チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ピサPisa

ピサ Pisa

ピサ駅

鉄道で、フィレンツェから約1時間。
駅は惣領冬実「チェーザレ」で言う「ドメニコ会の管轄する地区」にあります。
駅から斜塔や大聖堂のあるドォーモ広場まで、徒歩で約20分ほど。
駅前からのバスだと約10分ほどです。
大学や旧メディチ邸はアルノ河のそばにあり、徒歩で約10分ちょっとです。

10世紀頃から東方貿易によって栄え、ジェノヴァやヴェネツィアと肩を並べるほどの海運都市となる。(現在は海から約10キロほどの距離にあるが、13世紀後半までは、海に面していた。)
13世紀、対ジェノヴァ戦での敗退やアルノ河河口への土砂の堆積、マラリアの流行などによって衰退、その権勢を失ってゆく。
1406年にフィレンツェに占領され、以後数回の自治権回復はあるものの、フィレンツェによる干渉を受け続けることとなる。
1491年から、ロドリーゴがアレクサンデル6世として教皇に選出される1492年8月まで、チェーザレはピサの大学へ通った。
学友にはロレンツォ・イル・マニフィーコの次男で、後に教皇レオ10世となるジョヴァンニ・デ・メディチがいた。

  • メッツォ橋 -
  • メディチ邸 -
  • アルノ河の風景 -
  • サン・ミケーレ・イン・ボルゴ教会 -
  • ピサ大学 -
  • サン・フレディアーノ教会 -
  • カヴァリエーリ広場 -
  • 大司教邸 -
  • 大聖堂 -
  • ドゥオーモ広場 -
  • シノピエ美術館 -
  • サン・ピエトロ・ア・グラード教会 - 縮尺のマイナスを3回クリックし広域で見ると南西のほうにあります
  • ピサ駅 -


※写真にマウスを置くと、多少の説明が出ます。

メッツォ橋(Ponte di Mezzo)

9月20日広場(Piazza ?? settembre)側のメッツォ橋 メディチェオ通りから見たメッツォ橋と市の情報センター
駅からイタリア通り(Corso Italia)をまっすぐに進むとつきあたる橋。
おそらく、惣領冬実「チェーザレ」1巻で、チェーザレ&ミゲルがフランス団と乱闘し、アンジェロが河へ落ちたところ。
116ページ左上のコマの、塔のある建物が、右の写真と同じものだと思う。現在は市の情報センター(Punto Informazioni Comune)として使われている。
チェーザレたちは夕食後、アルノ河を右手に見ながら、ガリレオ・ガリレイ通り(Lungarno Galileo Galilei)を通って、このメッツォ橋にさしかかったと思われる。




メディチ邸(Palazzo dei Medici)

正面入り口は県庁部分への入り口。入れません。 右後ろ側がサン・マッテオ博物館。
メッツォ橋を渡ってから右に折れ、アルノ河を右手に見ながらメディチェオ通り(Lungarno Mediceo)をまっすぐに行くと、左手にある。
ジョヴァンニ・デ・メディチがピサ大学に通っていたときに住まっていた。門の形は改装により変わっているが、惣領冬実「チェーザレ」1巻55ページに描かれているものと同じ建物。
現在は県庁(Prefettura)として使われている。正面から見て右後ろ側はサン・マッテオ国際博物館(Museo Nazionale di San Matteo)。入り口はメディチェオ通り沿いにある。




アルノ河の風景(Paesaggi del fiume Arno)

カヌーがいっぱい浮かんでいたので、いなくなるまでかなり待ちました・・・ 堤防に上れる階段があります。
左の写真は、メディチェオ通りをメディチ邸のさらに先へ進んだところにあるフォルテッツァ橋(Ponte della Fortezza)から撮ったアルノ河の風景。
惣領冬実「チェーザレ」1巻66、67ページの見開きに描かれているものとほとんど同じ風景が見られる。(同じものが3巻127ページなど数ヶ所使われている。)
左岸に見える2本の塔が目印。奥の細い方は、メッツォ橋にある市情報センターの塔。手前の太い方は、サント・セポルクロ教会(Santo Sepolcro)の塔。
右の写真は、メッツォ橋〜メディチ邸の間にある堤防から撮ったもの。




サン・ミケーレ・イン・ボルゴ教会(Chiesa di San Michele in Borgo)

小さな教会です。

メッツォ橋の前にあるガリバルディ広場(Piazza Garibaldi)を右奥に進んでいくと、小さな商店街のような通り(Borgo Stretto)に出る。そのすぐ右手にある教会。
現在は焼失しているが、教会左手に修道院があり、チェーザレの時代には、そこで大学の授業が行われていた。
「教室がせまくて困る」という手紙が残っているんだって!

たぶんメルカンティ通り(Via Mercanti)

10世紀後半〜11世紀初頭に建てられた教会。

教会左手の路地。→
修道院はこの辺に?




ピサ大学(Universita di Pisa la Sapienza)

クルタトーネ通りの大学外観。たくさん撮った写真はつまらんミスで全て失われ、この3枚しか残ってません。 次の日撮り直しに行きましたが、大学は・・・閉まってました・・・。
チェーザレやミゲル、ジョヴァンニ・デ・メディチが通っていたピサの大学。

メッツォ橋を渡り左に折れ、パチノッティ通り(Lungarno Pacinotti)を少し行き、クルタトーネ通り(Via Curtatone)(この通りは大学の側だけあって、本屋が多い。)という細い道を入っていくと左手にある。(左上の写真)

クルタトーネ通りの先にあるセラフィニ通り(Via Serafini)に入って行くと、正面に見える入口が右上の写真。
チェーザレが初めてマキァヴェッリと言葉を交わしたところ(3巻Virtu23表紙)に似ている。
奥に見える中庭が、チェーザレがアンリを相手に闘牛をしたところだ。

フラッシュを焚かず、こっそりひっそり撮りました。邪魔はしてないと思います・・・。

左の写真はウリヴォ通り(Via dell'Ulivo)側にある1階の教室。
1階の一部はチェーザレ在学中に存在していたというので、チェーザレはここで授業を受けていたかも!
2階の回廊の手すりには、鳥避けの微弱電流が流れていて、うっかり触ると驚く。ミゲルを真似て寄りかかる時には注意。
アンジェロが座っていたベンチ、チェーザレが飛び降りた階段、だと思えるものも見られる。

ちなみに大学の北側の広場(大学とサン・フレディアーノ教会の間の広場)の名前は、ダンテ・アリギエーリ広場(Piazza Dante Alighieri)。




サン・フレディアーノ教会(Chiesa di San Frediano)

ロマネスク様式。典型的なピサの中世建築、だそう。 17世紀、火災に見舞われたにもかかわらず、建設当時の形を保っているらしい。

大学前のクルタトーネ通り(Via Curtatone)をまっすぐ北に向かうと、左手にある。
(この通りは教会の前から名前を変えて、サンフレディアーノ通り(Via San Frediano)となる。)大学の2つ隣。

チェーザレとマキァヴェッリが「ローマ帝国の末裔として」イタリアの平和を願った教会。(7巻。Virtu 61)
マキァヴェッリは降誕祭のミサもここで参加している。(7巻。Virtu 55)
11世紀に建てられた教会。




カヴァリエーリ広場(Piazza dei Cavalieri)

Virtu 46はもう少しオロロージョ宮を正面にして描いてあります。 写真には写ってませんが、カノニカ宮の左にはサント・ステファーノ教会があります。
大学からサン・フレディアーノ教会の前を通ってまっすぐ行くとつきあたる。模擬戦の祝勝会の行われた広場。(「チェーザレ」6巻)
中世の時代からピサの政治の中心であり、市民の集会場だったところ。
現在はカヴァリエーリ広場であるが、チェーザレの時代にはアンツィアーニ広場(Piazza degli Anziani)と呼ばれていた。
左の写真はVirtu 46の表紙とほとんど同じアングルで撮ったもの。
中央左側の建物(Palazzo dell'Orologio)の場所に、当時は飢餓の塔があった。
右の建物はカヴァリエーリ宮(Palazzo dei Cavalieri)(カロヴァーナ宮(Palazzo della Carovana)とも)。当時はアンツィアーニ宮と呼ばれていた。チェーザレたちが食事をしていたところはこの柱廊部分と思われる。(改築されていて、今はない。)

右の写真は、左の写真の向かい側にあたる部分。
左の濃いオレンジ色の建物(Palazzo della Canonica)と中央のベージュ色の建物(Palazzo del Consiglio dei Dodici)の間の細い道が、大学へ至る道。




大司教邸(Palazzo Arcivescovile)

大司教邸外観。アンジェロは「宮殿のよう」と言っていましたが(1巻)宮殿には見えません。 建物内には入れませんが、中庭まで行って写真を撮るくらいなら、とがめられませんでした。
カヴァリエーリ広場から、オロロージョ宮のアーチをくぐって、ファッジョラ通り(Via della Faggiola)を北上すると、つきあたりに見えるのが、大司教邸のわき腹部分。
左に折れて小さい広場(Piazza Arcivescovado)に出ると、正面にまわる。
1巻49ページなどに描かれているものと、ほとんど同じ構図で見られる。((左上の写真。)
右上の写真は、正面入り口を入ったところ。
3巻Virtu 15の1ページ目のカラーなどに描かれている。

当時は2階建てですが増築されているようです。 形が大学の建物ととても似ていると思います。
右上の写真は、正門を中庭から見たところ。出てまっすぐに行くと斜塔のあるドゥオーモ広場。間にある博物館などが当時はなく、2巻51ページで、ミゲルとアンジェロが出て行くシーンに、扉から斜塔が見えている。




大聖堂(Duomo di Pisa)

ピサ大聖堂ファサード。

大司教邸を背にするとピサの斜塔が見える。その奥にあるピサの大聖堂。
斜塔側は教会の裏側なので、正面入り口へはぐるりとまわらなければならない。
(チェーザレ・・・大司教邸から毎朝ぐるっとまわってたのか・・・めんどくさかったろうね・・・裏口から入りたかったろうね・・・。)
チケットはシノピエ美術館で購入する。
(大聖堂、斜塔、洗礼堂、シノピエ美術館のチケットは全てここで販売されている。チケットの種類がいくつかある。(大聖堂、洗礼堂、シノピエの中から2つ選択、とか。斜塔だけは別料金。))

教会内部。扉口から。 教会内部。側廊から。 皇帝ハインリヒ7世の墓。

左上の写真は、聖堂内部を正面入り口から主祭壇に向かって撮ったもの。中央後陣にあるキリストのモザイク画「玉座のキリスト」は、チェーザレの時代と同じものだ。(左下の写真が、そのアップ。)
同じく左上の写真の、中央左に白い四角っぽいものが見える。それがピサーノの説教壇。(1番下の写真が、そのアップ。)1302年から9年間をかけて、作られた。

右上の写真は皇帝ハインリヒ7世の霊廟。12使途はちゃんとそろっている!(右下の写真が、そのアップ。)

キリストのモザイク画 皇帝の霊廟アップ

ジョヴァンニ・ピサーノの説教壇

対イスラムとの戦勝や東方貿易で得た富をもとに、1063年に着工され、12世紀初頭に完成した。内部の円柱の多くはパレルモの会戦で略奪したイスラムのもの。他にもロマネスク、ビザンティン、アルメニアなど、様々な様式が混合している。






ドゥオーモ広場(Piazza del Duomo )

右端に見えている建物が洗礼堂です。 聖堂のすぐ右には斜塔があります。

上の写真の中央のややでっぱってる所が、この写真と同じところです。

斜塔、大聖堂、洗礼堂、城壁、シノピエ美術館に囲まれた広場。北の端、城壁沿いには 墓所(カンポサント)もある。模擬戦の行われたところ。(「チェーザレ」5巻)
イタリア語では「奇跡の広場」(Piazza dei Miracoli)の名で通っているよう。
上の2枚の写真はVirtu 40に見開きで描かれている広場の構図で撮ったもの。(かなりずれてるけど。・・・すみません)
城壁入り口の形はチェーザレの時代のものとほとんど一緒である。(左の写真。)
観光客が集中し、たくさんの出店が出ていてにぎやか。模擬戦の熱気を疑似体験?できる。




芝生でなごんでいる人たちがたくさんいました。斜塔を支えるポーズで写真を撮る人も。 天気はよかったのに雲が多いですね。
左の写真は2巻Virtu 8に見開きで描かれている広場の構図で撮ったもの。そっくりの絵ハガキが売られているので、探してみるのも一興かも。(同じ写真を利用した、2種類のハガキがあった。)
右の写真は、広場に寝そべって撮ったピサの空。「死の間際にこの空を仰ぎ見る猶予はあるのだろうか?」(5巻、Virtu 44)




シノピエ美術館(Museo delle Sinopie)

斜塔、聖堂、洗礼堂、墓所のチケットの販売所も兼ねています。 塔部分と、建物右側の窓の形は変わりません。
シノピエとは下絵の意味。第2次世界大戦の爆撃によって破壊されてしまった、墓所(カンポサント)の納骨堂に描かれていた、フレスコ画のシノピエを、ここで展示している。
「チェーザレ」3巻、Virtu 21と22で、アンジェロが学生名簿でチェーザレの履歴を読んだのは、ここ。(右の写真は3巻で描かれているものと同じ構図で撮ったもの。)(チェーザレが「この私がこの世に存在しない人間だと?」「ふざけるな」と去っていくページの次ページ。)
もとは13世紀〜14世紀に建てられたヌォーヴォ・デッラ・ミゼリコルディア(nuova della Misericordia )という名の病院だったというが、現在でも南側に連なる部分は、サンタ・キアラ病院(Ospedale di Santa Chiara)となっている。
3巻末に写真と解説がある。




サン・ピエトロ・ア・グラード教会(La basilica di San Piero a Grado)

Autore=Manfred Heyde

ピサから南西へ約6キロほど下った街サン・ピエトロ・ア・グラードにある教会。使途聖ペトロ教会(Basilica di San Pietro Apostolo)とも呼ばれる。
44年にイェルサレムを発った聖ペトロが、ピサのこの地に上陸したことを記念して建てられた。
火災や洪水のために数度再建され、現在見られる姿は10世紀のもの。

チェーザレの時代の海岸線はこの辺りにあり、当時はピサ港の端にある教会だった。
「チェーザレ」10巻、Virtu89に登場する。

外観はチェーザレの時代からほとんど変わっていないが、後陣にあった鐘楼は1944年にドイツ軍によって破壊された。基礎部分だけが残っている。




ピサ街図

GoogleMapの貼りつけ方がわからなかった時に、手描きでつくった地図です。
せっかくだから載せてみました。超苦労して描いたから・・・。

①メッツォ橋  ②旧メディチ邸  ③アルノ河の風景  ④サン・ミケーレ・イン・ボルゴ教会
⑤ピサ大学  ⑥サン・フレディアーノ教会  ⑦カヴァリエーレ広場  ⑧大司教邸  ⑨大聖堂
⑩ドゥオーモ広場  ⑪シノピエ美術館

ピサ街図。




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