チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

チェーザレがレオナルド・ダ・ヴィンチへ与えた通行証。

手紙

手紙


チェーザレの手紙

パンプローナ市議会への手紙

パンプローナ市議会への手紙

1491年9月17日、ピサ大学で教会法を学んでいた16歳のチェーザレがパンプローナの司教に叙任された時、パンプローナの市議会へ宛てて書かれた手紙。
ピサではなくソリアーノで書かれている。大学の休みを利用して、ソリアーノへ狩りに出かけていたよう。

トレドの司祭マルティエ・カノンを代理人として派遣するので、何事も彼に任せ、また彼を助け指揮することを依頼している。
「もしこの高貴な都市、あなた方の福利、あるいは一般的な利益に影響する特別な事情があれば、私たちはそれを自分のことのように考えるので安心してください」
と締め、
パンプローナに選出されたセサル・ボルハ
とスペイン語で署名している。
(下記に同日に書かれた教皇インノケンティウス8世の叙階告知の手紙もあります)

すごく丁寧に活字のような文字を書いているけれど、このようにラテン語で美しい手紙を書くことも教養のひとつとされていた。16歳のチェーザレの優秀さがうかがえる。
そして手紙は成長とともにさらに美しくなっている。(ように見える。下記の手紙参照。ダ・ヴィンチへの通行証も。)



スペイン、パンプローナ市立公文書館所蔵。






ピエロ・デ・メディチへの手紙

画像の説明






弟ホアン・ボルジアへの手紙

同じ1枚の紙の裏表。
1494年4月18日、ローマで書かれたもの。
チェーザレから弟ホアンへの手紙 チェーザレから弟ホアンへの手紙

ガンディア公としてスペインにいるホアンに宛てて書かれた手紙。

1. 教皇アレクサンデル6世とナポリ王アルフォンソ2世の同盟が決定したこと
2. それによってモンレアーレの司教ホアン・ボルジア(el mayor、サヴィオ)が教皇公使に任命されたこと
3. 2人の弟ホフレが婚姻のためナポリへ赴くことになったこと

を伝えている。

また、
ナポリ王からあなたに最大の栄誉が捧げられ、
年間12,000ドゥカートの収入に相当する
トリカリコ公国(prinçipat de Tricarico)(イタリア、バジリカータ州)、
カリノーラ伯領(comdat de Carinola)(イタリア、カンパニア州)、
クララモンテ伯領(comdat de Claramonte)(スペイン)
割譲されることなった。これはあなたを心から愛し、あなたを偉大にすることだけを考えておられる聖下が、あなたの主権のために得られたものだ。
このことは、私があなたに抱かずにはいられない大きな愛と同様に喜ばしいことである。」
と書いている。
そして、
「報告が遅れてしまったのは、少し体調が悪かったのでスティラーノ浴場(baños de Stillano)へ行き、昨夜までそこに滞在していたからである。我々の主なる神の恩寵によって、とても健康になって戻って来た。」
と言いわけしてる。

結びは、
「あなたを自分のように愛してやまないあなたの兄、
ヴァレンシア枢機卿チェーザレ(セザール)」

宛名は、
「最も高名なる紳士であり、弟であるガンディア公爵、
トリカリコ公、カリノーラ伯、クララモンテ伯」
(新たに与えられた爵位を3つ並べて書き添えてるの、いいね!
良かったね!と讃えているようでもあり、ちょっと恩着せがましい感もあり、お兄ちゃんぽい。)

字が…他の人に書いてる手紙より、明らかに雑だと思うんだけど!?
それに画像左の真ん中より少し上、「lo més bell stat del Realme,」のR、間違えて書いた文字をごまかしてため、太字になってるように見える。
チェーザレ、ホアン相手だから手抜いてない?


同じ日にアレクサンデル6世、モンレアーレ司教ホアン、ペルージャ司教ホアン・ロペスも、ホアンに上記の1. 2. 3. を伝える手紙を書いている。
アレクサンデル6世の手紙は、加えてホアンの散財を叱責する内容が書かれており、チェーザレの手紙の2.5倍ほどある。


スペイン、ヴァレンシア大聖堂文書館(Arxiu de la Catedral de València)所蔵。






イザベッラ・デステへの手紙

イザベッラ・デステへの手紙

1502年6月12日に書かれたもの。
1501年末、ゴンザーガ家の長男フェデリーコとチェーザレの娘の結婚が交渉される。
チェーザレは「我々の結びつきは大きな利益をもたらす」と満足の意を告げている。


チェーザレのサインの後に彼の書記官であったアガピート・ゲラルディのサインが見てとれる。


マントヴァ、州立公文書館所蔵。






フランチェスコ・ゴンザーガへの手紙

Lettra di Cesare Bogia

1506年12月7日、ナヴァーラ王国パンプローナにて、マントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガに宛てて書かれた手紙。
(左上に日づけが書かれているのがわかる。)
フランチェスコはチェーザレの妹ルクレツィアの義理の兄にあたるので(ルクレツィアの夫アルフォンソ・デステの姉イザベッラ・デステの夫が、フランチェスコ・ゴンザーガ)、
チェーザレにとっても義兄となる。
(サインの上部に「eminor fratello」(younger brotherという意味)と書かれている。)
マントヴァ、国立古文書博物館所蔵。


1506年10月、チェーザレはメディナ・デル・カンポの城モタから脱走、妻シャルロットの兄、ジャン・ダルブレの国であるナヴァーラ王国の首都、パンプローナを目指す。
12月3日、多くの困難を乗り越え、チェーザレはその地にたどり着く。

数日後、チェーザレはマントヴァ侯と義弟イッポーリト・デステに向けて自由宣言の手紙を書き、秘書のフェデリーコをイタリアへ送る。
この手紙はその時チェーザレの書いた、人生最後の手紙。
塩野七生著「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」314ページにほぼ全文の訳が載せられている。
いわく、
「多くの苦難の末に、神は私を捕囚の身から解き放ち、自由を与えるよう決心された。この手紙を持って行く私の秘書官フェデリーコが、その詳細について報告するであろう。現在私は、ここパンプローナに、ナヴァーラ国の高潔なる王並びに王妃と共にいる。ここには、12月3日に到着した。」

チェーザレ解放のニュースは各方面に大きな衝撃を与える。震駭したユリウス2世はフェデリーコを捕らえ投獄、ボローニャで処刑してしまうという暴挙にまで出た。








チェーザレ関連の手紙

インノケンティウス8世の手紙

インノケンティウス8世の手紙

1491年9月12日、インノケンティウス8世は16歳のチェーザレをパンプローナの司教に叙階。それを告知する同月16日に書かれた手紙。

(上記に同日に書かれたチェーザレがパンプローナ市議会に書いた手紙もあります)



スペイン、パンプローナ市立公文書館所蔵。






その他のチェーザレの文書

レオナルド・ダ・ヴィンチへの通行証

  • レオナルド・ダ・ヴィンチに与えた通行証
    (Lasciapassare di Cesare Borgia un Leonardo da Vinci)

1502年8月18日、チェーザレがレオナルド・ダ・ヴィンチに与えた通行証。
チェーザレの領土内のどこにでも通行税を取られることなく自由に往来でき、どの建物の中にも出入りでき、あらゆる場所で便宜を図ってもらえる開封特許状(勅許状)。

チェーザレがダ・ヴィンチに与えた通行証

レオナルド・ダ・ヴィンチは1502年5月頃、ウルビーノにいるチェーザレを訪れ、チェーザレの建設技術顧問・軍事設備顧問になる。
7月25日、チェーザレは供を4人だけ連れてアスティのルイ12世に会いに行く。彼の行動は突発的で、行き先を知っている者はほとんどおらず、レオナルドはノートに「公爵はどこだ?」と書いている。
チェーザレは通行証を8月18日にパヴィアで署名しレオナルドに郵送しているので、チェーザレ不在中に仕事の滞ったレオナルドの訴えが旅先のチェーザレに届き、急ぎ書かれたものなのかも。
しかしチェーザレのことなので、ルイ12世と談合しながらもあらゆることに思考を巡らし、抜かりなく手回しした、と考える方がありそう?

レオナルドが「公爵はどこだ?」(Dove il Valentino)と書いているのは、ノートの端の覚え書きで、いつ書かれたものなのかはわかっていない。
ので、自分を建築技術士としてチェーザレに売り込みたいレオナルドが、神出鬼没で有名だったチェーザレとどこで会えるのか?と考えていた時にメモしたもの、という説もある。

レオナルドが後に愛弟子サライに与えたというチェーザレのマント(ケープ)は、この時通行証と一緒に付与されたらしい。
レオナルドはこのマントを羽織り、ロマーニャを視察し、壕の長さや中庭の広さを歩測で計り、四分儀という機器で城塞の凸凹を測り、その結果と感想をノートに記した。

このようにして同年秋、イモラの地図が描かれた。

レオナルドはチェーザレのもとを離れてからもずっとこの通行証を所持していた。(だから現存してるわけだけど!)
自分の書いたものはたくさん残してるレオナルドだけど、他人に書いてもらったものは希少なのでは…?思い出があったのかな?


訳:
『神の恩寵によりて、ロマーニャおよびヴァレンティーノ公、アンドリア君主、ピオンビーノ他の領主、また神聖なるローマ教会の旗手にして教皇庁軍総司令官たるフランスのチェーザレ・ボルジアは、
我が総督、城代、指揮官、傭兵隊長、役人、兵士、および全ての臣民に本証をもって告ぐ。
本証を持つ我が親愛なる偉大な友、建築および技術総監督レオナルド・ダ・ヴィンチに代わりこの証書によって命ずる。
彼は、我が領土のあらゆる家屋および城塞を視察し、必要である時には自らの判断に基づいて補修する任を負っている。
彼には自由な通行を保証し、本人および同行者に対する全ての税を免除すること。
また彼を友好的に遇し、彼の望むがままに測量、調査を行わせること。
そのために彼が必要とするだけの人員を提供し、彼の望むあらゆる援助と便宜を与え、協力を惜しまぬこと。
我が領土において行われる工事の全ては各技術者が彼と協議し、その意見に従うこと。
それが私の意志である。
あえてこの命に反する者は、私の大いなる不興を買うことになるだろう。

1502年8月18日、パヴィアにて
ロマーニャ公爵叙爵2年目の年に
チェーザレ』



序文と結びはラテン語、本文はイタリア語で書かれている。
1行目に8つほどあるカタカナの「イ」みたいなものは、装飾された文字。(厳粛な印象を与えるものらしい。でも屋根と壁でも描いてるみたい)

中央下部にチェーザレの封蝋印、その上に書記官アガピート・ゲラルディのサイン。左右に副書記官2人のサイン(Mandato Illtstrissimi DucisとF.Martius)
チェーザレのサインは下部が折られているので隠れて見えないが、左端にある。(少しだけ見える。)
チェーザレの印の裏には、教皇アレクサンデル6世の印が捺してある。(見えない)
羊皮紙。

すごく丁寧に活字のような文字を書いているので几帳面!?と思ってしまうけれど、このようにラテン語で美しい手紙を書くことも教養のひとつとされていた。チェーザレが16歳の時に書いた手紙も美しくて、彼の神童ぶりがうかがえる。



ミラノ、ヴァプリオ・ダッダ、メルツィ・デリル文書館(Archivio Melzi d'Eril)所蔵。






ローレンツ・べハイムへの質問状

ドイツ人人文主義者で、科学者、化学者、医師、占星術師、錬金術師、軍事技術者、百科事典学者、などさまざまな顔を持っていた万能の人、ローレンツ・べハイム
彼は22年間ボルジアに仕え、チェーザレの要望で毒物や兵器の研究をしていた。

チェーザレがべハイムに送った質問のリストが残っている。

べハイム博士へのチェーザレの質問状

両面に書かれた1枚の紙片。筆跡を見るに本人直筆。
ドイツ、ニュルンベルク市立図書館所蔵。



約90におよぶ質問で、

  • 宝石(カーネリアンやサファイア)の作り方
  • 鉛などの金属からエメラルド、トパーズ、ルビーを作る方法

のような錬金術の域を出ない呪術的(夢想的?)な要望もあるが、

  • 橋を壊して水の上を歩く方法
  • 溺れないようなベルトを作る方法
  • 窓まで登り侵入できる長い槍を作る方法
  • 砲弾で撃ち敵の大砲を割れる火薬を作る方法
  • 鉄を使わず壁を壊す方法
  • 眠り薬を作る方法
  • それをカタパルト(投石機)で城に投げ込む方法

のような実際の戦闘を有利にするためのアイディア、また、

  • 人工的に記憶を作る方法
  • 離れた城と城にいながら会話する方法

のような恐ろしい発想もしている。(すごい…)


そして毒殺のボルジアの名にふさわしく「毒物(De venenis)」の項目を挙げ、
(左の写真の右側上方)

  • 杯、塩、匂い、部屋、鞍、鐙、砂糖、泉、川、井戸、時間、日の中、月の中
    に薬物を混入できないか
  • その薬物で人や馬を健やかにも熱病にもできないか

と尋ね、

  • それを敵の城内に投げ込む

ことを希望している。

(チェーザレは征服地の略奪を禁じていたことからわかるように、これから自分の所領となる地をできるだけ無傷で手に入れたいと考えていた。
戦闘が続けば続くほど街や城は荒れてしまうので、敵だけを速やかに抹消できる方法=毒ガス的なもので人だけ殺したい(または眠らせてその間に事をすませたい)、と思っていたよう。)



次の項目では「勇敢なもの(In cose galante)」と題し、

  • 卵、鶏、予言、人影、足をひきずっている牝馬、何も食べない馬…

と書かれている。が、意味はよくわからない!
病気の馬の治療薬や、敵の馬を弱らせる手段が欲しかったのかも?


次の項目は「文具に関すること(In cose pertinenti a cancelleria)」。

  • 手紙や封蝋を偽造できないか
  • 封蝋された手紙を開き、また閉じることができないか
  • 人体やシャツに書くことはできないか
  • 鉄に書くことはできないか
  • 書いた15日後に透明になるインクはできないか
  • 火や鏡、水、点など特別なものを利用することでしか読めないような方法はないか
    (「点」の説明としてサイコロのようなものを書いている。)
    (右の写真の左側、下から9行目)
  • 機密を伝える使者が「文字を食べる」ことはできないか

(チェーザレは情報が敵に漏れないよう暗号を重視していた。ので、奪われたら終わりの手紙を使用せず情報を伝達する手段が欲しかった?例えば使者が内容を丸ごと暗記して運ぶような?それを「文字を食べる」と表現してるのかも。暗記パンじゃん!?)

そして「機械的なもの(In cose meccaniche)」という項目。

  • 思考、話す死者の頭、金色の鉛、トラムダル(tramudar)(?)、動物、地球、人影、目を向ける

最後に、

  • 農業のこともあれば、装飾品を着た女性もいる
    「In Agricultura alcune cose, In ornamenti le donne」

と書かれているが、その下に質問はなく空欄になっている。
(右の写真の右下。よく見ると上記の文字がわかる。)



チェーザレがこの質問状を書いたのがいつ頃なのかはわかっていない。が、内容から1500年〜1503年頃であることは間違いないと思う。

計り知れないチェーザレの興味関心に、べハイムがどのような回答をしたのかは残っていない。






ロドリーゴ・ボルジアの手紙

ロレンツォ・デ・メディチへの手紙

Lettera di Rodrigo Borgia a Lorenzo il Magnifico

1473年10月12日、ピサにて書かれた、枢機卿ロドリーゴ・ボルジアからロレンツォ・イル・マニフィーコへの手紙。
フィレンツェ、メディチ古文書館(Archivio di stato Mediceo)所蔵。

1472年5月、教皇特使としてスペインへ派遣されたロドリーゴは、カスティーリャとアラゴンの関係を調停し、レコンキスタ完了のために大いに寄与する。
翌年9月、ロドリーゴはヴェネツィアの2隻のガレー船にてローマヘの帰国の途につく。
しかしトスカーナ沖を航行中、船は嵐に見舞われ、1隻は沈没し、ロドリーゴの乗っていたもう1隻もピサの海岸へ打ち上げられてしまう。
同行していた3人の司教は溺死し、3万ドゥカートもの所持品が海に沈んだ。
この時、ロレンツォ・デ・メディチはすぐさまピサに人員を派遣し、ロドリーゴを見舞わせ、積荷の回収に努めた。
(惣領冬実「チェーザレ」では、海賊に襲われピサ港に逃げ込んだところを、ロレンツォによって助けられた、とされている。(Virtu 67))

手紙は、ロドリーゴがロレンツォへ向けて、ピサでの海難を知らせ救援を求めたもの。
ロレンツォに対して「最も親愛なる友人、偉大なる方」(Magnifico viro domino Laurenzio de Medicis amico nostro carissimo)と呼びかけ、受けた被害の重大さを訴えている。




  • 教皇子午線を決定した教皇勅書
    1492年の新大陸発見により、スペインとポルトガルの間で土地の所有と統治権を巡って争いが起きた。
    両国の会合は合意に至らず、1493年、教皇アレクサンデル6世は勅書により勢力分解線を決定した。
    しかしこの勅書は大幅にスペインに有利になっており、ほとんど守られることはなく、翌1494年、ポルトガルの勢力圏を拡大したトルデシリャス条約が締結された。






ルクレツィアの手紙

アレクサンデル6世への手紙

ルクレツィアの手紙

1494年6月10日、ペーザロで書かれたもの。
夫となったジョヴァンニ・スフォルツァの所領ペーザロに到着した時の喜びと、歓迎されたことを父(アレクサンドル6世)に報告している。
またローマの状況(フランスのシャルル8世がナポリ王国の継承権を要求しイタリアへ侵攻しようとしている)を心配し、教皇に自分の安全を守るよう強く求めている。

訳:
主なる神の恩恵により、私たちはここペーザロに無事到着しました。
雨に邪魔されたにもかかわらず、私たちは大々的な歓迎を受け、何より多くの人々の熱狂で迎えられました。そして美しく快適な屋敷の中でも祝典が催されました。
このことはフランチェスコ卿にお伝えします。フランチェスコ卿なら、すべてを陛下にお伝えしてくださると思います。
ローマは現在、非常に病んでいると聞いています。
聖下がローマにいらっしゃるという事実に、私たちはみな大きな悲しみと憂慮を感じておりますので、できるかぎりそこをお離れになって下さるようにお願い致します。
それができないのであれば、大きな警戒心と思慮深さをお持ちになって下さい。
これは聖下を責めているのではなく、私の大いなる親愛の情によるものであります。

聖下には、聖下の永遠の奴隷である私の主君と私自身を覚えていてくださるようお願いする以外には何もありません。

ペーザロ、1494年6月10日。

神のご加護を
ルクレツィア・ボルジア・スフォルツァ

(ちょっと後半の訳変ですね…上手くできない!よくわからない!申し訳ない!)



ヴァティカン使徒文書館所蔵。




ヴァノッツァの手紙

アレクサンデル6世への手紙

Lettra di Vanozza al AlessandroⅥ

チェーザレやルクレツィアの生母ヴァノッツァ・カッタネイからアレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)に送られた手紙。
1495年頃に書かれたと思われる。

1486年、ヴァノッツァはゴンザーガ家の枢機卿侍従であったカルロ・カナーレと3度目の契約結婚をする。(4度目という説もある。)
この頃にはヴァノッツァとロドリーゴの愛人関係は終息を迎えていたようだが、2人の信頼関係は、ロドリーゴが教皇となって後も、穏やかに続いたと言われる。

手紙は夫カルロ・カナーレとの過不足のない生活を報告し、アレクサンデルへの変わりない愛と忠誠を語っている。


ヴァティカン、使徒文書館所蔵。






その他の手紙

レオナルド・ダ・ヴィンチの自薦状

ダ・ヴィンチの自薦状。

ミラノ、アンブロジアーナ図書館所蔵。
(アトランティコ手稿。)

1482年、レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェからミラノへ移った時、ミラノ公国の摂政ルドヴィーコ・スフォルツァに宛てて書いた自薦状。

ダ・ヴィンチの直筆ではなく、おそらく助手が書いた下書き。なので鏡文字ではなく、左から右へと普通に書かれている。
1から10までが箇条書きされており、4の後に9がある。
ざっと列挙した後に番号をふって、順番を修正したと思われる。
(確かに、ずっと陸上戦の話してるんだから、海戦については9番目の方がしっくりくるよね。)

訳:
我が高名なる閣下。

自らを兵器の専門家と称する者たちの功績を充分に見聞し検討した結果、彼らの発明は一般的なものと何ら変わるところがないことを確認致しました。
他の誰の名誉も傷つけるつもりはありませんが、ここで私自身の秘策を閣下に明かし、閣下の完全なる自由裁量で、以下に列挙したすべてのものを効果的に運用していただきたいと存じます。

1.敵を追撃し、場合によっては逃走するための、非常に軽くて丈夫で容易に持ち運び可能な橋。火災や戦闘のいずれにおいても破壊されない頑丈な橋。
持ち上げて所定の位置に設置するのが簡単で便利な橋。
また、敵のものを燃やして破壊する手段も考えております。

2.包囲戦において、敵城の濠から水を抜く方法。
必要な橋、マントレット(移動防楯)、梯子、その他の道具を作る方法。

3.どのような要塞でも破壊する方法。
包囲した城の状況や位置的優位のため、砲撃によって陥落できない場合、お役に立ちます。

4.簡単に持ち運びができ、嵐のように小石を投げつけることができる種類の大砲。
大砲からの煙は、敵に重大な損害と混乱、大きな恐怖を与えることでしょう。

9. 海戦において、攻撃にも防御にも非常に適した多くの装置。
あらゆる重砲の砲火や火薬や煙に耐える船。

5.騒音なしに坑道や秘密通路を建築する方法。
濠や川の下をくぐり、指定された場所に到達することも可能です。

6.安全で難攻不落の、敵や敵の大砲を突発する屋根つきの乗り物。
これらの後方に歩兵がつけば、妨げられることなく完全に無傷で移動できます。

7.必要性とあれば、非常に美しく機能的な、威力ある大砲や軽火器を作製致します。

8.大砲の使用が困難な場合、大石弓、大投石機、その他、一般に使用されていない素晴らしい功績を上げる器具を作製致します。
さまざまな状況に応じて、攻撃や防衛のためのアイテムを無限にお作り致します。

10.平時においては、公用私用の建築物、またある場所から別の場所への導水(水道の建設)でも、他の誰にも劣らない仕事のできることを信じております。

大理石、ブロンズ、粘土の彫刻も致します。
同様に絵画の分野でも、他の誰にも劣らない仕事を致します。

さらに、お父上とスフォルツァ家の不滅の栄光と永遠の名誉のために、ブロンズの騎馬像制作を請け負うこともできます。

もし、上記のようなことが不可能であったり、実現不可能であると思われるようなことがあれば、城内の庭や閣下のお気に召す場所で実演させていただきますので、何なりとお申し付けください。

自分がいかに戦争に役立つかをアピールしていて、絵を描くことはついでのように書かれている。
ミラノは政情不安な都市であったし、スフォルツァ家は傭兵隊長の出自であったので、ルドヴィーコにおもねったのではと言われている。
また絵を描くことに嫌気がさしていたのではとも言われている。(システィーナ礼拝堂装飾のための画家に選出されなかったし、やさぐれてた?)

また、軍事技術者として何でもできるかのように書いているが、戦争を経験したことはなく、実績はひとつもなかった。
また、兵器の多くは独創的で画期的ではあったが、実用的と言うよりも空想的だった。
しかし1番に書かれている持ち運び可能な橋は、チェーザレの下で実現化している。




ビアンカ・マリア・ヴィスコンティの手紙

ビアンカ・マリア・ヴィスコンティの手紙

ルドヴィーコ・イル・モーロの誕生を祝うビアンカ・マリア・ヴィスコンティからフランチェスコ・スフォルツァへの手紙。

ルドヴィーコは1452年7月27日生まれ。
この手紙は8月8日に書かれたもの。

ミラノ、国立公文書館所蔵。






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