 1606年に描かれた地図)
主にイスラムからの攻撃に備えられた城壁は、教皇ベネディクトゥス8世とオルシーニ家によって作られ強化された。
しかし長い年月の間に城壁はその役割を終え、一般の住宅や施設と複合しその一部として現存している。
17世紀、パムフィーリ宮(Palazzo Pamphilj)やセニェーリ宮(Palazzo dei Segneri)の建築の際、城壁の上の歩哨路「マルチャロンダ(la marciaronda)」は撤去された。
さらに20世紀初頭には、城壁の歴史的重要性を考慮しないまま、多くの住宅改修工事が行われた。
新たな入口として、バルアルド通り(Via del baluardo)から、クアルティエーレ通り(Via del Quartiere)が開かれた。

連合軍の上陸作戦の際には、沿岸全域が海上から砲撃され、空から爆撃を受けた。
戦後にはさらに多くの改修工事が行われ、すべての住宅に衛生設備が導入され、鉄筋コンクリート工事やエレベーターの設置など、近代的な構造が加えられることも多かった。
このような改修は、歴史的建造物の保存の立場から反対も多く、課題のひとつになっている。
よく残っていると思うけど!
サン・ジョヴァンニ・バッティスタおよびサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会(Chiesa di San Giovanni Battista ed Evangelista)
ネットゥーノの旧市街、グリエルモ・マルコーニ広場(Piazza Guglielmo Marconi)に建つ教会。
サン・ジョヴァンニ・バッティスタとは洗礼者ヨハネのことで、
サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタとは12使徒の福音記者聖ヨハネのこと。
ややこしいからか、単にサン・ジョヴァンニ教会(Chiesa di San Giovanni)とも言われる。
現在の教会は、1738年に旧教会を解体し、新たに建築されたもの。
設計はカルロ・マルキオーニ(Carlo Marchionni)で、1748年に工事が完了した。
旧教会の歴史は古く、12世紀初頭にはすでに「コレッジャータ(参事会教会)」として機能していたことが伝えられている。
1223年、聖フランチェスコ(San Francesco d’Assisi)がネットゥーノを訪れた時、すでにこの教会の重要性は確立されていた。
(つまり建て直されてはいるけれど、ネットゥーノで最も古い教会と言われているサン・フランチェスコ教会よりも、歴史は古い。)
1656年のペスト流行により、教会の歴史的文書の多くが焼却されたため、正確な建設年など詳細は不明である。
が、教会はかつて海神ネプトゥーヌス(Nettuno)に捧げられた異教の神殿があった場所に建てられ、聖母マリアの被昇天(Assunzione della Beata Vergine Maria)に捧げられた、と言われている。
前に立つ銅像は17世紀のイエズス会説教師パオロ・セニェーリ。セニェーリ宮殿は彼の生家とも言われている。
オルシーニ宮殿(Palazzo Orsini)
グリエルモ・マルコーニ広場(Piazza Guglielmo Marconi)とマルカントーニオ・コロンナ広場(Piazza Marcantonio Colonna)の間にある宮殿。(写真はグリエルモ・マルコーニ広場側。)
コロンナ宮殿(Palazzo Colonna)、
カメラーレ宮殿(教皇庁財務局宮殿)(Palazzo Camerale)、
バローネ宮殿(男爵宮殿)(Palazzo Baronale)とも呼ばれる。
いずれもかつて宮殿の所有者だった名前。
もともとは14世紀末、ニコラ・オルシーニ(Nicola Orsini)によって建てられた要塞だった。
当時この場所はは7メートルの段差によって2つの区域に分かれており、この高低差を利用して城壁が築かれた。
軍事施設として建てられたが、以降500年に渡ってネットゥーノの政治の中心だった。
入口の左わきには、この宮殿の創建を記念する碑文が刻まれている。(上の写真の左端の白い四角のところ。)
ROCCA DELL’ECCELLENTISSIMO SIGNORE NICOLA
ORSINI DI NOLA
PALADINO IN TUSCIA
CONTE DI SOLETO
SIGNORE DEL CASTELLO DI NETTUNO
高貴なる領主ニコラの要塞
ノーラ出身のオルシーニ
トスカーナの守護者」
ソレート伯
ネットゥーノ城の領主
碑文の下には、ニコラ・オルシーニの紋章が刻まれている。

左の写真は、宮殿の向かって左側部分。
コロンナ家の紋章が見られる。マルカントーニオ・コロンナ(Marcantonio Colonna)による都市防衛の強化、トレ・カルダラ(Tor Caldara)の硫黄鉱の開発、そして要塞の拡張・改築を記念するもの。
左端の色の異なる建物は、教皇庁(Camera Apostolica)の統治時代に増築された。この部分を本宮殿とは分けて、カメラーレ宮(Palazzo Camerale Nuovo)と呼ばれることもある。
旧宮殿とは、ヴィコロ・コロンナ(Vicolo Colonna コロンナ路地)の上に架けられたアーチによって結ばれている。
現在、この宮殿はいくつかに分割され、民間所有となっている。カフェやホテルとして利用されている。
ドーリア・パムフィーリ宮殿(Palazzo Doria Pamphili)

マルカントーニオ・コロンナ広場にある宮殿。
カミッロ・パムフィーリによって17世紀半ばに建設された。
設計は、ベネデット・モッリ、建設中にジャンバッティスタ・モーラやフランチェスコ・ブラッティによる変更が行われた。
1760年のパムフィーリ家の断絶後、ドーリア家、さらにボルゲーゼ家へと所有が移った。
1988年にはその一部がアルバーノ司教区に寄贈され、1959年には個人のアパートとして売却された。
内部の装飾はピエール・フランチェスコ・モーラ によるもので、モーセの幻視、聖エウスタキウスの嘆き、ヤコブの幻視、ロトとその娘たちの物語、聖ヨセフの夢 など、バロック美術の典型ともいえるフレスコ画が今も残っている。
古い噴水(Fontana Vecchia)
ローマ時代、またはそれ以前からの古い水脈から溢れる泉。
イタリア語では、湧き水や泉のことも、噴水(Fontana)と言われるのでややこしい。
噴水と言えば、ジュゼッペ・マッジーニ広場(Piazza )にあるネプチューン神の噴水(Fontana del Dio Nettuno)の方が有名で、観光名所になっているが、こちらはチェーザレが訪れたかもしれない泉。

マルカントーニオ・コロンナ広場から続く、ステファーノ・ポルカリ通り(Via Stefano Porcari)の東端にある階段を海辺の方へ降りると、左の写真の場所に出る。すぐ左にあるのが、噴水の入口。
だけど、鍵がかかっていることが多いよう。
セニェーリ宮殿(Palazzo dei Segneri)
ボルゴの西端、同名の広場にある宮殿。1600年半ばに、城壁の歩哨路を壊して築かれた。
宮殿の門の脇と、近くの住宅の入口の上に埋め込まれた2つの碑文には、ともにイエズス会の説教師パオロ・セニェーリ(Paolo Segneri)の誕生を記念する内容が刻まれている。しかし、実際にはこの宮殿は、パオロ・セニェーリの生誕(1624年)よりも後に建設されたものと考えられている。
パオロ・セニェーリは、サン・ジョヴァンニ教会前の銅像にもなっている。
セニェーリ家のネットゥーノ系の系統が断絶した後、この宮殿と広場はソフレディーニ家(Soffredini)の所有となった。
現在、この宮殿は複数のアパートに分割されており、内部には特筆すべき美術的要素は残っていない。
恩寵の聖母と聖マリア・ゴレッティの聖堂(santuario di Nostra Signora delle Grazie e di Santa Maria Goretti)
ジャコモ・マッテオッティ海岸通りの終端、ロリチーナ川の河口付近の海岸沿いに建つ教会。
恩寵の聖母の木像が安置され、
また、11歳で殺人被害者となりその後列聖されたマリア・ゴレッティ(1890年-1902年)の遺体が安置される教会である。
教会は16世紀に遡り、もともと「受胎告知の小聖堂」があった場所に建てられていた。
海に近いことから、風や塩害による損傷が多く、何度も修復が施されている。
- 恩寵の聖母木像
1550年、ナポリに向かっていたイギリスの船が嵐によって難破し、ネットゥーノの海岸に流れ着いた。
当時、イギリスではカトリック教会が弾圧され、聖人の像が破壊されていた。そのため、数人の船員が恩寵の聖母の像や他の聖人像を船に積み、ナポリへ向かっていたのだった。
漂着した聖母、聖ロッコ(聖ロクス)、聖セバスティアーノの3体の像は、当時の「受胎告知の小聖堂」に安置されることになった。
この漂着は聖母の意志の表れと解釈され、3体の像は教会が建て直された今も、同教会に保存されている。
(聖母以外の2体、オマケ扱いすぎる。)
- 聖マリア・ゴレッティ
1902年7月5日、レイプされそうになったマリアは必死に抵抗し「純潔は神様からいただいたもの、汚してはいけません」と叫んだ。逆上した男はナイフでマリアの腹部を何回も刺した。
マリアは病院に運ばれ手当てを受けたが、手遅れだった。最後の聖体拝領を受けて祈りつつ、かすかな声で「彼をゆるします」と言い、息絶えた。
事件は世間に広まり、純潔を守るために命を落とした少女を悼み、葬儀に数百人が参列した。
マリアを殺した男は牢の中で、マリアの夢を見た。マリアは「私はあなたをゆるしています」と言い、1輪の百合の花を男に渡した。男はマリアが自分を許してくれたと確信して、回心した。
1947年、教皇ピウス12世によってマリアは列福され、1950年に列聖された。
少女、貧しき者、青少年一般、および性的暴行の被害者、犯罪の被害者の守護聖人とされる。
ネットゥーノでは、5月と7月に恩寵の聖母と聖マリア・ゴレッティを祝福する祭典が開催される。
アストゥーラ塔(Torre Astura)
ネットゥーノ市街地から南東へ約10キロメートルの距離にある要塞塔。
ローマ時代は貴族の別荘地として栄えた場所に建つ。共和制末期の政治家・哲学者、キケロが好んでいたことで有名。
ローマ帝国の栄華が終わると、別荘や神殿は海賊に襲われ、略奪と破壊が繰り返された。
987年、トゥスコロ伯ベネデット (Benedetto Tuscolano) が、アヴェンティーノのサンタレッシオ修道院 (Sant’Alessio all’Aventino) に、アストゥーラの土地の一部を寄進した。修道士たちはここに教会と修道院を建設した。
トゥスコロ家が断絶すると、フランジパーネ家 (Frangipane) のレオーネとマヌエーレがこの地を受け継いだ。
1193年、塔はフランジパーネ家 (Frangipane) によって建てられた。サラセン人の攻撃に備えたもにで、五角形の塔を持つ海上要塞だった。海に囲まれ、レンガ造りのアーチ橋によって本土と結ばれていた。
フランジパーネ家 は由緒ある名門で、ダンテ・アリギエーリの祖先とも言われる名家だった。
15世紀、要塞はカエターニ家 (Caetani) 、オルシーニ家 (Orsini) を経て、コロンナ家 (Colonna) の所有となり、彼らによって改築され現在の姿となった。
ボルジア家がナポリと開戦していたなら、この要塞塔も活躍していたかもしれない。
その後、1594年にアルドブランドーニ家(Aldobrandini)の教皇クレメンテ8世に売却された。
アルドブランドーニ家が断絶すると、所有はボルゲーゼ家 (Borghese) に移り、1970年代にネットゥーノ市 (comune di Nettuno) に譲渡された。
アンツィオ Anzio
ネロニアーノ港(Porto Neroniano)
現在のアンツィオ港(Porto di Anzio)。
ティレニア海に面した港湾施設であり、観光、商業漁業、レジャー用の港湾 として機能している。
チェーザレの時代には、ローマ皇帝ネロの築いた港、ポルト・ネロニアーノだった。
(ネロはアンツィオ生まれの皇帝で、アンツィオの開発に力を入れた。彼は著名な建築家セヴェルス (Severo) とケレル (Celere) に港を建設させた。)
この頃ネロニアーノ港は、荒廃していたがまだ使用可能、といった感じだった。
1494年、シャルル8世のイタリア侵攻時、フランス艦隊はジェノヴァからオスティアへ向かった。
教皇アレクサンデル6世はこれに対応し、オスティアとネロニアーノ港に教皇庁とナポリの軍を集結させた。
ネロニアーノ港のあるアンツィオは、当時ネットゥーノとともにコロンナ家の支配下にあり、同家も住民もフランス支持だった。教皇・ナポリ軍は、港を巡ってコロンナ家と睨み合うことになった。
フランスに雇用されていた傭兵隊長カミッロ・ヴィテッリ(Camillo Vitelli)(ヴィテロッツォの兄)がコロンナの援軍として派遣され、教皇・ナポリ軍はテッラチーナ(Terracina)(ネロニアーノ港から南に60キロのナポリ王国領)にまで撤退させられてしまう。
この時の苦い経験からか、アレクサンデル6世はこの港が敵(フランスやスペインなどの外国勢力。イスラム。またはナポリ王国)に利用されることがないよう、埋めさせた、と言われる。
(埋めたのは後の教皇シクストゥス5世であるという説もある。)
また、逆にネットゥーノの要塞はこの港守るために作られたとも言われる。
17世紀には完全に廃れていたが、1691年2月2日、コンクラーヴェに参加するため、ナポリからローマへ向かっていた枢機卿アントニオ・ピニャテッリ (Antonio Pignatelli) は、激しい嵐に遭遇し、やむを得ずこの港に避難した。
彼は地元の人々の温かいもてなしに感謝し、もし自分が教皇に選出されたならば、港を再建することを約束した。
彼は教皇イノケンティウス12世 (Innocenzo XII) となり、著名な建築家カルロ・フォンターナ (Carlo Fontana) に港の復旧を命じた。
西側の防波堤 (braccio di ponente) には、現在も一部チェーザレ時代の港の遺構が残っている。
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