ベルティノーロ
ベルティノーロ Bertinoro

バスで、フォルリから、約30分。
フォルリ駅前に広いバスターミナル(屋外)があるが、時刻表などないに等しい。ので、行き先も乗り場も何もかも全くわからない。
バス停の手前にインフォメーションがあるので、そこで尋ねるのがよい。チケットもそこで買える。
(フォルリのページの地図にマークつけてます。)
おそらく経由する路線がいくつかあり、小さな街であっても複数のバス停があるので、日時によってちょうどいいバスが異なるんじゃないかと思う。
私が利用したのは、2番のバス停から出る134番のバス、2.5ユーロ(2024年10月)。
右の写真はそのバスが停まったベルティノーロのバス停近辺。屋根やベンチなどなく、ただの通り。
バス停マークの下に、一応時刻表は貼ってある。が、あてにならない!
フォルリンポーポリからは、バスで約20分。
(フォルリからのバスが、フォルリンポーポリを経由する。
観光案内所のパンフレットには、ここから121番のバス、とある。)
本数が少ないので、帰りのバスの時刻もチェックしておいた方がよい。
(帰りのバスは市庁舎前から出ました。ここに観光案内所があるので、尋ねるのが早いと思います。)
街は丘の上にあり勾配がきついが、徒歩でまわれる。
イタリア観光省と全国市町村協会(ANCI)が後援する団体「イタリアで最も美しい村協会(I Borghi più belli d’Italia)」が認定する村のひとつ。
- ひと言で言うと、
ロマーニャとフィレンツェ(トスカーナ)を隔てるアペニン山脈の境界部に位置する山上都市。
堅固な城塞があり、チェゼーナからラヴェンナへ抜ける道も通っており、チェーザレの時代には防衛線として要衝だった。
1500年、チェーザレの支配下に入る。
城塞は、チェーザレ捕縛後もフォルリやチェゼーナとともに最後まで開城を拒否した。
ローマ皇帝テオドシウス(Theodosius)の娘ガッラ・プラチディア(Galla Placidia)がこの地を通りかかった際、素朴なテラコッタの杯で供されたワインを飲み、
「このワインは黄金の杯で飲むべきよ!(berti in oro!)」
と叫んだという。
この「ベルティ・イン・オーロ(berti in oro)」という言葉が、街の名「ベルティノーロ(Bertinoro)」の由来とされている。
ラヴェンナにビザンツ総督府が置かれていた時代(6世紀末〜8世紀、ランゴバルド人の侵攻に対抗するために置かれた、軍事と行政が一体化された行政機関があった)には、この丘陵地に要塞化された拠点が存在しており、それはラヴェンナの防衛線の一部であった。
ベルティノーロから隣のビデンテ渓谷(valle del Bidente フォルリ南方の山地からアドリア海平野へ流れるビデンテ川の谷)にあるメルドラ(Meldola)へと抜ける谷越えの道は、アペニン山脈部における主要枝道のひとつで、さらにチェゼーナへ至る道もあり、フォルリンポーポリやラヴェンナへも通じる要衝だった。
1004年、ラヴェンナ大司教によって、ベルティノーロはウーゴ・デッリ・オネスティ(Ugo degli Onesti)に封土として与えられた。同家は12世紀末までベルティノーロを支配した。
ベルティノーロ周辺は、教皇と皇帝の抗争が繰り広げられた舞台でもあり、皇帝フリードリヒ1世バルバロッサとの抗争のさなか、城塞が拡張された。
13世紀末、教皇はロマーニャに対する宗主権を皇帝に承認させ、フォルリを中心とする皇帝派の反乱を鎮圧、ベルティノーロも教皇庁領として確立する。
14世紀、ロマーニャにおける教皇庁の拡張政策に激しく抵抗した皇帝派のオルデラフィ家(Ordelaffi フォルリの領主)は、アヴィニョン教皇庁に対して反乱を起こす。
彼らはベルティノーロに侵入し、1306年にはそこに宮殿(Palazzo Ordelaffi)を建てた。
チェゼーナとメルドラを攻略し、1350年には激しい包囲戦の末にベルティノーロの城塞をも奪取した。
しかし数年後、枢機卿エギディオ・アルボルノス(Egidio Albornoz)による「十字軍」が展開される。
1357年、リミニの支配者ガレオット・マラテスタ(Galeotto Malatesta)の協力によって、ベルティノーロは奪還され、チェゼーナも同様に取り戻された。
その際、補強されたベルティノーロの城塞は、フォルリとフォルリンポーポリへの攻撃に備える教皇軍の作戦司令部となった。
1361年、フォルリンポーポリの司教座がベルティノーロへ移され、ベルティノーロは都市の地位を獲得、宗教・行政・軍事の三つの機能を統合した中心地となる。
城壁は繰り返し改築され、街の防衛の要を担った。
1377年、今度はガレオット・マラテスタがチェゼーナを占領し、メルドラとベルティノーロも手中に収めた。
彼は教皇から使徒代理(vicariato apostolico)の地位を得て、これらの町をフォルリの影響下から脱却させ、領土をリミニから北西方向に拡大した。
1394年、教皇庁が財政難に陥ると、マラテスタ家は金貨22,000フィオリーノでベルティノーロを購入、同家は15世紀半ば過ぎまでベルティノーロを支配した。
この間、ビデンテ渓谷(ベルティノーロとメルドラを結ぶ古道沿いの谷)は戦略的重要性を増し、教皇庁領ロマーニャと、教皇庁領を削って誕生した「フィレンツェ領ロマーニャ(カストロカーロ・テルメ Castrocaro Terme、モデリャーナ Modigliana、ポルティコ・ディ・ロマーニャ Portico di Romagna など)」との結節点(cerniera)となった。
1465年、マラテスタ・ノヴェッロの死後、ベルティノーロは再び教会の直接支配下に戻る。
1500年、教皇アレクサンデル6世により息子チェーザレに封土として与えられる。
この時チェーザレは、パンドルフォ4世・マラテスタ(Pandolfo IV)から、リミニ、メルドラ、サルシナをも購入している。
レオナルド・ダ・ヴィンチはイモラの地図に「43キロのところにベルティノーロが見える」と書き込んでいる。
1502年、マジョーネの反乱時、ウルビーノを始めとする諸都市がチェーザレに反旗を翻す中、ベルティノーロは忠誠を保つ。
その褒賞として、チェーザレは街の行政・司法・税制に関して特権を与えた。
1503年、チェーザレの忠臣ディエゴ・ラミレスは兄弟のペドロとともに城塞を守り、フォルリ、チェゼーナ、フォルリンポーポリとともに最後までユリウス2世に抵抗した。
チェーザレ捕縛後、ベルティノーロは再び教皇庁領となる。
教皇ユリウス2世は、ロマーニャ諸領を直接教皇国家に組み入れる政策を開始する。
ベルティノーロの統治区(governatorato)は、首都をメルドラとする小国家に統合されることになった。
ロマーニャ地方総督(presidente della Provincia di Romagna)にはレオネッロ・ピオ(Leonello Pio)が任命された。
1480年、レオネッロの息子の死によってベルティノーロは教皇庁に戻る。
教皇庁の支配下において政治的状況が安定し、さらに戦闘技術の発達・変化によって、ロマーニャ地方の旧式の城塞と街は次第にその軍事的機能と重要性を失っていく。
1584年以降、城塞は司教の屋敷となり、厩舎の改築、居室階の増築、そして入口塔への鐘楼の設置が行われ、改装工事は1599年まで続けられた。
1797年以降、ナポレオン軍の侵攻でベルティノーロを含むロマーニャ地方はチスパダーナ共和国・ナポレオン支配下に入る。
1808年、イタリア王国(ナポレオン統治下)の一部となる。
1815年、ウィーン会議後に教皇領として復帰。
19世紀半ば、自由主義運動(リソルジメント)の高まりで反教皇気運が強まる。
1860年、サルデーニャ王国軍により併合され、イタリア王国に編入された。
- バス停 - フォルリからのバスはここに到着した(上の写真の場所)
- バス停(観光案内所前) - 帰りのバスはここから発車した
- オルデラフィ宮殿 - 観光案内所はここに入っている
- 大聖堂 - オルデラフィ宮殿に隣接
- 輪の柱 - オルデラフィ宮殿の前
ベルティノーロ城塞(Rocca di Bertinoro)

ぐるりと道に囲まれた丘の中央にあるので、右まわりでも左まわりでも行ける。
私のバスは城の南東に到着したので、右まわりのソッコルソ通り(Via del Soccorso)から。けっこうな急坂を登って行く。
いい感じのわき道に門らしきものが見えるので、そちらに入って行く。
城壁に設けられている外門のひとつ。救済の門(Porta del Soccorso)。

もともとは、ベルティノーロの古い城壁に開けられた小さな通路だった。
1172年、フリードリヒ・バルバロッサの命を受けたマインツ大司教クリスティアーノ・フォン・ブーフ(Christian I. von Buch)率いる帝国軍が、ヴェネツィア共和国の艦隊と同盟し、教皇派の街アンコーナを包囲した。
この時、ベルティノーロの領主アルドルーダ・フランジパーネ伯爵夫人(Aldruda Frangipane)が、アンコーナへの援軍を自らが率いて、この門から出陣した。
これにより、通路は正式な「門」として名前がつけられた。
ここをくぐると駐車場に出る。
駐車場のわきからぐるりとまわると、城門!

上に歩廊があり、右側は監視塔に続いている。

門をくぐると、右手にはコンサートホールとして使われているアリーナ・デル・リヴェリーノ(Arena del Rivellino)の建物。
アリーナ(野外音楽場)は見えないが、建物の後ろ(と言うか向かって左下。丘になっているので。)にある。
リヴェリーノとは、城の防御のための突き出た部分のことなので、この場所に設られた音楽堂がそう呼ばれているのは、正しくて良い。

道なりに進み、左手に曲がると、
ベルティノーロ城塞!

ベルティノーロ城塞の存在を確実に示す最初の史料は、995年に遡る。
ラヴェンナ大司教区文書館(Archivio Arcivescovile di Ravenna)に所蔵されている、995年11月27日付の文書に、ベルティノーロの丘上に城壁に囲まれた居住区が存在していたことが、記されている。
戦略的に重要な位置(南はアルペン山脈を超えてトスカーナに通じていて、北はチェゼーナに通じている)にあったこの城は、13世紀から14世紀にかけて繰り返し強化され、
チェゼーナの城塞に並ぶ「驚くべきほど堅固な要塞(mirabile e fortissima)」と称された。

入口入ったところ。結婚式場みたいな階段が続いている。
右手に、中庭(ダンテのバルコニー Balcone di Dante)へのドアがある。
ドメニコ・マラテスタ・ノヴェッロ(Domenico detto Malatesta Novello)は、防衛力を高めるために構造を見直し、塔を再建、北側の城壁への大規模な傾斜防壁(apparati a scarpa)の増設を行った。また、居住用の宮廷施設としても整備した。
1447年、マラテスタ・ノヴェッロは宮廷をチェゼーナへ移し、ベルティノーロの城塞は主に夏に利用される離宮となった。
ノヴェッロがチェゼーナで創設したマラテスティアーナ図書館(Biblioteca Malatestiana)]のための写本工房の一部も置かれ、重要な写本が制作された。
1499年、パンドルフォ4世・マラテスタ(ノヴェッロの従兄弟シジスモンド・マラテスタの孫)が領主だった時に、城塞はチェーザレの支配下に入る。

裏側(北)から。右手に城門がある。
1503年以降、教皇庁の支配下において政治的状況が安定、さらに戦争技術の発達によって、城塞は次第にその軍事的機能を失っていく。
1584年以降、城塞はベルティノーロ司教の住居として使われるようになる。
彼らは城塞の住居部分や附属空間に装飾的・構造的な改修を加えていった。
1944年、ドイツ国防軍(Wehrmacht)の司令部として使用されていたため、連合軍による爆撃の標的となる。
戦後の修復工事で、建物の構造に大幅な変更が加えられた。
1980年半ば、ベルティノーロ教区がフォルリ教区と統合され、城塞は司教館としての役割を終える。
20世紀末、建物の修復と再利用のための重要なプロジェクトが開始される。
城塞はボローニャ大学に使用貸与され、2002年に再生工事が完了した。
そして現在、異宗教博物館(Museo Interreligioso di Bertinoro)として利用されている。
※ 画像はgoogle map ©️Mirco Ricci

① 救済の門(Porta del Soccorso)
② コンサートホール、アリーナ・デル・リヴェリーノ(Arena del Rivellino)
③ 城門
北側に駐車場が少し見えている
④ 正面入口
⑤ 中庭、ダンテのバルコニー(Balcone di Dante)
奥にチケット売場のドアが見える。
⑥ 裏側(北)
上の写真のところ
⑦ オルデラフィ宮の塔
隣接しているように見えるが、画像が圧縮されてそう見えるだけで、結構離れている。
博物館は2005年に設立され、3つの一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の文化と宗教の起源を振り返り、それらの共通の遺産を理解することを目的としている。なんてグローバル。
ベルティノーロ城塞の地上階とその下にある地下貯水槽部分に設けられている。ので、その部分とチケット売場前の中庭のみ入場できる。
チケット売場前の中庭、ダンテのバルコニー(Balcone di Dante)。
ダンテはここに滞在したことがあるらしい。
上の写真に見える階段を入って右に行ったところ。入口と木の間の部分。

ボローニャ大学の運営するベルティノーロ大学寄宿センター(Centro Residenziale Universitario di Bertinoro 教育・研修・国際会議を行うための滞在型学習施設)としても利用されているので、関係者が散在している。
ここに宿泊して勉強できるなんて羨ましい!

チケット売場の入口扉には、3大宗教のシンボルが。
最上部に
ユダヤ教の六芒星
キリスト教のキ・ロー(Chi-Rho, XP)
イスラム教のالله(アッラー)
下にも、
ユダヤ教の神殿や、イスラム教の三日月、キリスト教のオリーブの枝、などが見られる。
※ 以下の博物館内解説は、英語版パンフを元に書いているので、部屋の名前などの原文がイタリア語ではなく英語になっています。
展示室は、牢として利用されていたところ。
展示ルートはテーマごとに区切られており、牢舎の配置を活かした空間で構成されている。
3つのセクションに大別され、10室から成っている。
第1セクション
3大宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の歴史的側面。
特に、ヘブライ人とエジプト人の関係や、アマルナのファラオ・アクエンアテンによる宗教改革の試み。
ルーム1. 歴史的起源の間 (HALL OF HISTORICAL ROOTS)
ルーム2. 唯一神の間 (HALL OF THE ONENESS OF GOD)

ルーム3. キリスト教の間 (HALL OF CHRISTIANITY)
装飾された石棺。
文字を読めない人々に信仰を伝えるため、イメージ(絵)はキリスト教の物語や登場人物を伝える役割を担い、宗教が社会のあらゆる階層に広まるのを助けた。
ルーム4. シナゴークの間 (SYNAGOGUE HALL)
ルーム5. ユダヤの家 (JEWISH HOUSE)

ルーム6. モスクの間 (MOSQUE HALL)
写真左端に見切れているのは、祈りの方向を示す「ミフラーブ(祈りのくぼみ)」。信徒が祈るべき方向、すなわちメッカの方角を指し示している。
その隣にあるのは「ミンバル(説教壇)」で、金曜の礼拝の際に説教(フートバ)が行われる場所。
第2セクション
宗教的なアイデンティティ。
信仰の歴史的展開。礼拝所や祈りの場を再現。
ルーム7. イスラム五行の間 (HALL OF THE FIVE PILLARS OF ISLAM)

ルーム8. 立体模型の部屋(公共広場) PLASTIC ROOM / AGORÀ
歴史的・宗教的な出来事の立体模型(ジオラマ)が展示されている。
画像は、古代の信仰共同体における神の住まい(幕屋 Tabernacle)の構造。
当時の人々の都市生活と宗教生活がどのように結びついていたかを示している。
旧約聖書の「出エジプト記」に描かれる幕屋は、神の臨在(Shekhinah)が宿る場所だった。
つまりそれは「神と民との契約」を目に見える形で示した空間であった。
これが後の神殿(Temple)の原型となり、ひいてはキリスト教会の建築理念…祭壇・至聖所・象徴的軸線…に受け継がれた。
ユダヤ教の信仰の原点(移動式神殿)、そこから派生したキリスト教・イスラム教の聖所概念
を比較的に理解できるようになっている。
第3セクション
日常生活の中で人間を導く信仰の意味。
祭礼や聖なる瞬間を再現。
ルーム9. モーゼの間 (MOSES HALL)

ルーム10. 神殿の間 (TEMPLE HALL)
この部屋のみ地下になっている。
ユダヤ教神殿で最も神聖な場所「至聖所(Holy of Holies)」を再現。
この部屋では、「契約の箱(Ark of the Covenant)」の複製や、ユダヤの民を集め神への祈りを告げる古代の角笛「ショファール(Shofar)」が展示されている。
古代イスラエルの神殿の香の匂いを体験することもでき、信仰の記憶を五感で感じ取れるように工夫されている。
一般には公開されていない大学の施設としては、
教室 6室
(貴賓階(2階)の教室は、15世紀から17世紀にかけて描かれたフレスコ画で装飾されている。)
宿泊室 21室
(シングル16室、ダブル4室、スイート1室。Wi-Fi完備、バスルーム付き。)
→ Ce.U.B.
大学施設のサイト
一般公開されていない城塞内の部屋が見られます。
一般公開時間:
金曜日、土曜日、日曜日の15:00から19:00まで
夏の営業時間(6月15日から9月15日まで):
火曜日から日曜日の午後3時から午後7時まで
オルデラフィ宮(Palazzo Ordelaffi)
リベルタ広場(Piazza della Liberta)に位置する、時計塔(Torre dell'Orologio)のある大きな宮殿。
市庁舎(Palazzo comunale)として使われている。
ここの、向かって右端、塔の1階部分に観光案内所がある。
また、前の広場にはバス停もあり、帰りのバスはここから出た。

1306年、ピノ1世・オルデラッフィ(Pino I Ordelaffi)が教皇派を追放し街を掌握した際に建築した宮殿。
胸壁がつばめの尾のようにV字型になっていて、皇帝派の建物!とわかりやすい。
しかしこれは、1934年の修復時に施されたネオ中世様式(stile neomedievale)らしい。
何度も改築されているが、ポルティコ部分は当時の外観を残している。
8本の円柱は、地元産の石スポンジョーネ(Spungone ロマーニャ地方特有の多孔質石灰岩)を用いたビザンティン様式およびローマ様式。
当時そこにあった建物から、資材を転用したと考えられている。

ポルティコ下の壁には、1921年に作られた、ダンテ没後600年を記念した碑文が置かれている。
煉獄篇第14歌に詠まれる、嫉妬の罪で贖いを受けるグイド・デル・ドゥカ(Guido del Duca ベルティノーロの判事(giudice)を務めていた人物)の言葉で、ロマーニャ地方の腐敗を語る中、
「おおベルティノーロよ!お前も逃れられぬ、お前の家もやがて没落し、お前の民も消えてゆく」
(O BRETTINORO, CHE NON FVGGI VIA, POI CHE GITA SE N'E LA TVA FAMIGLIA E MOLTA GENTE PER NON ESSER RIA?)
と言っている。
ベルティノーロも他の街同様に腐敗の道を辿っている…という内容で、決してベルティノーロ讃歌ではない。
が、「まだどうにか踏み止まっているベルティノーロ」のイメージが、「ベルティノーロ=腐敗していない=おもてなしの街だしね!」とポジティブ解釈されているよう。
さすが。
高さ40メートルの時計塔は、市民の塔(torre civica)とも呼ばれている。オルデラフィ宮よりも古い時代に建てられたもの。
もともとは非常に高く、現在の倍ほどもあり、航海者たちのための灯台の役割を果たしていた。
海からは20キロ以上離れているので驚く。が、広場前のテラスからは、晴れているとアドリア海が見える。昔はもっと見晴らしが良かったのかな。
1599年、高さが半分にされ、上部にバロック様式の鐘楼が設けられた。
1934年に、オルデラフィ宮のファサードとともに再建されている。

← オルデラフィ宮、裏側(南西)。
市民集会に使われていた民衆の間(Sala del Popolo)や、
街の歴史を描いた6点の絵画の飾られる絵画の間(Sala Quadri)(名誉の間(Sala della Fama)とも呼ばれる)、
古い大きな暖炉のある火の間(Sala del Fuoco)など、
内部の一部を見学できる。
見学時間が短いので注意!
月曜~金曜
7:30 - 13:30
火~木曜
14:00 - 17:00
大聖堂(Cathedral)
オルデラフィ宮殿の南東に隣接している大聖堂。
16世紀末、司教ジョヴァンニ・アンドレア・カリガリ(Giovanni Andrea Caligari)によって建てられた。
ベルティノーロの守護聖人、アレッサンドリアの聖カタリナ(Santa Caterina d’Alessandria)に献堂されている。1601年に完成。

イオニア式の円柱によって区切られた、3つの身廊から成っている。
主祭壇の祭壇画は、ジュゼッペ・マルケッティ(Giuseppe Marchetti)による「聖カタリナの神秘の結婚(Le Nozze mistiche di Santa Caterina)」。
主祭壇の右側の礼拝堂には、16世紀末のドイツ派(scuola tedesca)による大型の木製磔刑像(Crocifisso ligneo)が保存されている。

輪の柱(Colonna delgli Anelli)
もてなしの柱(Colonna dell’Ospitalità)とも呼ばれる。12個の輪っかが下げられている柱。
オルデラフィ宮殿の向かって右端側(北西)、広場が二股の道に分かれるところにある。

1247年、訪れる旅人や巡礼者を誰がもてなすか、という争いを終わらせるために、グイド・デル・ドゥカ(Guido del Duca ベルティノーロの判事(giudice)を務めていた人物)とアッリーゴ・マイナルデ(Arrigo Mainarde その友人であろう貴族)が、村の中央広場に建てた柱。
当時この地には12の貴族があり、それぞれに対応する12の輪が取り付けられた。
街を訪れた者がここの輪に馬の手綱を結ぶと、その輪に対応する家の者が彼をもてなす決まりになっていた。
もてなしって、そんな押しつけ合うものなんか!?
と思ったら、みんな自分がもてなししたくって、客を取りあっていた。
よそから来た旅人や巡礼者をもてなすことは、名誉であり社会的威信の証 とされていて、誇り高いベルティノーロ貴族の人々は、「自分の家がもてなす」「いや、うちがもてなす」と、競い合い争いになってしまっていたそう。
また、外部の人間のもたらす情報は、とても貴重でもあったのだ。
おもてなしの精神が、街の文化的遺産であることを示すために、ベルティノーロでは毎年9月の第1日曜日に、伝統的なもてなしの祭り(Festa dell’Ospitalità)を催している。
この祭りでは、古い儀式の再現や、展示会・公演・音楽などを通じて、この土地のもっとも名高い特徴のひとつである「他者へもてなしと敬意」を記念し、広めている。
ベルティノーロの「道徳心」についてはダンテも言及しているし、伝統のある誇りなんだね、素晴らしい。

オリジナルの柱は1539年に撤去されたが、1926年9月6日、サン・マリノから寄贈された。サンマリノ石(sasso sammarinese)で再建されている。
毎年の祭は、この日にちなんでいる。
また、ベルティノーロの紋章(lo stemma di un comune italiano)は、この柱がモチーフとなっている。
※ 画像は© Araldica Civica(全著作権所有)
ヴィア・サンティッシマ・トリニタ公園(Parco via Santissima Trinità)
城塞の麓にある公園。直訳すると「三位一体通り公園」。傍に同名の小道があり、googleマップにはこの名前で表示される。
が、公園の看板には「Parco Pubblico Il Giardino dei Popoli(公共公園・諸民族の庭)」と書かれている。

外国からの代表団を記念して、それぞれの国の植物を植樹することを目的とした公共公園。
もてなしの祭り(Festa dell’Ospitalità)や、城塞内にある大学センターでの国際的な交流会などに関連して、設けられたもの。
その名称は、知識・もてなし・文化を通じた友愛を、象徴的に示している。
(公園名「Il Giardino dei Popoli」は「市民の庭」とも訳せるし、そっちの方が公園名っぽいけど、由来的には「諸民族の庭」とした方が適切かなと思い、そう訳しました。)
園内には子ども用の遊具も設置されている。
テーブルとベンチもあるので、お昼を広げるのにも良い。

googleマップではわかりにくいけど、
「ぶどう収穫の道(Strada della Vendemmia)」を進み、
「アッセ通り(Via delle Asse)」を登っていくと、
古い城壁といくつかの塔の遺構に沿って「諸民族の庭」に着く。
見上げれば城塞の一部が見え、ここから斜面を登って城塞へ行くこともできる。

南西部はぶどう畑の広がりが一望できる。
こちら側に残っているのは城壁だった部分ではなく、第二次世界大戦の爆撃で破壊された三位一体教会(Chiesa della Santissima Trinità)の後陣部分だそう。
サン・シルヴェスト教会(Chiesa di San Silvestro)
左まわりで城塞へ向かった時、城塞手前150メートルほどのアルドルダ・フランジパネ通り(Via Aldruda Frangipane)に位置している教会。
1740年から1749年にかけて、カマルドリ会(Ordine Camaldolese ベネディクト会の一分派にあたるカトリックの修道会)の建築家パオロ・ソラティーニ(Paolo Soratini)によって再建された。後期バロック様式。

1797年までは、コルプス・ドミニ(Corpus Domini 女子ベネディクト会の修道会)に属していたが、ナポレオン支配後の再建期以降は司教神学校の教会となった。
単廊式で、両側2つの側祭壇(小礼拝堂)を持つ。主祭壇画「教皇聖シルヴェストロ一世と修道士聖ベネディクトが聖心を礼拝する図」は、フォルリ出身の画家ジュゼッペ・マルケッティ(Giuseppe Marchetti)の作品。
現在は、城塞と同様にベルティノーロ大学居住センター(Centro Universitario Residenziale di Bertinoro)の大ホール、サン・シルヴェストの間(Sala San Silvestro)として使用されている。
側面の扉からは、かつて教会と一体となっていた旧神学校へ直接出入りすることができ、こちらも施設の一部になっている。
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