チェーザレ・ボルジアと、その周辺のさまざまを紹介するサイトです。

チェーザレがレオナルド・ダ・ヴィンチへ与えた通行証。

手紙

手紙

チェーザレの手紙

チェーザレの時代の手紙は1枚の紙片で、縦に3つ折りした後、横に3つ折りし、封蝋していた
手紙の右端や左端あたりに見られる円形のシミは、封蝋の跡である。

封筒はなく、封蝋した裏側に宛名を記していた。

← 3つ折りの跡も残っていてわかりやすいチェーザレの手紙。




このような手紙の閉じ方はレターロッキング(letterlocking)と呼ばれ、13世紀に遡る。
1840年にイギリスで郵便制度改革が行われ、大量生産された封筒が普及するまでの間、各国で用いられていた。

封蝋せずに、折り畳んだ手紙に穴を開け、そこに細く切り取った紙片の一部を通して括る方法などもあった。


ちなみに惣領冬実「チェーザレ」で、当初手紙は円筒状に丸められて描かれていたが、11巻から折り畳まれるようになった。
← 2巻 ↓ 9巻 → 11巻
惣領冬実「チェーザレ」2巻 惣領冬実「チェーザレ」9巻 惣領冬実「チェーザレ」11巻



チェーザレの手紙

パンプローナ市議会への手紙

パンプローナ市議会への手紙

1491年9月17日、ピサ大学で教会法を学んでいた16歳のチェーザレがパンプローナの司教に叙任された時、パンプローナの市議会へ宛てて書かれた手紙。
ピサではなくソリアーノで書かれている。大学の休みを利用して、ソリアーノへ狩りに出かけていたよう。

トレドの司祭マルティエ・カノンを代理人として派遣するので、何事も彼に任せ、また彼を助け指揮することを依頼している。
「もしこの高貴な都市、あなた方の福利、あるいは一般的な利益に影響する特別な事情があれば、私たちはそれを自分のことのように考えるので安心してください」
と締め、
パンプローナに選出されたセサル・ボルハ
とスペイン語で署名している。
(下記に同日に書かれた教皇インノケンティウス8世の叙階告知の手紙もあります)

すごく丁寧に活字のような文字を書いているけれど、このようにラテン語で美しい手紙を書くことも教養のひとつとされていた。16歳のチェーザレの優秀さがうかがえる。
そして手紙は成長とともにさらに美しくなっている。(ように見える。下記の手紙参照。ダ・ヴィンチへの通行証も。)



スペイン、パンプローナ市立公文書館所蔵。






ピエロ・デ・メディチへの手紙

 Medicee avanti Principato,35

1492年4月13日、ピサで書かれた手紙。
どういうわけか1494年と誤記されている。
(文末にあるのでわかりやすい。)

4月8日に亡くなったピエロの父ロレンツォ・デ・メディチ(ロレンツォ豪華王)の死を悼む内容になっている。
チェーザレは当時ピサ大学に在籍しているので、当地で執筆している。

チェーザレの父ロドリーゴ・ボルジアも、同じ1492年4月13日に、同様の弔意の手紙をピエロに送っている。



しかしこの時代の人って、改行いっさいしないのね。読みにくくなかったのか。紙の節約?


訳:

『偉大にして卓越した御方へ

貴殿のご尊父の訃報に接し、私は非常に苦しく悲しい思いに駆られ、貴殿に慰めの言葉を綴ることさえできませんでした。
貴殿とともに枢機卿であるご兄弟が、このような大きな損失にどれほどの悲しみを抱かれるかと思い、そして私自身が故人に対して抱いていた愛情ゆえに、深く胸を痛めていたからです。

私は貴殿のご尊父のことを自らの父のように尊敬しておりました。そのご高名とご威厳の中に、私に対する限りない父のような厚情を感じていたからです。
それ故に、貴殿や枢機卿猊下にとってのみならず私自身も、さらには故人を知るすべての者が、彼をこの世から失ったことを嘆き悲しまずにはいられません。

しかしながら、私は彼の生き方の卓越性を思い起こし、それが信仰、慈愛、賢明さ、正義といったあらゆる徳によって彩られていたことを考えます。
彼は、極めて敬虔な信仰のもとに亡くなり、永遠に輝かしい名声をこの世に残しました。
彼の魂は、永遠の命を得て、神の御許において聖人たちの間に迎え入れられたことでしょう。
ゆえに、私たちはこの悲しみと苦しみを、むしろ喜びと慰めに変え、彼が儚く苦しみに満ちたこの世の生を捨て、不変で栄光に満ち、いかなる苦痛もない永遠の命を得たことを祝福すべきではないでしょうか。

したがって、私は心から貴殿にお願い申し上げます。
故人の不在を嘆き悲しむよう促す自然の掟に打ち勝ち、むしろ神の法に従ってください。
神の定めにより、我々すべては死すべき運命にあり、先に逝った者たちを失うのではなく、むしろ彼らを先に天へ送り出したのだと考えましょう。
どうか、悲しみと嘆きを乗り越え、貴殿のご兄弟とともに慰めと喜びを分かち合っていただきたく存じます。

そして、私を貴殿の兄弟の一人と思い、私の事柄や財産を貴殿自身のもののように自由にお使いください。どうかご幸福をお祈り申し上げます。

ピサにて、1494年4月13日

貴殿の命に従う準備がある者より
パンプローナ選出司教チェーザレ・デ・ボルジア 自著』



フィレンツェ、国立公文書館(Archivio di Stato di Firenze)所蔵。


Magnifice et prestantissime vir, tanto me he stata molesta et trista la novella dela morte dela bona memoria del patre vostro, che non ho avuto animo ne potere de scrivere consolatione alcuna a la magnificentia vostra, sì pel dolore che stimai el R.mo monsignor nostro el Card.le vostro fratello ensieme con la magnificentia vostra de tanta jactura pigliaria, como per lo amore che ala prefata bona memoria de vastro patre io portava, del quale non faceva altra stima que de patre, havendo cognosciuto ne la sua magnificentia una grandissima et paterna benivolentia verso di me: per la qual cosa, non solo la magnificentia vostra, ala quale con la prefata Signoria de monsignor nostro e mo principalmente questo danno inestimabile ha respecto, ma ancora io e tutti quelli che lo cognoscevamo siamo sforzati piangere e molto dolerse de haverlo perso in questo mundo.
Ma come me vecordo de la singularità de la vita sua, accompagniata de fede carità prudentia istitia et tutte le altre virtù che en alcuno homo se trovano,:considerando che he morto tanto religiosamente et catholicamente, lasciando en questo mundo gloriosa et immortal fama, la sua anima haverà acquistata vita eterna e per la divina maiesta sera stata entre li sancti soi in gloria collocata, me pare debiamo commutar la mestitia et dolore en alegrezza e consolatione e congratularce con lui che habbia commutata questa vita temporale caduca transitoria e piena de afanni con vita eterna stabile e gloriosa e senza nulla molestia.
Per la qual cosa, quanto più posso prego la magnificentia vostra che, vencendo la lege naturale che a piangere la absentia dela prefata bona memoria del vostro patre ve invita, e conformandove con la lege divina, che dispone che tutti quanti habiamo a morire et quelli che prima moreno non li perdemo ma li premittemo, inpongate fine a omni dolore et mestitia et con la prefata R.ma S. de monsignor nostro ve. consolete et alegrete.
Et de me disponete et comadate como de uno vostro fratello ordenando dele cose et faculta mie como dele vostre et feliciter valeat magnificentra vostra. Pisis. XIlI aprilis 1494.

Vostra magnificentie ad mandata paratus.
Cesar de Borja electus pampilonensis manu propria.






弟ホアン・ボルジアへの手紙

同じ1枚の紙の裏表。
1494年4月18日、ローマで書かれたもの。
チェーザレから弟ホアンへの手紙 チェーザレから弟ホアンへの手紙

ガンディア公としてスペインにいるホアンに宛てて書かれた手紙。

1. 教皇アレクサンデル6世とナポリ王アルフォンソ2世の同盟が決定したこと
2. それによってモンレアーレの司教ホアン・ボルジア(el mayor、サヴィオ)が教皇公使に任命されたこと
3. 2人の弟ホフレが婚姻のためナポリへ赴くことになったこと

を伝えている。

また、
ナポリ王からあなたに最大の栄誉が捧げられ、
年間12,000ドゥカートの収入に相当する
トリカリコ公国(prinçipat de Tricarico)(イタリア、バジリカータ州)、
カリノーラ伯領(comdat de Carinola)(イタリア、カンパニア州)、
クララモンテ伯領(comdat de Claramonte)(スペイン)
割譲されることなった。これはあなたを心から愛し、あなたを偉大にすることだけを考えておられる聖下が、あなたの主権のために得られたものだ。
このことは、私があなたに抱かずにはいられない大きな愛と同様に喜ばしいことである。」
と書いている。
そして、
「報告が遅れてしまったのは、少し体調が悪かったのでスティリャーノ温泉(baños de Stillano)へ行き、昨夜までそこに滞在していたからである。我々の主なる神の恩寵によって、とても健康になって戻って来た。」
と言いわけしてる。

結びは、
「あなたを自分のように愛してやまないあなたの兄、
ヴァレンシア枢機卿チェーザレ(セザール)」

宛名は、
「最も高名なる紳士であり、弟であるガンディア公爵、
トリカリコ公、カリノーラ伯、クララモンテ伯」
(新たに与えられた爵位を3つ並べて書き添えてるの、いいね!
良かったね!と讃えているようでもあり、ちょっと恩着せがましい感もあり、お兄ちゃんぽい。)

字が…他の人に書いてる手紙より、明らかに雑だと思うんだけど!?
それに画像左の真ん中より少し上、「lo més bell stat del Realme,」のR、間違えて書いた文字を誤魔化したため、太字になってるように見える。
チェーザレ、ホアン相手だから手抜いてない?


同じ日にアレクサンデル6世、モンレアーレ司教ホアン、ペルージャ司教ホアン・ロペスも、ホアンに上記の1. 2. 3. を伝える手紙を書いている。
アレクサンデル6世の手紙は、加えてホアンの散財を叱責する内容が書かれており、チェーザレの手紙の2.5倍ほどある。


スペイン、ヴァレンシア大聖堂文書館(Arxiu de la Catedral de València)所蔵。






アレクサンデル6世への手紙

1494年7月26日、バッサネッロで書かれた手紙。

アレクサンドル6世の命により、チェーザレはバッサネッロのオルシーノ・オルシーニを訪ねていた。何らかの用件を彼に呑ませる必要があったよう。「命じられた件」について言及がないので、はっきりとはわからない。

しかしこの時期、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻が迫っており、教皇庁はその対策に追われていた。
7月14日には、チェーザレはアレクサンデル6世とともにオルシーニ家の所領ヴィコヴァーロ(Vicovaro)にて、ヴィルジニオ・オルシーニやファブリツィオ・コロンナと会談している。
そこで、オルシーニは教皇庁軍と共に国境を守備することに合意しているので、オルシーノにも兵を集めて従軍するようにと通達するためだったのではないだろうか。


訳:
『イエス(の御名において)
至聖にして幸いなる教皇聖下へ

まずは、聖下の幸いなる御足に口づけを捧げます。

数日前、私は聖下が命じられた件についてオルシーノ卿に話をしたことを、聖下に書き送りました。彼はそれを理解していないふりをしましたので、私は彼が誤魔化すことができないほど明確に話すつもりであることも申し上げました。
その同じ日に、オルシーニ卿はカルヴィニャーノ (Carvignano) へと発ち、いまだ戻っておりません
彼が戻り次第、私は彼と話をし、聖下にその返答をお知らせいたします。
このため、私がご報告の手紙をこれほど遅らせたことを、どうかご容赦ください。彼の不在により、書くことができなかったのです。

我らが主なる神の恩寵により、私は家臣一同とともに健やかでございます。しかしながら、至聖なる聖下の御足元から遠く離れていることに不満を覚えております。私は、我らが主なる神に祈り、できる限り早く聖下のもとへ戻ることができますよう願っております!

その他の件として、私は聖下の侍従であるカストレホン (Castrejón) 閣下とフェラン・レシオ (Ferran Recio) が亡くなったか、危篤の状態にあるとの知らせを受けました。
もし彼らが亡くなった場合、どうかその恩恵の一部を私にお与えくださるよう、謹んでお願い申し上げます。

どうか我らが主なる神が陛下のご健康とご長命を、私が切に望むようにお守りくださいますように!

バッサネッロにて、7月26日 [1494年]

陛下の、謙虚なるしもべにして創造物
その至聖なる御足に口づけを捧げる
チェーザレ・ヴァレンシア枢機卿』

至聖にして幸いなる我らが教皇陛下へ


しかしチェーザレは「1度話をしたが理解していないふりをされた」ので、次は「誤魔化すことができないほど明確に話すつもり」だと言っている。
…従軍せよってことを伝えるのに、言葉選ぶ必要ある?

もしかしたら、ジュリア・ファルネーゼに関する何かを伝えたかったのかも?
それなら、オルシーノが話を聞きたくなくて、出て行った気持ちもわかる。


それにしてもチェーザレ、侍従が亡くなったら彼らの恩恵(役職や俸禄)を私にくださいって、厚顔すぎて怖い
少なくともカストレホンとは知り合いだったはずなのに。(チェーザレとカストレホンの名前の含まれる、アレクサンデル6世が同行者を記した日付不明のメモがある。)


※ カルヴィニャーノは、カルボニャーノ(Carbognano)のこと。バッサネッロの南西15キロほどの所。馬で2、3時間くらい。
※ カストレホンとフェラン・レシオは、ペストによって亡くなっていたよう。


lesus
Sanctissime ac beatissime pater:
Post pedum oscula beatorum. En aquests dies propasats scriví a vostra santedad com havia parlat al senyor Ursino de la matèria que aquella m'havia manat, y que ell havia mostrat no entendre'n, e que yo li parlaria tan clar que no poria disimular de entendre‘ n.Aquell dia matex dit senyor Ursino se partí per a Carvinyano y encara no és tornat; encontinent que sia tornat, yo li parlaré, y de la resposta avisaré vostra santedad, y per ço no's maravelle que haja tardat tant en scriure-li, car no he pogut per la absència sua.
Yo stic, per grácia de nostre senyor Déu, ab tots los meus, bé de sanitat, mas stic malcontent per trobarme absent dels benaventurats peus de vostra santedad, als quals prec nostre senyor Déu me vulla prestament tornar. Ceterum he entès que mossèn Castrejon, cubicular de vostra santedad, y Ferran Reçio són morts aut laborant in extremis. Supplic humilment aquella, si cas és que muyren, me faça grácia de alguna part dels beneficis de aquells. E nostre senyor Déu conserve lo stat de vostra santedad ab tant llonga vida com yo desije. De Bassanello, a XXVI de juliol.

De vostra santedad humil sclau e factura, qui sos sanctíssims peus besa,
Caesar cardinalis valentinus. /

Sanctissimo ac beatissimo domino nostro pape.






トーディ市への手紙

トーディ(Todi)のコムーネおよび市の執政官(プリオーリ)宛に書かれた手紙。アガピート・ゲラルディ代筆。
フォルリ征服後、カテリーナ・スフォルツァを伴いローマへ戻る途中の1500年1月29日、モンテフィオーレ(Montefiore)で書かれたもの。


枢機卿ホアン・ボルジア(el menor)(シレンツィオ)が急死したため、トーディの統治はグルクの司教レイモン・ペロー(Raymund Pérault)に委ねられた。

チェーザレは、グルク司教からの手紙を通じて、トーディの執政官たちが新たな統治者(グルク司教ペローのこと)に対し、服従と支援を示していることを知り、
教皇聖下および最もキリスト教的な国王(フランス王ルイ12世のこと)にとっても、それは大いに喜ばしいことであると述べている。

そして執政官たちに対し、新たな統治者への服従を、引き続き継続するよう奨励している。

チェーザレからトーディ市への手紙、AST, n. 156

訳:

『高貴なる紳士方、御安泰を願う。

我々は大いなる喜びをもって、次の報告を受けた。

教皇聖下は、我々の兄である故枢機卿ボルジアを別の重要な任務に就かせるため、敬愛するその都市の統治を、敬虔なるグルク司教閣下に委ねた。

我々は確信している。
彼の経験と公正さによって、この都市は最良の形で統治されるであろう。

また彼の書簡を通じて、貴殿らが彼に対し熱心な服従と支援を示していることを確認し、大いなる満足を得た。
このことは、貴殿らにとって名誉と利益をもたらし、さらには教皇聖下および最もキリスト教的な国王陛下を大いに喜ばせるものである。

ご両者は、我々が彼らに示す深い忠誠心を通じて、貴殿らに対する愛情を一層強めておられる。

したがって、我々は、貴殿らに対し、さらに敬意と服従の念を強めながら、統治者(グルク司教)のもとでの安定を維持し続けるよう強く奨励する。

これによって、司教閣下は、貴殿らの平穏と利益に資することを実現できるようになり、同時に、教皇陛下と国王陛下に対し、大いなる満足をもたらすことになる。

また、このことは我々にとっても、極めて喜ばしいことである。

モンテフィオーレより
1500年1月29日

チェーザレ・ボルジア・デ・フランチア
ヴァレンティーノ公爵および国王陛下の総司令官代理



裏面
『高貴なる紳士たるトーディ市の執政官および市民、ならびに関係者各位へ』

トーディ、市立歴史公文書館(Archivio Storico di Todi)所蔵。


Magnifici viri salutem. Con grande nostro piacere ce so referto che havendo la Santità de Nostro Signore adoperare in altra mior cosa la bona memoria del Reverendissimo Cardinale Borgia nostro frate, deputasse al Governo de quella Cita laquale cordialmente amamo lo Reverendissimo Monsignor nostro Gurtio legato, tenendoci per firmo che per la experentia et rectitudine de sua Reverendissima Signoria quella seria optimamente Ressa et maior consolatione havemo intendendo per sue continuate littere la studiosa obedientia et adsistentia li facete vedendo che ne resulta ad voi laude, et utilita con satisfactioni grande dela Santità prefata et del Christianissimo Re liquali lo Amano maiormente et in specie per laffectionnata observantia che noi li portiamo per le sopradicte cause: Unde tanto piu exhortamovi al perseverare con augumento continuo In la reverentia et obedientia del prefato adcio Mediante quelle possa Sua Signoria Reverendissima mandare ad effecto quello che ad vostra particulare quiete et utile et commune dela propria adpertene, et cede ad satisfactione grandissima de la Santità et regia Maestà prefate et ad nostro acceptissimo piacere. Datum in Montefloro XXIX Januarii MCCCCC

Cesar Borgia de Francia Dux Valentini
ac Regis Generalis Locumtenens

Agapitus

裏面
Magnificis Viris Prioribus et Communi
Civitatis Tuderti Amici nostri
Charissimis etcetera






イザベッラ・デステへの手紙

イザベッラ・デステへの手紙

1502年6月12日に書かれたもの。
アガピート・ゲラルディ代筆。

1501年末、ゴンザーガ家の長男フェデリーコとチェーザレの娘の結婚が交渉される。
チェーザレは「我々の結びつきは大きな利益をもたらす」と満足の意を告げている。




マントヴァ、マントヴァ国立公文書館(ASMn)所蔵。






妹ルクレツィア・ボルジアへの手紙

1502年7月20日にウルビーノで書かれた、チェーザレからルクレツィアへの手紙。
アガピート・ゲラルディ代筆。

妊娠中に病に倒れ、臥せっているルクレツィアを気遣いながら、自分の戦果(カメリーノ征服)が彼女にとっても喜びとなり、回復につながることを願っている、と書いている。

さらに、自身は多忙のため直接手紙を書くことができないので、彼女の夫アルフォンソ1世・デステ (Alfonso I d’Este) にもこの勝利を伝えてほしいと頼んでいる。

しかしこの手紙を書いた5日後、チェーザレはフェラーラへ向かい、8日後にはルクレツィアに面会する

この、チェーザレ来訪を舅エルコレ1世・デステへ報告するルクレツィアの手紙もある。
チェーザレからルクレツィアへの手紙

訳:

『高貴にして卓越せる我が最愛の妹君へ

貴女のご体調がすぐれないとのことですが、何よりも良薬となるのは、きっと良き知らせを聞くことに違いありません。
そこで今しがた、確かな情報としてカメリーノの陥落を得たことをお知らせ致します。

この知らせを喜び、回復の兆しとなることを願っております。そして、どうかその回復の兆しを我々に知らせていただきたく存じます。
貴女がご健康を取り戻されない限り、我々にとってはどのような良い知らせも喜びとはなりません。

また、このことを、敬愛するご夫君ドン・アルフォンソにもお伝えいただきたく存じます。
私自身は、今は急を要するため、彼には直接手紙を書くことができません。

ウルビーノにて、1502年7月20日

最愛にして忠実なる兄
チェーザレ

裏面
高貴にして卓越せる、我が最愛の妹、
エステ家の公爵夫人、ドンナ・ルクレツィア・デ・ボルジア殿』

モデナ、モデナ公文書館 (Archivio di Stato di Modena)所蔵。


Illma et Eccma mia Signora Germana nostra Charma

Tenendo per certo che nulla più efficace et salubre medicina esser possa
alla più indisposizione de la S.V. Illma che sentire bone et felice novelle,
li facemo intendere che in questa puncta havemo havuta nova et certa
de la presa de Camerino.

Preghamo quella voglia fare honore ad questa nova con evidente
effetto de miglioramento et farlo intendere, spero che con la sua
firma et de questa né de altre possiamo sentire piacere alcuno.

Preghiamo anche che lo possa voglia participarlo a lo Illmo S.
Don Alfonso suo consorte et nostro cognato come fra amantissimo,
al quale per hora non scrivemo per la pressa.

De Urbino adi xx de luglio M.D. Ⅱ

De V. Illma fratello gmo (germano) & mdello propria mano
Cesar

Agapitus

裏面(宛先)
Ala Illma & Eccma mia Signora Duchessa Donna Lucretia de Borgia da Este Germana mia Charma


最初の「Borgia 1502 20 luglio」と最後の「Principi esteri, Romagna B. 1438」は、後世の管理者が書き加えたもの。






フランチェスコ・ゴンザーガへの手紙

Lettra di Cesare Bogia

1506年12月7日、ナヴァーラ王国パンプローナにて、マントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガに宛てて書かれた手紙。
(左上に日づけが書かれているのがわかる。)
フランチェスコはチェーザレの妹ルクレツィアの義理の兄にあたるので(ルクレツィアの夫アルフォンソ・デステの姉イザベッラ・デステの夫が、フランチェスコ・ゴンザーガ)、
チェーザレにとっても義兄となる。
(サインの上部に「eminor fratello」(younger brotherという意味)と書かれている。)
マントヴァ、マントヴァ国立公文書館(ASMn)所蔵。


1506年10月、チェーザレはメディナ・デル・カンポの城モタから脱走、妻シャルロットの兄、ジャン・ダルブレの国であるナヴァーラ王国の首都、パンプローナを目指す。
12月3日、多くの困難を乗り越え、チェーザレはその地にたどり着く。

数日後、チェーザレはマントヴァ侯と義弟イッポーリト・デステに向けて自由宣言の手紙を書き、秘書のフェデリーコをイタリアへ送る。
この手紙はその時チェーザレの書いた、人生最後の手紙。
塩野七生著「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」314ページにほぼ全文の訳が載せられている。
いわく、
「多くの苦難の末に、神は私を捕囚の身から解き放ち、自由を与えるよう決心された。この手紙を持って行く私の秘書官フェデリーコが、その詳細について報告するであろう。現在私は、ここパンプローナに、ナヴァーラ国の高潔なる王並びに王妃と共にいる。ここには、12月3日に到着した。」

チェーザレ解放のニュースは各方面に大きな衝撃を与える。震駭したユリウス2世はフェデリーコを捕らえ投獄、ボローニャで処刑してしまうという暴挙にまで出た。








チェーザレ関連の手紙

インノケンティウス8世の手紙

インノケンティウス8世の手紙

1491年9月12日、インノケンティウス8世は16歳のチェーザレをパンプローナの司教に叙階。それを告知する同月16日に書かれた手紙。

(上記に同日に書かれたチェーザレがパンプローナ市議会に書いた手紙もあります)



スペイン、パンプローナ市立公文書館所蔵。






その他のチェーザレの文書

レオナルド・ダ・ヴィンチへの通行証

1502年8月18日、チェーザレがレオナルド・ダ・ヴィンチに与えた通行証(Lasciapassare di Cesare Borgia un Leonardo da Vinci)。
チェーザレの領土内のどこにでも通行税を取られることなく自由に往来でき、どの建物の中にも出入りでき、あらゆる場所で便宜を図ってもらえる開封特許状(勅許状)。

チェーザレがダ・ヴィンチに与えた通行証

レオナルド・ダ・ヴィンチは1502年5月頃、ウルビーノにいるチェーザレを訪れ、チェーザレの建設技術顧問・軍事設備顧問になる。
7月25日、チェーザレは供を4人だけ連れてアスティのルイ12世に会いに行く。彼の行動は突発的で、行き先を知っている者はほとんどおらず、レオナルドはノートに「公爵はどこだ?」と書いている。
チェーザレは通行証を8月18日にパヴィアで署名しレオナルドに郵送しているので、チェーザレ不在中に仕事の滞ったレオナルドの訴えが旅先のチェーザレに届き、急ぎ書かれたものなのかも。
しかしチェーザレのことなので、ルイ12世と談合しながらもあらゆることに思考を巡らし、抜かりなく手回しした、と考える方がありそう?

レオナルドが「公爵はどこだ?」(Dove il Valentino)と書いているのは、ノートの端の覚え書きで、いつ書かれたものなのかはわかっていない。
ので、自分を建築技術士としてチェーザレに売り込みたいレオナルドが、神出鬼没で有名だったチェーザレとどこで会えるのか?と考えていた時にメモしたもの、という説もある。

レオナルドが後に愛弟子サライに与えたというチェーザレのマント(ケープ)は、この時通行証と一緒に付与されたらしい。
レオナルドはこのマントを羽織り、ロマーニャを視察し、壕の長さや中庭の広さを歩測で計り、四分儀という機器で城塞の凸凹を測り、その結果と感想をノートに記した。

このようにして同年秋、イモラの地図が描かれた。

レオナルドはチェーザレのもとを離れてからもずっとこの通行証を所持していた。(だから現存してるわけだけど!)
自分の書いたものはたくさん残してるレオナルドだけど、他人に書いてもらったものは希少なのでは…?思い出があったのかな?


訳:
『神の恩寵によりて、ロマーニャおよびヴァレンティーノ公、アンドリア君主、ピオンビーノ他の領主、また神聖なるローマ教会の旗手にして教皇庁軍総司令官たるフランスのチェーザレ・ボルジアは、
我が総督、城代、指揮官、傭兵隊長、役人、兵士、および全ての臣民に本証をもって告ぐ。
本証を持つ我が親愛なる偉大な友、建築および技術総監督レオナルド・ダ・ヴィンチに代わりこの証書によって命ずる。
彼は、我が領土のあらゆる家屋および城塞を視察し、必要である時には自らの判断に基づいて補修する任を負っている。
彼には自由な通行を保証し、本人および同行者に対する全ての税を免除すること。
また彼を友好的に遇し、彼の望むがままに測量、調査を行わせること。
そのために彼が必要とするだけの人員を提供し、彼の望むあらゆる援助と便宜を与え、協力を惜しまぬこと。
我が領土において行われる工事の全ては各技術者が彼と協議し、その意見に従うこと。
それが私の意志である。
あえてこの命に反する者は、私の大いなる不興を買うことになるだろう。

1502年8月18日、パヴィアにて
ロマーニャ公爵叙爵2年目の年に
チェーザレ』



序文と結びはラテン語、本文はイタリア語で書かれている。
1行目に8つほどあるカタカナの「イ」みたいなものは、装飾された文字。(厳粛な印象を与えるものらしい。でも屋根と壁でも描いてるみたい)

中央下部にチェーザレの封蝋印(この印には中央に教皇庁軍総司令官の紋章が入っていない)、
その上に書記官アガピート・ゲラルディのサイン。左右に副書記官2人のサイン(Mandato Illtstrissimi DucisとF.Martius)

チェーザレのサインは下部が折られているので隠れて見えないが、左端にある。(少しだけ見える。)
チェーザレの印の裏には、教皇アレクサンデル6世の印が捺してある。(見えない)
羊皮紙。

すごく丁寧に活字のような文字を書いているので几帳面!?と思ってしまうけれど、このようにラテン語で美しい手紙を書くことも教養のひとつとされていた。チェーザレが16歳の時に書いた手紙も美しくて、彼の神童ぶりがうかがえる。



ミラノ、ヴァプリオ・ダッダ、メルツィ・デリル文書館(Archivio Melzi d'Eril)所蔵。






ローレンツ・べハイムへの質問状

ドイツ人人文主義者で、科学者、化学者、医師、占星術師、錬金術師、軍事技術者、百科事典学者、などさまざまな顔を持っていた万能の人、ローレンツ・べハイム
彼は22年間ボルジアに仕え、チェーザレの要望で毒物や兵器の研究をしていた。

チェーザレがべハイムに送った質問のリストが残っている。

べハイム博士へのチェーザレの質問状

両面に書かれた1枚の紙片。筆跡を見るに本人直筆。
ドイツ、ニュルンベルク市立図書館所蔵。



約90におよぶ質問で、

  • 宝石(カーネリアンやサファイア)の作り方
  • 鉛などの金属からエメラルド、トパーズ、ルビーを作る方法

のような錬金術の域を出ない呪術的(夢想的?)な要望もあるが、

  • 橋を壊して水の上を歩く方法
  • 溺れないようなベルトを作る方法
  • 窓まで登り侵入できる長い槍を作る方法
  • 砲弾で撃ち敵の大砲を割れる火薬を作る方法
  • 鉄を使わず壁を壊す方法
  • 眠り薬を作る方法
  • それをカタパルト(投石機)で城に投げ込む方法

のような実際の戦闘を有利にするためのアイディア、また、

  • 人工的に記憶を作る方法
  • 離れた城と城にいながら会話する方法

のような恐ろしい発想もしている。(すごい…)


そして毒殺のボルジアの名にふさわしく「毒物(De venenis)」の項目を挙げ、
(左の写真の右側上方)

  • 杯、塩、匂い、部屋、鞍、鐙、砂糖、泉、川、井戸、時間、日の中、月の中
    に薬物を混入できないか
  • その薬物で人や馬を健やかにも熱病にもできないか

と尋ね、

  • それを敵の城内に投げ込む

ことを希望している。

(チェーザレは征服地の略奪を禁じていたことからわかるように、これから自分の所領となる地をできるだけ無傷で手に入れたいと考えていた。
戦闘が続けば続くほど街や城は荒れてしまうので、敵だけを速やかに抹消できる方法=毒ガス的なもので人だけ殺したい(または眠らせてその間に事をすませたい)、と思っていたよう。)



次の項目では「勇敢なもの(In cose galante)」と題し、

  • 卵、鶏、予言、人影、足をひきずっている牝馬、何も食べない馬…

と書かれている。が、意味はよくわからない!
病気の馬の治療薬や、敵の馬を弱らせる手段が欲しかったのかも?


次の項目は「文具に関すること(In cose pertinenti a cancelleria)」。

  • 手紙や封蝋を偽造できないか
  • 封蝋された手紙を開き、また閉じることができないか
  • 人体やシャツに書くことはできないか
  • 鉄に書くことはできないか
  • 書いた15日後に透明になるインクはできないか
  • 火や鏡、水、点など特別なものを利用することでしか読めないような方法はないか
    (「点」の説明としてサイコロのようなものを書いている。)
    (右の写真の左側、下から9行目)
  • 機密を伝える使者が「文字を食べる」ことはできないか

(チェーザレは情報が敵に漏れないよう暗号を重視していた。ので、奪われたら終わりの手紙を使用せず情報を伝達する手段が欲しかった?例えば使者が内容を丸ごと暗記して運ぶような?それを「文字を食べる」と表現してるのかも。暗記パンじゃん!?)

そして「機械的なもの(In cose meccaniche)」という項目。

  • 思考、話す死者の頭、金色の鉛、トラムダル(tramudar)(?)、動物、地球、人影、目を向ける

最後に、

  • 農業のこともあれば、装飾品を着た女性もいる
    「In Agricultura alcune cose, In ornamenti le donne」

と書かれているが、その下に質問はなく空欄になっている。
(右の写真の右下。よく見ると上記の文字がわかる。)



チェーザレがこの質問状を書いたのがいつ頃なのかはわかっていない。が、内容から1500年〜1503年頃であることは間違いないと思う。

計り知れないチェーザレの興味関心に、べハイムがどのような回答をしたのかは残っていない。






ロドリーゴ・ボルジアの手紙

ロレンツォ・デ・メディチへの手紙

Lettera di Rodrigo Borgia a Lorenzo il Magnifico

1473年10月12日、ピサにて書かれた、枢機卿ロドリーゴ・ボルジアからロレンツォ・イル・マニフィーコへの手紙。
フィレンツェ、メディチ古文書館(Archivio di stato Mediceo)所蔵。

1472年5月、教皇特使としてスペインへ派遣されたロドリーゴは、カスティーリャとアラゴンの関係を調停し、レコンキスタ完了のために大いに寄与する。
翌年9月、ロドリーゴはヴェネツィアの2隻のガレー船にてローマヘの帰国の途につく。
しかしトスカーナ沖を航行中、船は嵐に見舞われ、1隻は沈没し、ロドリーゴの乗っていたもう1隻もピサの海岸へ打ち上げられてしまう。
同行していた3人の司教は溺死し、3万ドゥカートもの所持品が海に沈んだ。
この時、ロレンツォ・デ・メディチはすぐさまピサに人員を派遣し、ロドリーゴを見舞わせ、積荷の回収に努めた。
(惣領冬実「チェーザレ」では、海賊に襲われピサ港に逃げ込んだところを、ロレンツォによって助けられた、とされている。(Virtu 67))

手紙は、ロドリーゴがロレンツォへ向けて、ピサでの海難を知らせ救援を求めたもの。
ロレンツォに対して「最も親愛なる友人、偉大なる方」(Magnifico viro domino Laurenzio de Medicis amico nostro carissimo)と呼びかけ、受けた被害の重大さを訴えている。




  • 教皇子午線を決定した教皇勅書
    1492年の新大陸発見により、スペインとポルトガルの間で土地の所有と統治権を巡って争いが起きた。
    両国の会合は合意に至らず、1493年、教皇アレクサンデル6世は勅書により勢力分解線を決定した。
    しかしこの勅書は大幅にスペインに有利になっており、ほとんど守られることはなく、翌1494年、ポルトガルの勢力圏を拡大したトルデシリャス条約が締結された。






アレクサンデル6世の手紙

ジュリア・ファルネーゼへの手紙

1494年10月22日に書かれた手紙。
同年5月、ジュリアは夫オルシーノの母アドリアーナとともに、ルクレツィアに同行してペーザロに行っていた。
7月、病床にあった兄アンジェロを見舞うため、アドリアーナとともにカポディモンテへ向かう。夫オルシーノの封土で彼の暮らす街バッサネッロ(現在のヴァザネッロ Vasanello)は、馬で半日あれば行けるところで、オルシーノはジュリアを呼び寄せようとしていた
2人を会わせたくないアレクサンデル6世は、これに激怒。そんな所へ行ったら破門!と、感情にまかせた手紙を書いた。

訳:

『恩知らずで裏切り者のジュリアよ、

ナヴァッリコ(Navarrico)(廷臣の愛称?)を通じて、お前の手紙を受け取った。それには、オルシーニ(オルシーノ・オルシーニのこと) の意に反して、ここ(ローマ=アレクサンデル6世のいる所)へ来るつもりはないとの意向が記されていた。

我々は、お前とその助言者(アドリアーナ・ミラのこと)の魂が邪悪であると判断していたが、それでも、これほどまでに背信と忘恩の行為に出るとは信じられなかった。

これまでお前は幾度となく、我々の命令に忠実であり、決してオルシーニに近づかないと保証し、誓ってきたではないか。

ところが今、お前はその誓いに背き、命の危険を冒してまでバッサネッロ(Bassanello)(オルシーノの所領)へ向かおうとしている。
間違いなく、またしてもあの種馬に身を委ねるつもりなのだろう!

要するに、我々は、お前と忘恩のアドリアーナ(綴りがAdrienneとなっている。)が自らの過ちに気づき、しかるべき贖罪を果たすことを願っている。

そしてこの書状をもってお前に命じる。
破門の刑、そして永遠の呪いをもって断罪されたくなければ、カポディモンテ(Capodimonte)またはマルタ(Marta)(カポディモンテのすぐ南隣)から離れてはならない。ましてや、バッサネッロへ向かうことなど決して許されぬ。
これは我々の立場に関わる問題である。

ローマにて、1494年10月22日』

命の危険を冒してまでと言っているのは誇張ではなく、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻が始まっていたから。シャルル8世とその軍はまだピアチェンツァにいたが(10月23日まで)、ローマではすでに彼らの進軍が懸念されていた。

11月末、ジュリアはようやくローマへと向かうが、カッシア街道でフランス軍と行き会い、捕虜となってしまう。

「あの種馬に身を委ねる」とかよく言うよね、夫だよ!
「またしても」って、前にもオルシーノと寝ただろ騒ぎがあったのか?アレクサンデル6世63歳、ジュリア19か20歳だよ。キモ…






ルクレツィアへの手紙

ASMo, ASE, Cancelleria, carteggi con principi esteri, b. 11.

1502年9月30日、チヴィタ・カステラーナで書かれた手紙。アレクサンデル6世の自筆。とても力強い筆跡!

しかしなぜ、アレクサンデル6世はチヴィタ・カステラーナにいたんだろう?
1502年9月30日は、
チェーザレはおそらくイモラにいて、
そこでレオナルド・ダ・ヴィンチが測量していて、
ミゲル・ダ・コレッラが市民軍を訓練していて、
マジョーネの反乱メンバーが会合を持ち始めた頃。

何かわかったら追記します。

モデナ、モデナ公文書館 (Archivio di Stato di Modena)所蔵。


訳:
『ルクレツィア公妃、最愛の娘よ

お前の手紙を受け取り、お前の健康と幸福を知ることができ、大変嬉しく思う。我々も神とその栄光ある御母の恩寵によって、とても元気に過ごしている。
この手紙をもって、お前に知らせておく。わが使節より、チェント(Cento)とピエーヴェ(Pieve)に関する書状を受け取った。この内容をフェラーラの使者たちに伝えるとよい。彼らは確信してよい。我々は昼夜を問わず、フェラーラ公国の利益と発展のために心を砕いているのだ。

チヴィタ・カステラーナ(Civita Castellana)にて、9月最終日
教皇アレクサンデル6世、自らの手にて」』

※ チェントとピエーヴェは、ルクレツィアの持参金のひとつだった、年間約3,000ドゥカートの収益を生む街。フェラーラとモデナの間にある。
2つの街はボローニャ司教区に属していたため、すぐに譲渡することができず、交渉中だった。


「お前の健康」って書かれてるけど、この頃ルクレツィアは病と死産の影響で、一時は危篤にまで陥っていて、峠は越えていたものの、まだ回復の途中にあった。
(7月20日に、チェーザレはルクレツィアを気遣う手紙を書いている。)

しかしそのことについての言及はなく、手紙の内容は「エステ家は教皇の保護下にある」ことを知らせるものに終始している。

スビアーコのボルジア城塞の展示パネルには、
「アレクサンデル6世にとって、ルクレツィアは愛する娘であると同時に、政治的駒のひとつであったことを如実に示している。」
とあったけど、そこまで冷たい感じはしないような…?

元気になってきていることだけを喜んで、わざわざ「死んだ赤ちゃん」のことを書かない心遣いだったのでは…?
むしろ些細な用事にかこつけて、わざわざ手紙書いて元気づけてるように思える。「エステ家は教皇の保護下にある」なんてこと、わかってるじゃん。

しかも、まだ公妃ではないルクレツィアを「公妃(Duquessa)」と呼んでいる。娘を持ち上げて自信を持たせてるような、励ましているような、そういうニュアンス、ない?
(逆に、公妃ではない娘を公妃と呼ぶことこそ、「駒」へのプレッシャーなのか?)
(ちなみにルクレツィア本人は当然、正式に公妃となるまでずっと、ルクレツィア・エステンセ・デ・ボルジア(Lucrezia Estense de Borgia)とサインしている。)

チェーザレの手紙の方が、ルクレツィアを心配はしているけど、「カメリーノ征服したったぜ!」という喜びが溢れてて、自分のことだけっぽくない?

まあチェーザレとアレクサンデル6世にとって、ルクレツィアが「駒」であったことは間違いない。
しかし、愛する妹(Germana nostra Charma)、愛する娘(figlola carissima)であったことも、間違いはない。


Duquessa figlola carissima, la tua lettera se è stata gratissima per haver enteso el tuo ben estare. Nuy per gratia di Dio e de la sua gloriosa matre estamo molto bene. Per la presente te avisamo como havemo receputa una lettera del nostro nuncio sopra le cose de Cento e de la Pieve la qual poray comunicar a li toy embaxatori de Ferrara, li quali deveno esser certi que muy pensamo di e notte en el benefitio e augmento de quello estato.
De Civita Castellana, l'ultimo de settembre, Alexander papa VI manu propria.






ルクレツィアの手紙

アレクサンデル6世への手紙

ルクレツィアの手紙

1494年6月10日、ペーザロで書かれたもの。
夫となったジョヴァンニ・スフォルツァの所領ペーザロに到着した時の喜びと、歓迎されたことを父(アレクサンドル6世)に報告している。
またローマの状況(フランスのシャルル8世がナポリ王国の継承権を要求しイタリアへ侵攻しようとしている)を心配し、教皇に自分の安全を守るよう強く求めている。

訳:
主なる神の恩恵により、私たちはここペーザロに無事到着しました。
雨に邪魔されたにもかかわらず、私たちは大々的な歓迎を受け、何より多くの人々の熱狂で迎えられました。そして美しく快適な屋敷の中でも祝典が催されました。
このことはフランチェスコ卿にお伝えします。フランチェスコ卿なら、すべてを陛下にお伝えしてくださると思います。
ローマは現在、非常に病んでいると聞いています。
聖下がローマにいらっしゃるという事実に、私たちはみな大きな悲しみと憂慮を感じておりますので、できるかぎりそこをお離れになって下さるようにお願い致します。
それができないのであれば、大きな警戒心と思慮深さをお持ちになって下さい。
これは聖下を責めているのではなく、私の大いなる親愛の情によるものであります。

聖下には、聖下の永遠の奴隷である私の主君と私自身を覚えていてくださるようお願いする以外には何もありません。

ペーザロ、1494年6月10日。

神のご加護を
ルクレツィア・ボルジア・スフォルツァ

(ちょっと後半の訳変ですね…上手くできない!よくわからない!申し訳ない!)



ヴァティカン使徒文書館所蔵。




エルコレ1世・デステへの手紙

1502年8月6日、フェラーラで書かれた、舅エルコレ・デステ(フェラーラ公爵)への手紙。口述筆記で、ずっとルクレツィアの秘書をしていたクリストフォーロ・ピッチニーノ(Christoforus Piccinino)が書いている。

夏の始めに体調を崩し、ずっと寝込んでいたルクレツィア。(マラリアだったのではないかと言われている。)
妊娠中でもあったので、彼女の病状は厳しく、なかなか回復しなかった。

当時の慣習では、王族や貴族の健康状態は一家に逐一報告されるべき、とされていた。
そのため、ルクレツィアは病気をひとりで静かに耐えることは許されず、定期的に詳細な経過報告をせねばならなかった。
その、自らの体調を報告する手紙

← → 左右は同じもの。右は上に重ねられている紙片をよけている。
← 下半分に重ねられている紙片は、従者についての諸事情が書かれた、連絡メモ。左わきにあるのは、宛名を書かれた封緘紙(ふうかんし)(封蝋に使用する紙片)。
→ 本文。中央空白部分下に「私の兄、ロマーニャ公爵(Duca de Romagna mio Fratello)」とわかりやすく見える。
Carteggi tra principi estensi, b. 141, fasc. 13, doc 21. Carteggi tra principi estensi, b. 141, fasc. 13, doc 21.

Carteggi tra principi estensi, b. 141, fasc. 13, doc 21.

← 裏面。ここにまで内容が及んでいる。
普通はここに宛先が書かれるが、重ねたもう1枚の紙を封筒のように使って宛名書きしている。ぜいたく!

(チェーザレは弟ホアンへの手紙で、同じように裏面にまで本文がはみ出しているが、その面に宛先を書いている。)


モデナ、エステ家秘密文書館(Archivio Segreto Estense)所蔵。


訳:

『最も高貴なる我が主君にして、敬愛する父上へ

父上の先月末の日付の書簡により、私の回復を知り喜んでくださったこと、そして父上が健康でいらっしゃることを知り、私はこの上なく大きな喜びを感じました。私自身にとっての幸せ以上に、父上の健康と安寧こそが、何よりも私にとっての最大の幸福なのです。

そこで、父上のご助言に従い、またご期待に応えるためにも、私は今後も引き続き回復に努め、健康を維持するために最大限の注意を払うつもりです。神もまた、私にそうするよう命じておられると考えております。

とはいえ、2日前から微熱を伴う軽い下痢に見舞われました。しかしその症状は非常に軽く、私自身の不摂生や過失によるものではなく、すでに快方に向かっております。
医師たちの見解によれば、これは健康的な経過であり、さほど心配する必要はないとのことですので、彼らの判断にすべてを委ねております。

先月3日の夜3時(23時45分)頃、最愛なる兄であるロマーニャ公が、騎士の装いでわずかな供を連れて、早馬でフェラーラに到着なされました。少々お疲れのご様子でしたが、ご自身の健康状態は良好で、寝所まで私を訪ねてくださいました。

貴方様の御子息であり、私の夫である殿下(lo illustrissimo signor mio consorte, アルフォンソ・デステ)も駆けつけてくださり、私たちは2時間ほど和やかに語らいました。その後、兄上は就寝され、午前11時(7時45分)頃に再び騎士の装いで出立なされました。夫も同行し、パルマの境までお送りになられたようです。

このことをご報告する義務があると考え、お知らせ申し上げる次第です。もっとも、兄上から直接すべてを詳しくお聞きになることでしょう。

貴方様の御手に口づけを捧げ、常なるご加護を謹んでお願い申し上げます

フェラーラにて、8月6日

貴方様の最も従順なる娘にして忠実なる奉仕者
ルクレツィア・エステンセ・デ・ボルジア 』

クリストフォロ・ピッチニーノ記す



チェーザレがルクレツィアを訪ねたのは、1502年7月28日とされているんだけど、この手紙では先月の3日になっている。
なぜ!!??
「a li tre del precedente」は「先月の3日」、無理に訳しても「3日前」になってしまう。
なぜ!!??
謎です。
わかる方おられたら、どうか教えてください!

※ これ、どうも28日という通説になっている日付が間違っている可能性が。
一次史料である「フォルリ年代記」やルクレツィアの手紙、ヴェネツィア大使ジュスティニアンの報告書が、総じて「チェーザレのウルビーノ出発は8月1日、フォルリに2日、フェラーラに3日、ミラノに5日」のように書いてる。



重ねられた連絡メモの訳:

『追伸

私は喜んでジャコモ・ダ・サン・セコンド(Jacomo da S. Secondo)を、閣下のもとへお送りするつもりだったのですが、彼はすでに出発しておりました。
自宅へ戻って自らの用事を片付けた後、再びこちらへ戻るつもりでおるようです。

戻り次第、すぐに彼を向かわせます。
もし閣下が(ジャコモの代わりに)ここにいる従者を必要とされるのであれば、誰かしらをそちらへ向かわせるよう指示致しますので、ご命じください。
閣下のご命令には従います。また、閣下が他に何かご用件があり、それを書面で伝えたい場合は、すぐにご一報ください。
謹んで閣下の御手に口づけを捧げ、変わらぬご加護をお願い申し上げます。』



ジャコモ・ダ・サン・セコンド(Giacomo da San Secondo)は、1502年から1505年の間にエルコレ1世の宮廷で歌手を務めていた人物。その前はウルビーノにいた。(チェーザレの侵攻でフェラーラに来てた?)
バルダッサーレ・カスティリオーネ(Baldassarre Castiglione)は、ジャコモを友人の一人として挙げ、著書「宮廷人 (Il Cortegiano)」の中で、彼がウルビーノ宮廷にいたことを記録している
バルトロメオ・トロンボンチーノ(Bartolomeo Tromboncino)やマルケット・デ・カラ(Marchetto de Cara)とともにマントヴァ宮廷でも活躍した。




Illustrissimo mio signor et padre observandissimo.
Intendendo per le lettere de vostra Illustrissima signoria de ultimo del passato quanto gli sia stata grata la novella de la mia convalescentia et quanto lei sia in bona valitudine ne ho recevuto incredibile consolatione sentendo de ogni piacere et del ben stare de vostra excellentia molto magiore contenteza che se concoressero in la persona mia propria.
Cussì per obbedire a li ricordi soi et per farli cosa grata, uso et usarò ogni possibile diligentia et cura per conservarmi in la principiata convalescentia, strengendomi etiam Dio la ragione a cussì fare, et benchè già duoi dì sono me sia sopraggiunto uno pocho di fluxo cum febre perhò molto leve non di meno è stata senza alchuno mio disordine et colpa et ha già presa bona via et spero che serà salubre, come iudicano questi signori medici al iudicio de li quali me reporto, cussì della causa come de la qualità de epso fluxo.

Lo illustrissimo signor Duca de Romagna mio fratello honorandissimo a li tre del precedente circha le tre hore de nocte vestito da cavallaro et per le poste cum poche persone gionse qua alquanto stracho benchè stasse bene de la persona et visitome al lecto, dove sua excellentia et lo illustrissimo signor mio consorte che subito vene lie et jo stassemo in ragionamenti piacevoli per spatio de due hore, poi andato il signor duca a dormire partite di qui circa le XJ hore pur in habito da cavallaro et cum sua excellentia andò il
↓ ここから裏面
prefato mio signor consorte cum jntentione de farli compagnia insino a lo confine de Parma. Del che mi è parso per debito mio dare speciale adviso a la vostra Illustrissima signoria benché me persuada che da la sua excellentia a bocca la jntenderà punctalmente il tutto. Et a quella basando le mani de continuo mi ricomando.Ferrarie, die VI Augusti 1502.
De vostra excellentia

Obediente figliola e servitrice
Lucretia Estensis de Borgia

Christoforus Piccininus scripsit


連絡メモ
Postscripta.
Haveria mandato molto volentieri lacomo da San Secundo a la excellentia vostra, ma lo è partito et andato a casa sua per componere le cose sue cum proposito de tornare poi qui. Gionto che sia lo mandarò subito, et se a vostra excellentia piacesse ch'io li facesse scrivere de qui che '1 venisse incontinente, la obedirò. Se anchora vostra illustrissima signoria li volesse fare scrivere de là ultra se faria più presto. Et alla quale basando le mani de continuo mi ricomando.






イザベッラ・デステへの手紙

ASMn Autografi, b. I, c. II3

1504年3月10日、フェラーラで書かれた手紙。

当時の手紙には、贈り贈られした食べ物が頻繁に登場していて、それはルクレツィアとイザベッラの間でも同様だった。
ルクレツィアの方からは、「毎年恒例の塩漬けの魚」を贈ったりしている。
公爵夫人も、普通のママ友みたいでかわいい。

訳:

『高貴なる夫の姉君にして敬愛すべき姉君へ

使者を通じて貴殿の書状を受け取り、また、お心尽くしの新鮮なブドウをいただきました。
この時期にはなかなか手に入らない品であるため、より一層嬉しく思いますし、何よりも貴殿のご厚意によって一層ありがたく感じております。これ以上に嬉しく、喜ばしい贈り物はございません。

常に私をお心に留めてくださっていることに心から感謝申し上げます。私もまた、ただ貴殿にお仕えし、貴殿に喜ばれることだけを願っております。心より貴殿にお薦め申し上げ、私のすべてをお捧げする所存です。

フェラーラにて、1504年3月10日

貴殿にお仕えすることを望む者
ルクレツィア・デ・ボルジア』

マントヴァ、ゴンザーガ文書館(ASMn)所蔵。






フランチェスコ・ゴンザーガへの手紙

[添付]

1505年8月18日、レッジョで、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ (Francesco II Gonzaga) に書かれた手紙。ニコラウス・ベンデデウス (Nicolaus Bendedeus)代筆。

塩野七生「ルネサンスの女たち」に登場するので有名な、兄チェーザレの解放に尽力してくれるよう、嘆願している手紙。

レジーノ枢機卿、
教皇ユリウス2世、
スペインのカトリック両王、
ウルビーノ公(グイドバルド・モンテフェルトロ)、
ローマ在住の、閣下の信頼できる方、

と、手当たり次第に働きかけて欲しいと書いている。
チェーザレ被害者の会筆頭であるだろう、ウルビーノ公の名前まで出すルクレツィア、さすがすぎる。


訳:

『高貴にして優れた君侯、我が義兄にして尊敬すべき兄上へ

これまで常に閣下が、いかなる状況においても私の高貴なる兄上である公爵 (チェーザレ) に対して並々ならぬ愛情を抱き、あたかも血縁の兄弟であるかのように、その名誉と利益に尽くしてくださる方であると存じておりました
そこで、私は全面的な信頼をもって、兄上の解放のために、閣下のご助力をお願いしたく存じます

現在、私はローマにおいて、教皇庁の許可と支持を得てレジーノ枢機卿(il reverendissimo cardinale Regino) をカトリック両王陛下 (Ferdinando II d’Aragona e Isabella I di Castiglia) のもとへ派遣するよう働きかけております。
この尊敬すべき枢機卿閣下は、これを快く引き受けてくださるとのことでした。残るは教皇聖下からの正式な許可と支持を得ることのみとなっております。

そこで、教皇聖下が閣下に深いご信頼を寄せておられることを承知しておりますゆえ、閣下にできる限りのお願いを申し上げたく存じます。
どうか教皇聖下に書簡をお送りいただき、レジーノ枢機卿閣下にこの許可をお与えくださるよう、強く嘆願していただけませんでしょうか
そしてまた、カトリック両王陛下にも、この件について力強く働きかけ、公爵が解放されるよう要請していただけますと幸いです。これは教皇聖下のご意志があれば、間違いなく実現されることでありましょう。

さらに、もしウルビーノ公 (il signore duca d’Urbino) がローマに滞在していらっしゃるようであれば、どうか閣下からも彼に書簡を送っていただき、この件について教皇聖下のご支援を確保するよう、働きかけていただきたく存じます。

この手紙をお届けするために特使の騎士を派遣いたしますので、閣下のご書簡を同封して返送していただけましたら幸いです。
また必要であれば、ローマ在住の閣下の信頼できる方に対して、教皇聖下に直接お話を通じて働きかけ、速やかにこの件を進めていただくよう指示していただけますと助かります。

兄上公爵閣下と私は、閣下のご助力に対し心より深く感謝申し上げ、決して忘れることはございません。閣下に私の誠心誠意の敬意をお伝え申し上げます。
閣下のご健康をお祈り申し上げます。

レッジョ、1505年8月18日
フェラーラ公妃 ルクレツィア』

(裏面)
高貴にして…
我が兄にして…
侯爵にして…(判読不能)

枢機卿レジーノは、ピエトロ・イスヴァリエス (Pietro Isvalies)のこと。
彼はメッシーナ出身のスペイン系枢機卿で、スペインの聖職者たちからだけでなく、教皇ユリウス2世の信任をも得ていた。

モデナ、国立公文書館 (Archivio di Stato di Modena) 所蔵。






アルフォンソ・デステへの手紙

(ASMo) CS, b. 141, f. II, doc. 32

1505年10月1日、レッジョで書かれた手紙。
ニコラウス・ベンデデウス (Nicolaus Bendedeus)代筆。

フランスに行っているアルフォンソに、留守中の訪問者についてと、皆変わらず元気であることを報告している。
また、ルクレツィアの廷臣サンチョがスペインを訪問し両王に手厚く迎えられたこと、これから兄チェーザレを訪問する予定であることを伝えている。


訳:

『高貴にして優れた君侯、我が伴侶にして最も尊敬すべき閣下へ

先ほど、ミラノのフランス王顧問官である尊敬すべきジャコモ・フィリッポ・シモネット (Jacomo Philippo Simonetto) 殿が来られました。彼は、ヌヴェラーラ (Novellara) とグアスタッラ (Guastalla) の間の紛争を解決するために参られたとのことです。
ミラノの偉大なるグラン・マエストロ (Gran Maestro di Milano) の命を受け、マエストロの代理として私を訪れ、最近誕生した男児について祝意を伝えるよう申しつかっているとおっしゃられました。

彼は非常に丁寧で愛情に満ちた言葉をかけてくださり、閣下と私の双方に対して多くの素晴らしい提案をしてくださいました。
また、彼は閣下のご様子とご健康についても、グラン・マエストロの名のもとに尋ねておられました。私は彼を喜んで迎え入れ、しかるべく応対いたしました。

さらに、私の家臣サンツォ(Sanzo) からの手紙を受け取りました。それらは少し古いものですが、最新のものは9月5日付でした。
その内容によると、彼はカトリック両王陛下 (Ferdinando II d’Aragona e Isabella I di Castiglia) から非常に厚遇され、大変光栄な謁見の機会を得たとのことです。
両王陛下は、閣下と私について多く尋ねられたそうですが、その詳細については、彼が直接口頭で報告する予定とのことです。

彼は任務を無事に終え、アルバ公 (Duca di Alba) の仲介により、6頭の馬を購入する許可を得たと記していました。
それらの馬を購入した後、私の兄上である公爵殿 (チェーザレ) を訪問し、そこからこちらへ戻る予定とのことです。したがって、彼が間もなくここへ戻ることを期待しております。

このことを閣下にお知らせしたく存じます。そして、いつものように閣下に私の敬意を捧げます。

サンツォの手紙は、セゴビア (Segovia) で書かれたものです。

レッジョ、1505年10月1日

閣下に仕える忠実なる伴侶
ルクレツィア』

ジャコモ・フィリッポ・シモネット (またはSimonetti, Simonetta)は、ミラノの有力なシモネッタ家出身で、スフォルツァ家の公爵秘書官を務めたチッコ・シモネッタ (Cicco Simonetta) の一族。

グラン・マエストロは、ルイ12世によりロンバルディア副王に任命されていたシャルル・ダンボワーズ (Charles II d’Amboise de Chaumont)のこと。

サンチョ (Sancho Spagnolo)は、ルクレツィアの宮廷に仕えたスペイン人廷臣。

アルバ公は、ファドリケ・アルバレス・デ・トレド (Fadrique Álvarez de Toledo)のこと。スペイン王室と血縁関係を持つ貴族。

モデナ、国立公文書館 (Archivio di Stato di Modena) 所蔵。






暗号で書かれた手紙

1510年10月8日に書かれた、夫アルフォンソ1世・デステへの手紙。
定規で書いた脅迫状のような、楔形文字のような、見るからに暗号!といった形式で書かれている。

Carteggi tra principi estensi, b. 141.

カンブレー戦争後、教皇庁とヴェネツィアの間で和平が成立したが、これはフェラーラの利益に反するものであったため、アルフォンソ・デステは受け入れを拒否した。
その結果、教皇ユリウス2世はアルフォンソを破門し、公国の統治権を剥奪した。
アルフォンソは同盟国フランスとともに、教皇庁・ヴェネツィア軍と相対することになった。

10月8日、ヴェネツィア軍はフィカローロ(Ficarolo)(フェラーラの北東、ポー河沿岸にある街)を占領し、
夜にはステッラタ(Stellata)(ポー河を挟んだフィカローロの向かい)も陥落させ、両地を焼き払った。

ルクレツィアは、アルフォンソに対して、ヴェネツィア軍によってステッラタが落とされたことを伝え、この情報は信頼できる者から得たものであるので、直ちに対策を講じるべきであると示唆している。


訳:

『高貴なる我が君へ

今晩24時に、ボンデーノ(Bondeno)(ステッラタから南に約8キロほどの街)からここフェラーラに、あるフェラーラ人が到着いたしました。
彼は枢機卿(イッポーリト?)の執事の息子で、私に次のように告げました。
すなわち、ステッラタは陥落したこと、
歩兵隊長マンチーノ(Mancino)に会って話をしたこと、
多くの兵が通過し続けており、ステッラタの城外の家々が兵士で満員であること、
さらに、ガレー船はボンデーノの宿屋の下流に停泊していたこと、
です。

このことを伝えねばと判断し、早馬にて貴殿にご報告いたします
また、ニコロ・ダ・エステ (Nicolò da Este) が貴殿のもとに到着したかどうか、お知らせいただければ幸いです。

フェラーラにて、1510年10月8日

高貴なる貴殿へ ルクレツィア公妃』

※ ニコロ・ダ・エステは、エルコレ1世の異母兄弟リナルドとルクレツィア・デル・モンフェッラート(グリエルモ8世パレオロゴの娘)の息子。
ステッラタ陥落の2日後、アルフォンソの許可なくボローニャへ赴き教皇と会見したため、反逆者である可能性が取り沙汰された。
が、彼はフェラーラのために教皇と交渉していたよう。

この手紙は2015年にダニエーレ・パルマ (Daniele Palma) によって解読された。最近すぎて驚く!


Illustrissimo signore mio et cetera.
Questa sira ale vintequatro hore è venuto dal Bondeno qui uno di Ferraria, genero del bailo del cardinale, il quale me ha dicto che la Stelata è persa, et lui havere visto et parlato cum il Mancino che era capo de quelli fanti che vi erano dentro, et che lo è passata molta gente et tutavia passava, et erano piene quelle case che sono dreto il borgo dela Stellata, et che le galee nostre erano de sotto dala hostaria del Bondeno. Mi è parso darne adviso alla signoria vostra per questa spazata per staffeta. La signoria vostra me advisarà se meser Nicolò da Este è venuto a lei. Ferrarie, octavo octobris mdx.

Illustrissima signoria Lucretia ducissas



モデナ、国立公文書館 (Archivio di Stato di Modena) 所蔵。




  • ルクレツィアの暗号手紙は2種類ある。

1・置き換え暗号(Substitution Cipher)
文字を別の記号や数字に置き換えたり、略語を使用する。
上記のもの。普段使わない記号や数字に置き換えているので、一見して暗号であることがわかる。

最初の2行を解読すると、以下のようになる。
ルクレツィアの手紙、置き換え暗号表

ルクレツィアはさらにイタリア語、ラテン語、スペイン語を混在させており、読解を困難にしている。




2・偽装文章(scrittura dissimulata)
表向きの慣用表現に、異なる意味を持たせる。
下記のものが、その対応表。
記号を使用せず、一見普通の手紙になるので、万が一敵方に渡っても怪しまれることを避けられる。
ルクレツィアの使用していた表向きの表現は、家庭的な日常会話になっていて、ありきたりな夫婦間のやり取りに偽装することができた。

暗号解読表
制作者は、筆跡から人文主義者で詩人のピエトロ・アントニオ・アッチャイオーリ (Pietro Antonio Acciaioli) であるとされる。
裏面に「高貴なる公爵殿へ(Cum Illustrissimo Domino Duci)」とある。
ルクレツィアが、夫アルフォンソ・デステと交わした秘密通信に使用したコード。

画像の説明

モデナ、エステ家秘密文書館
(Archivio Segreto Estense)所蔵
1 Il puttino grande sta bene1 Franzesi vanno pur verso Francia
2 per la gratia di Dio2 Sono in Alexandria
3 et attende ad imparare3 Sono in Asti
4 et il maestro dice che ha bono ingegno4 Sono passati li monti
5 Il puttino grande ha un poco di male5 Franzesi si fanno forti
6 è andato tre volte6 Intendemo che Franzesi non vi vorriano accordato
7 è andato due volte7 Intendemo che a Franzesi piace siate accordato
8 Il puttino piccolo sta bene8 Alexandria è persa
9 Il puttino piccolo si fa bello9 Intendemo lo Imperatore essere con la Liga
10 Mastro Ludovico dice che non male alcuno10 Intendemo lo Imperatore harà essere
11 Mastro Sigismondo dice che sarà presto uno gagliardo11 Il Gurgense biasma lo andare a Roma
12 Messer Aloysio della Regina dice il simile12 Il Gurgense lauda lo andare a Roma
13 lo sto bene13 Forzatevi di venire presto a casa
14 Il fluxo non da impacio al putto14 Venitiani stanno in pace
15 Mastro Sigismondo dice chel guarisce15 Gente hispagniole sono giunte in Romagnia
16 Vostra Signoria face bene attendere a li puttini16 Le cose nostre passeranno bene
17 Vostra Signoria faci chel putto grande vadi a scola17 Costoro vogliono pure conditione grande da noi
18 Vostra Signoria faci curare il putto piccolo18 Non è dubio alcuno ch' el salvaconducto ne sii ropto

裏面にも続いていて、27. まである。



訳:

表向きの慣用表現対応する政治・軍事関連の情報
1. 大きな坊やは元気です1. フランス軍はフランスへ向かっています
2. 神の恵みにより2. 彼らはアレッサンドリアにいます
3. そして勉強に励んでいます3. 彼らはアスティにいます
4. 師は聡明だと言っています4. 彼らは山を越えました
5. 大きな坊やは少し具合が悪いです5. フランス軍は防備を固めています
6. 3度行きました6. フランス軍は貴殿と和解するつもりはないと聞いています
7. 2度行きました7. フランス軍は貴殿との和解を望んでいると聞いています
8. 小さな坊やは元気です8. アレッサンドリアは陥落しました
9. 小さな坊やはすくすく育っています9. 皇帝が同盟に加わると聞いています
10. マエストロ・ルドヴィーコは、何も問題はないと言っています10. 皇帝はフランス王と手を組むつもりだと聞いています
11. マエストロ・シジスモンドは、すぐに丈夫になるでしょうと言っています11. グルゲンセ(おそらく皇帝マクシミリアン)はローマ行きを批判しています
12. メッセール・アロイージョ・デッラ・レジーナも同様の意見です12. グルゲンセはローマ行きを支持しています
13. 私は元気です13. なるべく早く帰るよう努めてください
14. 下痢は坊やに影響を与えていません14. ヴェネツィア人は平和を維持しています
15. マエストロ・シジスモンドは、すぐに回復すると言っています15. スペイン軍がロマーニャに到着しました
16. 貴殿が坊やたちを気にかけているのは良いことです16. 我々の状況は好転するでしょう
17. 貴殿は大きな坊やを学校に通わせるべきです17. 彼らは我々に厳しい条件を突きつけています
18. 貴殿は小さな坊やの治療に努めるべきです18. 通行許可が取り消されることは疑いようもありません

「大きな坊や」 (puttino grande) と 「小さな坊や」 (puttino piccolo) という表現があり、
これは 1508年4月4日生まれのエルコレ(後のエルコレ2世)と、
1509年8月25日生まれのイッポーリト(後の枢機卿イッポーリト2世)
を指している。
しかし、1514年4月に生まれた三男アレッサンドロには言及がない。

ので、この暗号が作られたのは1509年末から1514年初頭の間と推定される。
1512年、アルフォンソ1世は、ラヴェンナの戦い後のフランス軍撤撤退を受け、ローマで教皇ユリウス2世との和解を図り、破門の解除を得ようと奔走していたので、この頃のものではないかとされている。


一部での(過去の?)ルクレツィアの評価が、「美しいだけ」「愛される才能はあった」「お人形でしかなかった」で終わっていたのは、彼女のこういう暗号手紙がそのまんまの意味で受け取られていたから、なんじゃないのか?
フェラーラの危機でアルフォンソが国を離れている時に、手紙の内容が「大きな坊やは少し具合が悪いです」みたいなことに終始してたら、「国政には無関心で何もできなかった」と思われても仕方ない。

しかし「ステッラタ陥落、直ちに対策を!」と早馬を出す公妃が、無能だったわけない。

でもそうしたら、どこまでが「偽装された手紙」だったんだろう。
ルクレツィア… 彼女を翻弄した父と兄は強烈にすぎたけど、ルクレツィアもまた魅力のつきない強い個性の持ち主である。






アルフォンソ・デステへの手紙

ASMo CS、b. I4I、f. III、doc. 30

1518年11月26日、ルクレツィアの母ヴァノッツァ・カッタネイが亡くなった。
ヴァノッツァの死から数ヶ月後1519年1月2日、母の死による悲しみを和らげてくれた夫アルフォンソに、感謝の意を表して書かれた手紙。本人直筆。

当時の慣習として、国の重要な地位にある者は、書簡を秘書や筆記者・書記官に任せるのが一般的で、手紙は格式を保つための慎重な書式に則って書かれるものだった。
自筆での手紙は、ルクレツィアとアルフォンソの政治的な思惑を超えた、夫婦としての深い理解と優しさを伝えている。

しかし1494年に父アレクサンデル6世に宛てて書かれた自筆手紙より、ずっと字が丁寧で美しくなってる!
20余年でのルクレツィアの成長が、垣間見える。

モデナ、国立公文書館 (Archivio di Stato di Modena) 所蔵。

訳:

『最も高貴なる私のご主君へ

閣下からいただいた心のこもった慰めに、心から感謝いたします。そのおかげで、母の死によって私の意に反して時折感じていた、わずかに残っていた悲しみが完全に癒されました。もう何も悲しむことはありません。加えて待ち望んでいました閣下の早いご帰還の知らせを聞き、さらに閣下のご状況が引き続き良好であることを知ることで、私は限りなく喜び、慰められております。
これらすべてに対し、私は私たちの主なる神にできうる限りの熱意をもって感謝申し上げます。そして、口頭で直接お聞きするのを心待ちにしている多くのことがございます。それらは手紙で詳細に記すには長くなりすぎることばかりです。

ドン・シジスモンド様とメッセル・アントニオ様には、現在も過去も、常に助言を伝えて参りました。以前の手紙で閣下に申し上げたように、私はできる限り閣下の命令を思い出し、従うよう努めています。

こちらの状況は、主なる神の恩寵により、概ね良好です。望むほど完璧ではないものもありますが、対策は講じられています。いずれ閣下が直接お会いになった際に、神のご加護のもと、より詳しくお伝えできるでしょう。
外部からの情報やその他の詳細については、オピツォの手紙に委ねます。ドン・イッポリート様主なる神の恩寵により、今ではすっかり良くなりました。ただ、ドン・フランチェスコ殿は少し痩せていらっしゃるようです。私はいつものように元気です。
ガレアッツォ・ボスケット殿について、また、ドン・エルコーレ殿のこともお伝えしますが、彼は大変健康に過ごしております。

私は閣下のご配慮に深く感謝しております。そして、私の息子に対して閣下がご尽力くださったことについても、感謝しております。すでに何かしらの手を打たれているであろうと存じております。

フェラーラにて、1月2日
閣下のご奉仕者
L.』

※ 息子とは、1498年に生まれたルクレツィアとペドロ・カルデロン(通称ペロット)の子とされる、ジョヴァンニ・ボルジア(インファンテ・ロマーノ)のこと。
ルクレツィアは息子を近くに置きたいと考え、親しい友人である人文主義者のアルベルト3世・ピオ・ダ・カルピに託していた。
アルフォンソはこの時フランスへ行っていて、彼の目的の一つはジョヴァンニを王宮に仕えさせることであった。(しかし成功しなかった。)






イザベッラ・デステへの手紙

a Isabella d'Este ASMn Autografi, b. 4, c. 92

1519年2月14日、フェラーラで書かれた手紙。

フェラーラで獲れた魚の塩漬けを、今年も贈りますね、と言っている。
アルフォンソがいないと言ってるけど、どこに行ってるんだ。この時期戦争はしてないよね。
旅好きだったと言うから、遊び行ってるのかな?
ルクレツィア、さみしいね。(のびのびしてるかな?)

ルクレツィアとイザベッラは頻繁に手紙のやり取りをしていて、それは互いの国が敵対する陣営に属していた時も変わらなかった。
ので、のどかでかわいい手紙だけど、「塩漬けの魚」が何かの隠語だったら怖い。


訳:

『最も高貴にして卓越せる貴婦人、敬愛する義理の姉君へ

私の最愛なる夫、高貴なる公爵様が不在ではございますが、それでも毎年の習慣として、姉君に塩漬けの魚をお贈りすることを、怠りたくはございません。
そこでこの私から姉君に、この手紙とともに、今季に獲れた中で最良のものを40匹、小箱に入れてお送りいたします。

もしこれらが小さいようでしたら、それは我が領地の潟湖における収穫の結果であり、今年はそれ以上大きなものが獲れず、しかも数も少なかったことによるものとご理解くださいませ。

どうかこれらを、公爵様と私の愛情の証としてお召し上がりくださりますよう。
姉君に変わらぬご加護をお願い申し上げます。

フェラーラにて、1519年2月13日

義妹である妹の
フェラーラ公妃 ルクレツィア』

マントヴァ、ゴンザーガ文書館(ASMn)所蔵。



Illustrissima et excellentissima domina cognata et soror honorata. Anchor che lo illustrissimo signor duca mio consorte sia absente, non voglio però che si ometta la consuetudine de sua excellentia di mandare ogni anno a vostra signoria qualche pesce salato. Unde io indirizzo con questa mia alla signoria vostra quaranta meglioramenti salati in una cassetta, quali sono della più bella sorte che se siano presi in questa stagione. Et se sono piccoli, quella ne imputi le nostre valli, che non n'hanno produtti di magiori, et questi etiam in pocha quantità. Lei se dignarà goderni per amore del signore duca et mio; et ad essa me raccomando sempre. Ferrarie, xiii. februarii 1519.

Cognata et soror Lucretia ducissa Ferrarie et cetera






レオ10世への手紙

 lettere a destinatari diversi,141

塩野七生「ルネサンスの女たち」に登場するので、かなり有名なルクレツィア最期の手紙

1519年6月22日、死の2日前にフェラーラで書かれている。

自らの死期が近づいていることを悟り、当時の教皇レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)に、魂への祝福と残される夫と子どもたちへの加護を求めている。


モデナ、モデナ州立公文書館(ASMO, Archivio di Stato di Modena)、
エステ家の君主たちの書簡(ASE, Casa e Stato, carteggi tra principi estensi)所蔵。


訳:

『至聖なる父にして、最も祝福されし我が崇敬する主へ

心よりの敬意をもって、あなたの至福なる御足に口づけし、謹んでその聖なる恩寵に身を委ねます。
私は困難な妊娠のために2ヶ月以上大きな苦痛を経験しましたが、神の御心により、今月12日の夜明けに娘を出産いたしました。出産を終えれば病状が和らぐことを期待していたにもかかわらず、逆に悪化してしまい、もはや自然の摂理に身を委ねざるを得ません。

しかし、最も慈悲深い創造主は私に大いなる賜物を与えてくださいました。
私は自らの命の終わりを悟り、数時間のうちにこの世を去ることを感じておりますが、その前に教会のすべての聖なる秘蹟を受けました。
この瞬間、罪深い者ではありますが、キリスト教徒として、至福なるお方に謹んでお願い申し上げます。
どうか、その慈悲深き御心により、霊的な宝から私の魂に何らかの助けをお授けいただき、聖なる祝福を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

また、私は聖なる恩寵に、私の夫と子供たちをお委ねいたします。彼らは皆、至福なるお方のしもべでございます。

フェラーラにて、1519年6月22日、午後1時

至福なるお方の謙虚なしもべ
ルクレツィア・ダ・エステ



この時生まれたルクレツィアの娘イザベッラ・マリアは、死産もしくは生後まもなく死亡とされてきたが、2歳直前まで生存したよう。
(1519年6月14日生~1521年3月7日没)。
4つ上の姉エレオノーラとともにコルプス・ドミニ修道院で育てられた。
イザベッラの死後、エレオノーラは深く悲しみ、妹の埋葬を拒んだという記録が残っている。

ルクレツィアは1519年6月24日(土曜日)の午前4時、フェラーラのエステンセ城の大中庭に面した自室で、息を引き取った。


Santissimo padre et beatissimo signor mio colendissimo.
Con ogni possibile reverentia d'animo basio li sancti piedi di vostra beatitudine, et humilmente me raccomando in la sua sancta gratia. Havendo io per una difficile gravidezza patito gran male più di duo mesi, come a Dio piacque a xii. del presente in aurora hebbi una figliola. E speravo, essendo scaricata del parto, che ‘l mal mio ancho si dovesse alleviare. Ma è successo il contrario, in modo che mi è forza concedere alla natura. E tanto di dono m'ha fatto il clementissimo nostro Creatore, che io cognosco il fine de la mia vita e sento che fra poche hore ne sarò fuori, havendo però prima ricevuti tutti li sancti sacramenti de la Chiesia. Et in questo punto come christiana, benché peccatrice, mi sono racordata de supplicar a vostra beatitudine che per sua benignità si degni dare del thesoro spirituale qualche suffragio con la sua sancta benedictione all'anima mia, e così devotamente la prego. Et in sua sancta gratia raccommando il signor consorte et figlioli mei, tutti servitori di prefata vostra beatitudine. In Ferrara, adì ,xxii. de zugno 1519, a hore xiii.

De vostra beatitudine humil serva
Lucretia da Este






ルクレツィアの目録

画像の説明

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アルフォンソ・デステの手紙

フェデリーコ・ゴンザーガへの手紙

マントヴァ侯になったばかりの、フェデリーコ2世・ゴンザーガ (Federico Ⅱ Gonzaga) への手紙。
左は1519年6月23日に、右は翌日1519年6月24日に書かれている。1519年6月24日はアルフォンソの妻ルクレツィア・ボルジアの命日。

アルフォンソはルクレツィアの死を早とちりし、フェデリーコに妻の死を報告する手紙を書いていた。
まず、薬剤師のアルベルト(Maestro Alberto)がルクレツィアを亡くなったと思い込み(ひどい)、空のひょうたんを持って遺体を洗うためのバラの香り水を取りに向かった。アルフォンソはこれを見て妻の死を悟り、フェデリーコに手紙を書いたのだった。
しかしルクレツィアはまだ息をしている!
アルフォンソは慌てて、先の手紙は誤報であると伝える手紙を書く。それが左の手紙。
文字が雑で、急いで書いたであろうことがうかがえる。

 Archive Gonzags 84, b. 4C 120  Archive Gonzags 84, b. 4C 122

ルクレツィアの死は誤報…と急ぎ伝えたかいなく、ルクレツィアは翌日本当に亡くなってしまう。それを報告するのが右の手紙。
もう何も急ぐことはないので、落ち着いて書かれているように見える。

訳:
『1508年6月14日

最も高貴なる殿

私の主君である公妃が、思し召しによって我らが主のもとへ召されてしまったことは、私にとって非常に悲しいことです。私は、(彼女の)魂が神のみもとにあることを願います。しかしながら親愛なる殿よ、このような悲しみの中で私は何をすべきなのか分かりません。

私の主が亡くなったことにより、私の心は完全に打ちのめされております。どのようなことも、(私の悲しみを)和らげることはできません。私は、涙なしにはこの言葉を綴ることができません。彼女は私にとって甘美で愛すべき仲間でありました。その賢明な助言と、私たちの間にあった深い愛情を、私は忘れることができません。

今後どのように慰めを得るべきか、見当もつきません。私は彼女が旅立ったその地に思いを馳せ、深い悲しみに沈んでおります。親愛なる殿、どうか私とともにこの嘆きの中においでください。

私は涙とともにこの手紙を書いておりますが、どうかこの悲しみを和らげる言葉をかけていただければ幸いです。貴殿が私を気遣ってくださることを願っております。

フェラーラ公アルフォンソ』

スビアーコのボルジア城の展示では「左の手紙が最初の誤報手紙」で「右の手紙が誤報訂正手紙」と書かれていたんだけど、間違ってると思う。
万一、私が間違っていたらすみません。

どちらも、マントヴァ、マントヴァ国立公文書館(ASMn)所蔵。





ヴァノッツァの手紙

アレクサンデル6世への手紙

Lettra di Vanozza al AlessandroⅥ

チェーザレやルクレツィアの生母ヴァノッツァ・カッタネイからアレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)に送られた手紙。
1495年頃に書かれたと思われる。

1486年、ヴァノッツァはゴンザーガ家の枢機卿侍従であったカルロ・カナーレと3度目の契約結婚をする。(4度目という説もある。)
この頃にはヴァノッツァとロドリーゴの愛人関係は終息を迎えていたようだが、2人の信頼関係は、ロドリーゴが教皇となって後も、穏やかに続いたと言われる。

手紙は夫カルロ・カナーレとの過不足のない生活を報告し、アレクサンデルへの変わりない愛と忠誠を語っている。


ヴァティカン、使徒文書館所蔵。




アレクサンデル6世への手紙

ヴァノッツァが、アレクサンデル6世に拝謁を願う手紙。
ちょうどその頃(1493年)、スペインに渡っていた息子ガンディア公ホアンに息子が生まれているようで、そのことを祝福している。

ヴァノッツァからアレクサンデル6世への手紙

ヴァティカン、使徒文書館(Archivio Apostolico Vaticano)所蔵。

訳:
『いとも祝福されし聖下へ、あなた様の御足に口づけを捧げたのち
先日、私は聖下に小文を書き送りましたが、それがお手元に届いたかどうかは分かりません。
それゆえ、改めてお願い申し上げます。どうか聖下のご恩寵をもって、私のそちらへの参上をお許しください。

聖下にお伝えしたいことが多々ございますし、それらのことについて、きっと聖下もお喜びくださるであろうと確信しております。

とりわけまさに今は、公爵様のもとにあの美しき御子息が誕生されたというご朗報を、お話する喜びがございます。

どうか神の御加護によって、聖下が常に良い知らせに恵まれ、健康と幸運そして幸いなるご境遇にありますよう、願ってやみません。

もはや申し上げることはございません。
ただただ謹んで、あなた様の御足に身をお委ね申し上げるのみでございます。

聖下の
ヴァンノッツァ・デ・カタネイ』

Beatissime pater de poi basando li piedi de V. S.
A questi dì passati scripsi una polisa alla V. S.: non so se la habuta, per tanto torno a supplicar la S. V. me faccia gratia della mia venuta qua per che haveva de dire molte cose delle quale son certa V. S. ne haveria piglato piacere et maximamente adesso venirne ad alegrare della bona nova dello S.or Duca del bello figlolo che liè nato.
Dio sia pregato sempre ne habiamo bene nove con vita et sanità et felice stato della V. Beatitudine...
Non altri si non che humilmente me raccomando alli piedi de V. S.
E. S. V.
VANNOZZA DE CATANEIS






ニッコロ・マキァヴェッリの手紙

La responsabilità politica nelle legazioni condivise.
Si sono opportunamente sottolineati i limiti politici
delle funzioni e dell’azione di M. durante le sue le-
gazioni (Dupré-Theseider 1945, pp. 83-85; Ridolfi
1954, 19787, pp. 42, 439-40; Chabod 1964, p. 274), e
si deve pertanto cercare di valutare con attenzione
l’apporto che poteva venire e sicuramente sarà venu-
to dal compagno di legazione, che era poi sempre di
maggior rango diplomatico; tuttavia, non ci si sot-
trae all’impressione che, anche quando affiancava un
titolare ufficiale al quale fungeva da segretario, M.
finiva in qualche modo con l’imprimere una sua per-
sonale impronta alle lettere che formalmente (ma
spesso non materialmente) il titolare firmava.
Nelle due lettere di suo pugno della prima lega-
zione al Valentino è il ritratto stesso del duca che a
noi appare su una linea di continuità – quasi un pri-
mo, ma già efficacissimo e a suo modo compiuto
schizzo – con quello che poi M. avrebbe consegnato
a pagine celeberrime del Principe:
El modo di questa vittoria è tutto fondato su la pru-
denzia di questo Signore el quale, essendo vicino a 7
miglia a Camerino, sanza mangiare o bere, s’appresen-
tò a Cagli che era discosto circa miglia 35 e nel medesi-
mo tempo lasciò assediato Camerino e vi fece fare cor-
rerie; sì che notino vostre Signorie questo stratagemma
e tanta celerità coniunta con una estrema felicità
(Francesco Soderini alla Signoria, 22 giugno 1502,
LCSG, 2° t., p. 232).

共同派遣における政治的責任

マキャヴェッリの派遣中の職務と行動の政治的な制約については、適切に指摘されてきた(Dupré-Theseider 1945, pp. 83-85; Ridolfi 1954, 19787, pp. 42, 439-40; Chabod 1964, p. 274)。したがって、派遣において常により高い外交的地位を持つ同行者 からどのような貢献があり、確実に影響を受けたかを慎重に評価する必要がある。しかしながら、マキャヴェッリが正式な大使の補佐として同行した際にも、最終的には彼が署名者(形式的には大使であるが、実際にはそうではないことも多い)となる書簡に個人的な影響を与えていた という印象を拭い去ることはできない。

最初のヴァレンティーノ公への派遣 で彼自身が書いた2通の手紙において、公爵の肖像は、後に『君主論』の著名なページへと繋がるような、一貫した描写 をなしている。それは、あたかも初めてのスケッチでありながら、すでに非常に効果的で、ある意味完成されたものである。

	「この勝利の方法はすべて、この君主の慎重さに基づいている。彼はカメリーノから7マイルの地点にいたが、飲食もせずに、約35マイル離れたカリに到達した。同時に、カメリーノの包囲を維持しながら、その地で襲撃を行わせた。したがって、シニョーリアの皆様はこの策略と、極端な機敏さと結びついたこの成功をよくご覧いただきたい。」

(フランチェスコ・ソデリーニからシニョーリア宛、1502年6月22日, LCSG, 2巻, p. 232)

E nella successiva lettera, che porta la data del 26
giugno all’alba e si chiude con la significativa postil-
la «La non è riveduta» (ossia, M. spedisce un testo
scritto currenti calamo e non riletto), il ritratto viene
svolto e precisato:

Questo Signore è molto splendido e magnifico; e nelle
armi è tanto animoso che non è sì gran cosa che non li
paia piccola; e per gloria e per acquistare stato mai si
riposa, né conosce fatica o periculo. Giugne prima in
un luogo che se ne possa intendere la partita donde si
leva; fassi benevolere a’ suoi soldati; ha cappati e’ mi-
gliori uomini d’Italia. Le quali cose lo fanno vittorioso
e formidabile, aggiunto con una perpetua fortuna
(Francesco Soderini ai Dieci, 26 giugno 1502, LCSG,
2° t., p. 247).
Una conferma che solo dalla mente oltre che dal-
la penna di M. potevano uscire tali osservazioni la si
ha leggendo i pur notevoli carteggi diplomatici di
Francesco Soderini quando non aveva al suo fianco
M. (le lettere con cui portò a termine la legazione
presso il Valentino sono in N. Machiavelli, Legazioni
e commissarie, a cura di S. Bertelli, 1964, pp. 270-319;
per i rapporti tra M. e Francesco Soderini durante la
legazione al Valentino, cfr. G. Sasso, Machiavelli e
Cesare Borgia. Storia di un giudizio, 1966, pp. 31-41;
inoltre, una sua importante legazione in Francia nel
1501 sarà presto pubblicata a cura di Denis Fachard
e di chi scrive).
Se nella seconda legazione alla corte di Francia,
nel 1504, l’ambasciatore Niccolò Valori appare più
geloso delle sue prerogative e solo in tre casi volle
cedere la penna a M., che quindi firmò in nome pro-
prio, mentre per il resto redigeva e firmava di suo
pugno, considerazioni analoghe a quelle appena
svolte per la prima legazione a Cesare Borgia posso-
no, invece, essere avanzate per la lunga legazione
presso Massimiliano d’Asburgo dell’inverno-prima-
vera 1508, per la parte in cui Francesco Vettori ebbe
al suo fianco Machiavelli. Già alquanto intricata è la
questione della mano che stendeva la lettera che poi
Vettori firmava, giacché in realtà anche la firma di
Vettori è spesso di mano di M. al pari del testo delle
lettere; eppure talvolta Vettori si alternava a M. nel
copiare lettere di particolare lunghezza (quindi esi-
steva un originale che rimaneva presso gli inviati fio-
rentini, e che probabilmente era il frutto di un’ela-
borazione condivisa). E vi è anche il caso limite di
una lettera per buona parte di mano di Vettori fino
alla conclusione, tranne poi – un segnale politico? –
l’indicazione di luogo, la data e la firma («Francesco
Vectori») di mano di M. (cfr. la lettera dell’8 febbr.
1508, LCSG, 6° t., p. 155).

そして、次の書簡では、1502年6月26日付の早朝に記され、最後に「La non è riveduta(これは推敲されていない)」という注記が付されている(つまり、マキャヴェッリは推敲せずに、書き上げたままの状態で送付した)。この書簡では、公爵の肖像がさらに詳細に描かれ、より明確になっている。

	「この君主は非常に華麗で壮大である。そして、戦においては極めて勇敢であり、どんなに大きなことでも小さく見えるほどである。彼は名誉と国家の獲得のために決して休むことなく、疲労や危険をものともせず進む。彼がある場所を発つと、その動向が察知されるよりも前に、すでに次の地に到達している。彼は兵士たちに慕われ、イタリアの最も優れた兵たちを引き入れている。これらの要素が彼を勝利へと導き、恐るべき存在たらしめている。そして、それに加えて、彼には尽きることのない幸運がついている。」

(フランチェスコ・ソデリーニから十人委員会宛、1502年6月26日, LCSG, 2巻, p. 247)

このような観察が、マキャヴェッリの知性と筆によるものであることは、ソデリーニがマキャヴェッリの同行なしに作成した外交書簡を読むことで確認できる。ソデリーニがヴァレンティーノ公との外交使節を終えた際の書簡は、以下の編纂に収められている。

	•	N. Machiavelli, Legazioni e commissarie, 編集:S. Bertelli, 1964年, pp. 270-319
	•	G. Sasso, Machiavelli e Cesare Borgia. Storia di un giudizio, 1966年, pp. 31-41
	•	さらに、1501年のフランス派遣に関する重要な書簡が、近く Denis Fachard と本稿の筆者によって出版予定 である。

1504年の第二次フランス派遣 では、フィレンツェ大使ニッコロ・ヴァロリ(Niccolò Valori) が自身の権限を厳格に守ろうとし、マキャヴェッリに筆を譲ったのは3回のみ であり、彼が独自の名義で署名したものもその3通に限られていた。それ以外の書簡はヴァロリ自身の手によるもので、マキャヴェッリが代筆する機会はほとんどなかった。

しかし、1508年冬から1508年春にかけての神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世への派遣 では、マキャヴェッリが外交交渉において重要な役割を果たしたことが確認されている。この派遣では、正式な大使であったフランチェスコ・ヴェットーリ(Francesco Vettori) の補佐としてマキャヴェッリが同行した。

この派遣における書簡の作成に関しては、署名の問題も含めて非常に複雑な状況があった。実際には、ヴェットーリ名義の書簡の多くがマキャヴェッリ自身の筆によって書かれている ことが確認されており、ヴェットーリが書いたものよりもマキャヴェッリが起草した書簡の方が多いことが指摘されている。しかしながら、ヴェットーリが書簡を自ら筆写することもあり、特に長文の書簡では二人が交互に書き写していた ことが分かっている。したがって、フィレンツェの派遣団に保管されていた原本は、おそらく二人の共同作業によって生み出されたもの であったと推測される。

また、書簡のほとんどがマキャヴェッリの筆によるものだが、最後の署名だけはヴェットーリが手書きしたもの という場合もあり、これは政治的な意図を示している可能性がある。たとえば、1508年2月8日付の書簡 では、本文の大部分はヴェットーリ自身が書いたが、場所の記載、日付、署名(「Francesco Vectori」)だけはマキャヴェッリの筆跡であった(LCSG, 6巻, p. 155)。






その他の手紙

レオナルド・ダ・ヴィンチの自薦状

ダ・ヴィンチの自薦状。

ミラノ、アンブロジアーナ図書館所蔵。
(アトランティコ手稿。)

1482年、レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェからミラノへ移った時、ミラノ公国の摂政ルドヴィーコ・スフォルツァに宛てて書いた自薦状。

ダ・ヴィンチの直筆ではなく、おそらく助手が書いた下書き。なので鏡文字ではなく、左から右へと普通に書かれている。
1から10までが箇条書きされており、4の後に9がある。
ざっと列挙した後に番号をふって、順番を修正したと思われる。
(確かに、ずっと陸上戦の話してるんだから、海戦については9番目の方がしっくりくるよね。)

訳:
『我が高名なる閣下

自らを兵器の専門家と称する者たちの功績を充分に見聞し検討した結果、彼らの発明は一般的なものと何ら変わるところがないことを確認致しました。
他の誰の名誉も傷つけるつもりはありませんが、ここで私自身の秘策を閣下に明かし、閣下の完全なる自由裁量で、以下に列挙したすべてのものを効果的に運用していただきたいと存じます。

1.敵を追撃し、場合によっては逃走するための、非常に軽くて丈夫で容易に持ち運び可能な橋。火災や戦闘のいずれにおいても破壊されない頑丈な橋。
持ち上げて所定の位置に設置するのが簡単で便利な橋。
また、敵のものを燃やして破壊する手段も考えております。

2.包囲戦において、敵城の濠から水を抜く方法。
必要な橋、マントレット(移動防楯)、梯子、その他の道具を作る方法。

3.どのような要塞でも破壊する方法。
包囲した城の状況や位置的優位のため、砲撃によって陥落できない場合、お役に立ちます。

4.簡単に持ち運びができ、嵐のように小石を投げつけることができる種類の大砲。
大砲からの煙は、敵に重大な損害と混乱、大きな恐怖を与えることでしょう。

9. 海戦において、攻撃にも防御にも非常に適した多くの装置。
あらゆる重砲の砲火や火薬や煙に耐える船。

5.騒音なしに坑道や秘密通路を建築する方法。
濠や川の下をくぐり、指定された場所に到達することも可能です。

6.安全で難攻不落の、敵や敵の大砲を突発する屋根つきの乗り物。
これらの後方に歩兵がつけば、妨げられることなく完全に無傷で移動できます。

7.必要性とあれば、非常に美しく機能的な、威力ある大砲や軽火器を作製致します。

8.大砲の使用が困難な場合、大石弓、大投石機、その他、一般に使用されていない素晴らしい功績を上げる器具を作製致します。
さまざまな状況に応じて、攻撃や防衛のためのアイテムを無限にお作り致します。

10.平時においては、公用私用の建築物、またある場所から別の場所への導水(水道の建設)でも、他の誰にも劣らない仕事のできることを信じております。

大理石、ブロンズ、粘土の彫刻も致します。
同様に絵画の分野でも、他の誰にも劣らない仕事を致します。

さらに、お父上とスフォルツァ家の不滅の栄光と永遠の名誉のために、ブロンズの騎馬像制作を請け負うこともできます。

もし、上記のようなことが不可能であったり、実現不可能であると思われるようなことがあれば、城内の庭や閣下のお気に召す場所で実演させていただきますので、何なりとお申し付けください。』

自分がいかに戦争に役立つかをアピールしていて、絵を描くことはついでのように書かれている。
ミラノは政情不安な都市であったし、スフォルツァ家は傭兵隊長の出自であったので、ルドヴィーコにおもねったのではと言われている。
また絵を描くことに嫌気がさしていたのではとも言われている。(システィーナ礼拝堂装飾のための画家に選出されなかったし、やさぐれてた?)

また、軍事技術者として何でもできるかのように書いているが、戦争を経験したことはなく、実績はひとつもなかった。
また、兵器の多くは独創的で画期的ではあったが、実用的と言うよりも空想的だった。
しかし1番に書かれている持ち運び可能な橋は、チェーザレの下で実現化している。




ルクレツィアの主治医からエルコレ・デステへの手紙

Archivio per materie, Medici e medicina, b. 21, fasc. 4

1502年、夏の初めから長く病に臥せっていたルクレツィアは、9月5日、7ヶ月の女児を早産する。
弱った身体での出産は困難で、ルクレツィアは生死の境をさまよい、一次はヴァティカンで死亡説が流れたほどだった。生まれた娘は生きることができなかった。

フランチェスコ・カステッリはエルコレ1世・デステの主治医で、ルクレツィアの回復のため招集された医師のひとりだった。
彼はエルコレ宛に何度もルクレツィアの病状を知らせる手紙を書いている。

9月6日に書かれた手紙には、夫アルフォンソ・デステがルクレツィアのために手を尽くす様子が描かれている。
(ルクレツィア本に、出産時のアルフォンソの献身がよく書かれているのは、おそらくこの手紙の記述に寄るもの。)
Archivio per materie, Medici e medicina, b.3 fasc.17

また、カステッリは翌日7日にもエルコレ宛の短い手紙を書いていて、チェーザレの突然の訪問(チェーザレは9月6日にルクレツィアを見舞っている)により、ルクレツィアが活力を取り戻したことを報告している。
しかしチェーザレはこの時アルフォンソをも追い出して、遺言書の作り直しをしたりしていた。


訳:

『最も高貴で優れた我が君へ

この時刻には、すでに閣下は公妃殿下出産の経過をお聞き及びのことと存じますが、続報としてお伝えいたします。

出産はおよそ24時頃に終わり、公妃殿下は消耗しきっておられましたが、直ちに回復の処置が施されました。卵をひとつ召し上がり、それにより著しい活力の回復を感じられたご様子でした。その後一晩中、適切な間隔で補養を続けました。

昨日は4度目の発作の時期に当たっておりました。それは明確な悪寒を伴うものではありませんでしたが、やはり発作のため一晩中非常に落ち着かないご様子でした。そして今朝には著しい発熱が見られました。

公妃殿下は14時に適度な量の食事を摂られ、その後お休みになられました。しかし、全身が極めて衰弱し、疲れ果てておられます。

公妃殿下は、生まれた娘が適切に世話されているかどうかを深く案じられており、乳母をできるだけ多く見つけ、最も良い者を選ぶよう努めるべきだとお考えです。
また、お子が健やかで美しくあるかどうかを何度もお尋ねになります。私は「片方の目を開け、もう片方の目は閉じています」とお答えしましたが、時間ごとに報告を求められます。

そのため、何人かの女性たちを呼び寄せ、乳母になりたいと申し出る者を集めております。
しかし、これほどお子様を愛しく思われる公妃殿下が、その死を知った時どれほどの悲しみを覚えられることを思うと、私はその事実を伝えることができません

公妃殿下が出産されたその日、殿下(アルフォンソ)はまるで産科医のように振る舞われました。常にそばに付き添い、台所を取り仕切り、私たち医師たちに妻を励ますよう促し、産婆を励まし、とにかく一切の役割を果たされたのです。
もし私が殿下の立場であったならば、この日のことを決して忘れることはないでしょう。そのような献身的な態度は、誰もが称賛しておりました。

どこを見ても不足しているものは一切なく、まさに一滴の無駄もないほどに尽くされております。

お子様は、夜のうちにサンタ・マリア・デッリ・アニョリに密かに埋葬されました。産婆たちが洗礼を施すことができていれば、天国にいることでしょう。私はあのお子が、死ぬ前に1度は見られ、産婆の手に触れられたと信じているからです。

公妃殿下のご快復のために必要な、あらゆる処置を講じ続けております。その経過はすべて、閣下に逐一お知らせいたします。

閣下の御足元にて、私は身を捧げるものでございます。

フェラーラ、1502年9月6日、20時

閣下の忠実なる僕
フランチェスコ・カステッリ』

モデナ、国立公文書館 (Archivio di Stato di Modena) 所蔵。






ビアンカ・マリア・ヴィスコンティの手紙

ビアンカ・マリア・ヴィスコンティの手紙

ルドヴィーコ・イル・モーロの誕生を祝うビアンカ・マリア・ヴィスコンティからフランチェスコ・スフォルツァへの手紙。

ルドヴィーコは1452年7月27日生まれ。
この手紙は8月8日に書かれたもの。

ミラノ、国立公文書館所蔵。






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