ネピ
ネピ Nepi
日本語ではネーピと表記されることも多い。
鉄道が通っていないので、車利用になる。
バスはローマの北部Saxa-Rubraから、ネピのVia Casorna(街の中心部に近いボルジア城前)に発着するコトラル社の便がある。約1時間半。
(このバスにそのまま乗っていると、チヴィタ・カステラーナに行く。)
写真はバス停。左端に少し見えるのがボルジア城の城壁。
右手にはテラス席のあるカフェがあるので、帰りのバスはここで待つこともできると思う。
チェーザレの時代に、ボルジアの所領だった街。
ボルジア界隈では、ルクレツィアに与えられた街として、また1503年アレクサンデル6世崩御後のコンクラーヴェ時に、チェーザレが退避した街として有名。
ネピはエトルリア語の「ネパ(Nepa, 水)」に由来し、「水の街」という意味を持つ。
紀元前8世紀から火山岩の突端に形成された町で、エトルリア文明の影響を受けつつローマと同盟を結び、自治都市(ムニキピウム)として繁栄した。円形闘技場や浴場、霊廟などの遺跡が残っている。
4世紀に司教座が置かれ、蛮族の侵入やサラセン人との戦いを経験しながら、1131年に自由都市となる。
その後、教皇派と皇帝派の争いの舞台となり、オルシーニ家やコロンナ家などのローマ貴族に支配される。
1455年、アロンソ・デ・ボルハが教皇カリストゥス3世になると、ボルジアの拠点となるべく都市開発され、城の再建も始められる。
カリストゥス3世は甥のロドリーゴ・ボルジアをネピの総督に指名した。
1479年、枢機卿ロドリーゴ・ボルジアはネピの所有権を取得。
1484年、教皇インノケンティウス8世によって正式に認定された。
1492年、ロドリーゴ・ボルジアが教皇アレクサンデル6世として選出されると、教皇選での支持の返礼として、枢機卿アスカーニオ・スフォルツァに授与される。
1499年、ボルジアはスフォルツァと対立、ネピは弱体化したスフォルツァから取り上げられ、ボルジアの手に戻る。教皇庁財務官であったフランチェスコ・ボルジアに託された。
同年、アレクサンデル6世はネピを公爵領へと昇格させ、ルクレツィア・ボルジアに授与する。
ルクレツィアはこの地を寛大な統治者(munifica amministratrice)として治め、住民に愛され尊敬された。
- 現在、6月の最初の3週の週末にパリオ・デイ・ボルジア(Palio dei Borgia)という、ネピとボルジア家とのつながりを記念する祭りが開催されている。
歴史的な行列(Corteo Storico)が通りを練り歩き、ルネサンス時代の衣装をまとった住民たちが、ルクレツィアがネピに入城した日を再現する。
また、4つの地区(Contrade)が競い合う馬上試合(Giostra dei Cavalli)や弓術トーナメント(Torneo degli Arcieri)が行われ、名誉ある優勝旗(Drappo)が争われる。
1501年、ルクレツィアが婚姻のためフェラーラへ去ると、ネピはルクレツィアの最初の子(とされる)ジョヴァンニ・ボルジア(インファンテ・ロマーノ)に授与された。
ボルジアが没落すると、一次スフォルツァの所領となるが、教皇パウルス3世の時代にファルネーゼ家の所領となる。
パウルス3世(アレクサンデル6世の愛人ジュリア・ファルネーゼの兄)は、1537年にカストロ公国を創設し、ロンチリオーネ伯爵領とネピ公国をあわせ、息子のピエル・ルイジに授けた。
ファルネーゼ家の下で、ネピの街は大々的に開発、拡大された。ボルジアの紋章と並んで、ファルネーゼの紋章も多く残っている。
教皇シクストゥス5世の治世中には独立都市となる。
1798年、フランス軍による略奪と戦闘が発生し、街は荒廃する。
1870年、イタリア王国に併合された。
- ネピ Nepi
- ボルジアの城塞(Rocca dei Borgia)
- ボルジア門(Porta Borgiana)
- サン・ヴィート教会(Chiesa di San Vito)
- カヴァテッラの滝(Cascata dei Cavaterra)
- レプッツォーロ門(Porta Repuzzolo)
- ニカ門 (Porta Nica)
- ロマーナ門(Porta Romana)
- ファルネーゼの稜堡(Bastioni Farnesiani)
- サンタ・マリア大聖堂(Basilica Concattedrale di Santa Maria Assunta)
- 市立考古学博物館(Museo Civico Archeologico)
- 市庁舎(Palazzo Comunale)
- サン・ビアージョ教会(Chiesa di San Biagio)
- サンタ・クローチェ教会(Chiesa di Santa Croce)
- サンタ・サヴィニッラ地下墓地(Catacomba di Santa Savinilla)
- ネピの門(Le Porte di Nepi)
- ポルツィアーナ門(Porta Porciana o Porziana)
- ウニコ門(Porta dell’Unico)
- ファリスカ門 (Porta Falisca)
- ガロッツィーノ門(Porta del Gallozzino)
- ラウレターナ門(Porta Lauretana)
- バルバガーノ門(Porta del Barbagano)
- サン・ビアージョ門(Porta San Biagio o strada delle Coste)
- ホルタ・シルジ門(Porta Horti Silj)
- 城内のロマーナ門(Porta di epoca romana interna al castello)
- 中世の門(Porte medioeval)
- ボルジアの中庭門(Porta della Corte Borgiana)
- バス停 - ボルジア城と街の中心部に1番近いバス停
- ボルジア城 -
- サン・ヴィート教会 -
- ボルジア門 -
- カヴァテッラの滝 -
- レプッツォーロ門 -
- ニカ門 -
- ロマーナ門 -
- ファルネーゼの稜堡 -
- 大聖堂 -
- 市立考古学博物館 -
- 市庁舎 -
- サン・ビアージョ教会 -
- サンタ・クローチェ教会 -
- サンタ・サヴィニッラ地下墓地 - カタコンベ
ボルジアの城塞(Rocca dei Borgia)
ボルジア城(Castello Borgia)、ボルジア要塞(Forte dei Borgia)とも。
ボルジア家最初の教皇カリストゥス3世の時代から、ローマ近郊におけるボルジアの拠点として、建築・拡張された城。
ボルジア縁の城はたくさんあるけれど、正式に「ボルジア」と名がつく稀少な城。しかしネピ城塞(Rocca di Nepi)という呼び方もされるよう。
ヴァザーリに「攻略不可能で美しい(Insespugnabile e bella)」と評された。
廃墟のようだけど、20年以上に渡る修復作業が終了しているらしい。まじか。
公式パンフに「絵のように美しいラツィオの廃墟(belli e pittoreschi ruderi del Lazio)」と書かれていた。自虐?
正面(北側)。イヴェント会場として使われているので、変なオブジェが置かれている。多分いつもではない。
左右には、厩や蔵、使用人の住居などに使われていた建物があった。今は壁の名残りしかない。
地面は、現存していた一部のオリジナルから推測して作られた復元。ヘリンボーン模様。端っこに、古い時代のものが少し残っているらしい。
← 左はイギリスの画家ウィリアム・ターナーが、1828年にスケッチしたボルジア城塞。
上の写真の裏側(南)からの風景を描いている。(おそらくカヴァテッラの滝あたりから見た風景。右手に見える尖塔は大聖堂。)
もともとは、塔の上部に胸壁があったことがわかる。
↓ 城の表門(北)側。
アルファベットオブジェはイヴェントのタイトル。「DI VIN ARTE」は「崇高な芸術」みたいな意味だけど、ワインのイヴェントだったので、フランス後のワイン「VIN」とかけて言葉遊びしてるよう。
「DI」の後ろに見えるのが正面入口。この扉の前に立つと見えるのが、上の写真の城。
↓ 城の側面(東)。
↓ 裏側(南)。
こちらには小さい公園がある。
↓ 側面(西)。
↓ 上から見たボルジア城塞。画像は考古学博物館で上映されているムービー。
もともとは、街の西側を守るため、ローマ時代の砦の上に作られた城。
12世紀から13世紀にかけて、城の原型である台形の塔が建てられた。
1455年、アロンソ・デ・ボルハが教皇カリストゥス3世になると、ネピはボルジアの所領とされるべく都市開発され、城の再建も始められる。
枢機卿ロドリーゴ・ボルジアのもとで、城は拡大されていく。
設計はチヴィタ・カステラーナやネットゥーノのボルジア城塞と同じく、アントニオ・ダ・サンガッロ(長老)によるもの。
居住スペースが増築され、円塔にボルジア紋章が掲げられた。
しかし同時期に同人物に建てられた城塞なのに、ネピの城は保守的…というか古典的。
4隅に円形砲台のある城壁が作られ、新たな門ポルタ・ボルジアーナも作られた。この外部の城壁はサンガッロ(長老)の甥である同名のアントニオ・ダ・サンガッロ(イル・ジョヴァネ)による。ボルジア家サンガッロ好きすぎ。
1499年、ネピは公爵領へと昇格され、ルクレツィア・ボルジアに授与される。
城はより魅力的に優雅に工事された。
1500年、ルクレツィアは2番目の夫アルフォンソ・ダラゴーナを亡くした後、この城に2ヶ月ほど隠遁した。
1501年、ルクレツィアがフェラーラ行くと、彼女の最初の息子ジョヴァンニ(ホアン)(インファンテ・ロマーノ)に与えられる。
1501年9月25日、チェーザレはアレクサンデル6世とハイメ・セラ、他に2人の枢機卿を連れてネピを訪れている。
1503年、アレクサンデル6世の死後、チェーザレはローマを出てここに退避した。
ボルジア没落後、教皇ユリウス2世はネピを枢機卿アスカーニオ・スフォルツァに再び授与する。
1513年、新たに増築が開始され、台形の塔と円塔を結びつける居住スペースが作られた。
現在、この建物は一部だけ残っている。
1521年頃、城はベルナルド・アッコルティ(Bernardo Accolti)の所有となる。
アッコルティは「唯一無二(l’Unico)」と呼ばれた、風変わりで著名な詩人だった。この時期に、ファサードに窓が増やされた。
1537年、ファルネーゼ家出身のパウルス3世は、アッコルティからネピを取り上げ、「カストロとネーピ公爵領(ducato di Castro e Nepi)」を創設する。彼はそれを息子ピエル・ルイージに与えた。
ファルネーゼ家の支配下で街は再び開発される。新しい道路の建設や広場の拡張が行われ、城も改築された。
前述の建築家アントニオ・ダ・サンガッロ(イル・ジョヴァネ)は、市庁舎やサン・トロメオ教会などの重要な工事を設計した。これらは未完に終わってしまうが、長大な市壁を作った。
この壁はネピが位置する丘の西部を囲み、2つの多角形の砲台(バスティオン)を持つ。バスティオンにはコルブリーナ砲(蛇の意味を持つColubraに由来する細長い大砲。遠距離射撃に適していた。)が置かれ、2つの新しい門(ポルタ・ロマーナとポルタ・ニカ(ポルタ・ディ・カヴァテッラ)が設けられた。火縄銃用の銃眼もあった。
この壁により、ボルジア城は街の西側建築群の中心となる。
城壁の周囲には濠が掘られ、リオ・プッツォロ川とリオ・ファリスコ川の水が引き込まれた。この水は製粉所の稼働にも使用された。
1545年、ネピは教皇庁の管理下に入り、私有地として貸与される。
この頃から徐々に衰退が始まり、なんと建築資材にされたりしている。ひどい。
1798年、フランス軍による焼き討ちで荒廃した。
1962年、市の所有となり、修復される。
2007年から一般に公開され、イヴェント会場としても使われている。
- 開館時間
5月1日 - 9月30日
土日
11:30 - 12:30、16:30 - 15:30
10月1日 - 4月30日
土日
11:30 -12:30、15:30 - 16:30
※ イヴェントに使われていることがあるので、その時は上記の限りではないです。
私は土曜日11時30分に合わせて行ったのに準備中では入れず「18時から開始だからその時間に来て」と言われました。
ボルジア城塞は、1911年にドイツの食品会社の広告キャンペーンで、コレクターズカードになっている。
ボルジア門(Porta Borgiana)
枢機卿ロドリーゴ・ボルジアが、城塞を強化・拡大していた時期に作られた、南側の門。こちらもアントニオ・ダ・サンガッロ(老)作。
市内への通行を監視し、必要に応じて閉鎖することで外敵の侵入を防ぐ、防衛拠点だった。
← 門内側。
装飾が…削り取られている。修復中?
石の凸凹(バグナート bugnato)で装飾され、盲アーチ(blind arch)(開口部がなく通り抜けられない、壁に彫られたアーチ)が、かつての歩廊(見張り通路、アリュール)を支えている。
(門の外側(↓ 下の写真)にはその特徴が残っている。)
通り抜けられるじゃん…とおもうけど、自立したアーチで門を作っているのではなく、壁を削ってアーチ風に見せているってことだと思う。装飾的なデザインであって、負荷を支える機能はない。
ボルジア城塞の城壁と繋がっており、門の前には中世時代のリヴェリーノ(Rivellino)(城塞や門の前に作られた小型防御砦)が見られる。
背後にはカヴァテッラの滝があり、ファルネーゼ時代の壮大な土塁が広がっている。
↓ 門外側。
サン・ヴィート教会(Chiesa di San Vito)
ボルジア城塞の南東の路地にある小さな古い教会。
聖ヴィートと聖モデストに捧げられたこの教会は、ネピに現存する最も古い宗教建築のひとつ。教会内には12世紀に遡るフレスコ画が残っている。
15世紀後半には教会の屋根瓦が取り外され、大聖堂の屋根の修復に使用された。
その結果、教会は約1世紀にわたり屋根のない状態が続き、徐々に荒廃が進み、取り壊しが検討されるほどだった。
が、16世紀後半には修復工事が行われ、装飾も新たに施された。
この時期に描かれたとされるフレスコ画も残っている。「聖ルカ福音記者」と「聖母子と聖ヴィート、聖モデスト」。
1500年、アルフォンソ・ダラゴーナが暗殺された時、ルクレツィアは彼の死を悼みこの教会に祈りを捧げたと言われている。
しかしこの時もう、屋根瓦なかったんじゃないの?
そういう寂れた教会で捧げる祈り、風情があるけど。
カヴァテッラの滝(Cascata dei Cavaterra)
「カヴァテラ(Cascata Cavatera)」と書かれていることもある。
ネピという街の名の語源は「水の街」と言うだけあって、周辺には滝がたくさんある。
ピッキオの滝(Cascata del Picchio)、
セッテ・フラーティの滝(Cascata dei Sette Frati)、
ピッツオの滝(Cascata del Pizzo)、……
小さな滝はもっとある。
街の外れや険しい道の先にある他の滝と違い、カヴァテッラの滝はボルジア門の南に、ボルジア城塞を見上げる位置にある。つまりボルジア城塞から見える。
城からこの景色が見えるの、めちゃくちゃいい!
ルクレツィアの部屋は1番良い場所にあっただろうから、この景色を見下ろせる場所にあったんじゃない!?
上の写真の手前にあるのは水車小屋跡。奥に見えるのは街への入口だったニカ門。
カヴァテッラは「土地の掘削」または「地面を掘る場所」というような意味で、建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ(Antonio da Sangallo il Giovane)によって行われた、城の城壁強化削岩工事に由来している。
彼が城壁工事を行なったのはファルネーゼ時代なので、ボルジア家の人々はこの名前では呼んでいなかったのかな。残念。
滝は、ペペリーノ岩(火山灰が堆積して固まった岩石(凝灰岩)、比較的柔らかいが耐久性が高い)の崖から、
プッツォーロ河(Rio Puzzolo)が、フォッソ・デル・ポンテ(Fosso del Ponte)またはフォッソ・デル・カステッロ(Fosso del Castello)と呼ばれる渓谷に流れ落ちることで、形成されている。
河はボルジア城塞の天然の濠でもあり、かつては多くの水車を動かしていた。
麓はけっこう深い森。遊歩道などはないので、滝の下へ降りることはできない。
レプッツォーロ門(Porta Repuzzolo)
ボルジア門の先にある、古い製粉所の水路に架かる橋の、先端にある門。
この門をくぐった左脇から、カヴァテッラの滝のヴューポイントに降りることができる。
門の先は、紀元前4世紀頃、ローマがこの地域の先住民ファリスキ(Falisci)を征服した時に作られた重要な街道アメリーナ街道(Via Amerina)に続いている。
(アメリーナ街道は、カッシア街道(Via Cassia)から分岐した道の一部。ウンブリアとロマーニャ地方へと通じる交通の動脈で、中世にはローマとラヴェンナを結ぶ主要なルートだった。)
裏側(南側)の頂上には、聖母像のフレスコ画がある。
そしてボルジア門が見える。
門の左側に隠れて見えないが、後ろにはボルジア城塞の塔がある。
ニカ門 (Porta Nica)
勝利の門(porta Trionfale)、カヴァテッラ門(porta dei Cavaterra)とも。
でも大体ニカ門と表記されている。
「ニカ」は「小さい」という意味の方言で、ロマーナ門に比べて小さいことに由来している。
レプッツォーロ門のすぐ先にある門。
ローマからの来訪者はアメリーナ街道沿いにあるこの門へ到着する。(アメリーナ街道は、カッシア街道から分岐した道のひとつ。)
16世紀、ファルネーゼ家に計画され、アントニオ・ダ・サンガッロ(ジョヴァネ)により建築された、大規模な防衛システム(城壁)の一部。
門の内部がまっすぐではなく90度屈曲しており、敵が一気に侵入することを防ぐ作りになっている。(このような防衛構造を持つ門をポルタ・シェア(Porta Scea)と言う。)
外門と内門のある二重構造で、敵が外門を突破しても狭い空間に閉じ込められ、内門を抜ける前に上から攻撃される仕組みだった。
また、サラシネスカ(saracinesca)(落とし格子)もあり、このための落とし穴が今でも残っている。
跳ね橋も備えていて、サイドには中世の時代に建てられたリヴェリーノ(城壁を守る防衛施設)がある。
街への入口というだけでなく、防衛的にとても強化された門。
↗︎ 上の写真をくぐって外に出ると、↓ 下の写真の場所に出る。
門の外側(南側)アーチの上にあるのは、1537年からネピ公爵(カストロ公爵)で教会の旗手であったピエル・ルイジ・ファルネーゼの紋章。
彼の下でネピの防衛は強化された。
門の右手(東側)に見えるのは、ボルジア門とボルジア城塞。
左手の出っ張った壁は南側のファルネーゼの稜堡の一部。
ロマーナ門(Porta Romana)
ポルタ・デル・サンガッロ(Porta del Sangallo)、ポルタ・グランデ(Porta Grande)とも。でも大体ロマーナ門と表記されている。
16世紀、ファルネーゼ家に計画され、アントニオ・ダ・サンガッロ(ジョヴァネ)により建築された、大規模な防衛システム(城壁)の一部。
ニカ門と同様に、外門と内門のある二重構造で、敵が外門を突破しても狭い空間に閉じ込められ、内門を抜ける前に上から攻撃される仕組みになっている。ニカ門よりも大規模で、屋根のない家と言ってもいいくらい。
外側のアーチは古代の凱旋門を模したデザインで、ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世(アレクサンデル6世の愛人ジュリア・ファルネーゼの兄)の紋章が掲げられている。
両脇には、サラシネスカ(saracinesca)(落とし格子)の跡があり、銃眼も見られる。
また、門の前には濠があり、跳ね橋が備えられていた。
中央に車両の通行する大きなアーチ、両側に歩行者用の小型のアーチを配した、三重アーチ構造。必要に応じて両側の小門(ポステルーレ)を利用することで、主要な跳ね橋を下ろすことなく、徒歩や騎馬での通行が可能だった。
現在は北側の小門は閉じられている。
この門から、ロンチリオーネ、カプラローラ、ヴィニャネッロといった、他のファルネーゼ公国の街へ、さらにはカストロを中心とするボルセーナ湖周辺地域の所領へつながっていた。
→ ファルネーゼ紋章のある表門から入ったところ。門というよりトンネルに近い。抜けると、左手にボルジア城塞、道なりに少し行くと正面にボルジア門。
ファルネーゼの稜堡(Bastioni Farnesiani)
16世紀、ファルネーゼ家に計画され、アントニオ・ダ・サンガッロ(ジョヴァネ)により建築された、大規模な防衛システム(城壁)の一部。
ネピの西側を防衛するために建設されたもので、両端(南北)に巨大な多角形の稜堡(バスティオン)が配置されている。
写真はロマーナ門の北にある稜堡。(左側の部分。右側は城壁。)
南の稜堡はニカ門の近くにある。
15世紀半ばから戦闘の要となった大砲を死角なく使用できるように、北西の方角に矢印型に突き出している。
(わかりにくいけど、上から見るとネットゥーノの城塞のようになっている。)
また敵からの砲撃に耐えられるように、壁は高すぎず、急な傾斜を持っている。
城壁の前には深い濠が設けられ、プッツォーロ川とファリスコ川の水を引き込んで濠を満たすと同時に、水車を動かす仕組みが整えられていた。
階段を上って、ネピ公園(Parco di Nepi)にでることができる。
← 南側の稜堡にあるピエル・ルイジ・ファルネーゼの紋章。
ニカ門の上にあるものと同じ。
彼の下でネピの防衛は強化された。
サンタ・マリア大聖堂(Basilica Concattedrale di Santa Maria Assunta)
聖母被昇天教会(サンタ・マリア・アッスンタ教会)、通称大聖堂(ドゥオーモ)。
古代ローマ時代の神殿跡に建てられた。最初の記録は5世紀に遡り、ネピ司教の存在が言及されている。
が、この最初の聖堂が現在と同じ場所に建っていたかどうかは確実ではなく、建物の主要な構造物は11〜12世紀のもの。
現在の大聖堂は、さらに数世紀に渡って行われた改修・改築を経た姿。
1798年にフランス軍によって焼かれてしまい、1818年から1840年にかけて再建されている。ので、内部はわりと新しい。しかし外観はかなりの歴史を感じる。外は焼け残ったのかな。
トゥーシア(古代エトルリア人の居住した地域、現在のヴィテルボ県)で、最も大きく古い聖堂のひとつ。
5つの身廊を持つバシリカ様式(古代~中世に用いられた主に教会の建築様式。「後陣」「身廊」「側廊」「袖廊」があり、入口は東向き。)の教会。
主祭壇の上にクーポラ(丸天井)があるように見えるが、これは遠近法を利用して描かれた騙し絵。すご!
主祭壇の下には、エルコレ・フェッラータによる大理石の石棺があり、聖ロマーノの遺体が安置されている。
他にも、
マルチェロ・ヴェヌスティによる三連祭壇画(パウルス3世をモデルに描かれたとされる聖トロメオ)、
イル・パストゥーラによる三連祭壇画(の一部)、
トルティによるフレスコ画、
マッティア・プレーティの使徒画集、
など、多くの絵画を所蔵している。
地下には11世紀のクリプト(地下礼拝堂)がある。ローマに向かう巡礼者は、ここに立ち寄り祈りを捧げたと言われている。
鐘楼の下部もクリプトと同時期のものだが、上部は16世紀に再建されたもの。
↓ 裏の駐車場側(北)から見たところ。
市立考古学博物館(Museo Civico Archeologico)
大聖堂のワンブロック東、市庁舎の西にある小さな博物館。ピンクの看板がなければ見逃す!
1980年代に、ネピの周辺地域から発掘された遺物を、収集・保存するために設立された。最初は倉庫のようなものだったが、徐々に整備され、2014年から市立博物館として一般公開されている。
ボルジア城塞の修復作業中にに発見された、陶器片や石材なども展示されている。
ネピのネクロポリスやサンタ・サヴィニッラのカタコンベから発見された、重要な考古学的遺物もある。
↓ ボルジア城塞から発見された、14世紀から17世紀頃の陶器。
チェーザレやルクレツィアが使用していたものがあるかも!?
写真右側にあるのは、かつて大聖堂や門を装飾していたレリーフなど。
← 左はルクレツィアの紋章。
ボルジア家とナポリのアラゴン王家との紋章が組み合わされている。
2度目の結婚でアルフォンソ・ダラゴーナの妻となり、父である教皇アレクサンデル6世によってネピの領主(1499年~1501年)に任命された時期のもの。
ほぼ間違いなくボルジア城塞にあったもの。19世紀に城から持ち出され、市庁舎のポルティコの下に設置されていた。
1980年代に、市立博物館の前身である最初の古物収集所に収蔵され、その後、現在のネピ市立考古学博物館のコレクションに加えられた。
ボルジア城塞のどこに飾られていたんだろうね!?気になる。
この紋章、ほとんど同じものが弟のホフレの息子フランチェスコの紋章として、カリアリ市立歴史公文書館(Archivio Storico Comunale di Cagliari)に所蔵されているらしい。
(「I BORGIA」2002 p206)
フランチェスコは、ホフレとナポリアラゴン王家のマリア・デ・ミラ・ダラゴーナとの息子なので、このボルジアの牡牛にアラゴン王家の紋が加えられた紋章持っててもおかしくない。
なんで被っちゃったんだろ?
- 月曜日定休
入場無料
市庁舎(Palazzo Comunale)
ファルネーゼ家の統治下で、サン・エレウテリオ教会(Sant’Eleuterio)のあった同名の広場に、新しい市庁舎を建設することが決定された。
広場を拡張するために、教会と北側にあったいくつかの住宅が取り壊され、1542年、アントニオ・ダ・サンガッロ(ジョヴァネ)によって建築開始された。
ポルティコのある1階と、時計と鐘を備えた塔のある2階とで構成されている。
2階部分は1740年頃に、ミケーレ・ロカテッリの設計で大きく改修されたもの。
矩形の市庁舎広場に面しており、ネピ市の中心部となっている。向かって左側に見える建物は市立考古学博物館の裏。
正面にある噴水は、1727年、フィリッポ・バリジョーニ設計、フランチェスコ・ピンチェロッティ制作のもの。
チヴィタ・カステラーナ産のペペリーノ石(火山灰が堆積して固まった岩石(凝灰岩)、比較的柔らかいが耐久性が高い)が使用されている。
内部の装飾は、19世紀半ばの修復時のもの。
サン・ビアージョ教会(Chiesa di San Biagio)
10世紀頃に建てられた教会。ベネディクト派の修道院建築群の一部で、隠遁生活を送る修道女たちによって使われていた。
正面入口の扉は、古代ローマ時代(3世紀)の石棺の蓋が、アーキトレーブ(横梁)として使用されている。
ネピの6月の祭り、パリオ・デイ・ボルジア(Palio dei Borgia)で競い合う4つの地区のうちのひとつがサン・ビアージョ地区(Contrada San Biagio)なので、内部には祭り関連の装飾がある。
サンタ・クローチェ教会(Chiesa di Santa Croce)
サンタ・クローチェ教会について
サンタ・クローチェ教会(聖十字架教会)は、10世紀にギリシャ十字の平面構造で建設されました。その後、15世紀には教会に隣接して病院が建設され、「ディシプリーナ同信会」、後に「ゴンファローネ同信会」によって運営されました。
この教会は、ネーペに現存する最も古い教会の一つであり、元の構造が10世紀にまで遡ることが確認されています。しかし、幾度となく改修が行われたため、当初の建物の痕跡はわずかしか残っていません。特に顕著な改修は、12世紀と18世紀に行われました。
改修の歴史
12世紀の改修では、現在も見ることができる後陣(アプス)が建設されました。18世紀には、教会の現在の構造となるギリシャ十字型の平面を形成する2つの側面礼拝堂が増築されました。
20世紀以降の荒廃
残念ながら、20世紀を通じて教会の状態は著しく悪化しました。1970年には屋根の一部が崩落し、1980年には中央身廊の屋根が完全に崩壊してしまいました。現在、教会は放置され、一部崩壊した屋根を支えるための足場が設置されています。
サンタ・クローチェ教会は、かつての歴史的価値を偲ばせる貴重な遺産でありながら、現在は荒廃の危機に瀕しています。
ネーペ市長フランコ・ヴィータの発表
ネーペ – ネーペ市のサンタ・エレウテリオ教会とサンタ・クローチェ教会が、ついに全面的な修復プロジェクトのもと、新たな光を浴びることになりました。ネーペ市長フランコ・ヴィータ氏が、司教区の代表から連絡を受け、この朗報を発表しました。
「文化財保護監督局(ソプレンテンデンツァ)を通じて、両教会の修復のための資金が確保されました。特にサンタ・クローチェ教会については、その入札管理が市に委ねられています」とヴィータ市長は述べています。
市長によれば、以前からサンタ・クローチェ教会の取得を市として提案しており、修復に向けた取り組みを進めていました。市が現在進めている隣接する旧病院の改修工事を確認している際、文化財保護監督局の担当者に対し、同教会の修復の緊急性と重要性を強調していたとのことです。
現在、両教会ともに深刻な荒廃状態にあり、地域社会全体にとって危険であると同時に、長年放置されてきた歴史的建築への損害が問題視されていました。
「ついに待ち望んでいた知らせが届きました。これは、歴史的中心部の再生に向けた重要な一歩です。サンタ・クローチェ教会は、宗教的・建築的・絵画的に非常に価値がある建築物であり、美術史の書籍にも記載されているほどの名所です」とヴィータ市長は喜びを語っています。
サンタ・サヴィニッラ地下墓地(Catacomba di Santa Savinilla)
ネピの門(Le Porte di Nepi)
その他のネピの門。
ポルツィアーナ門(Porta Porciana o Porziana)
ポルタ・ポルチアーナ(ポルツィアーナ)門は、ポルチアーノと呼ばれるネペジーナの田園地帯とその既成市街地で働く農民や豚商人の玄関口であった。 この門はポルタ・ポルチアーナ通り(via porta porciana)、あるいは以前はマドンネッラ通り(via della madonnella)と呼ばれていた(階段の入り口に聖母の肖像画があるため)。 階段を下りて右手に進むと、1545年にファルネーゼ家によって建てられたピサーニ宮殿の下にある「マッツァポルコ」として知られるファルネーゼ家の城壁の一部が見える。
ウニコ門(Porta dell’Unico)
ポルタ・デッラ・ウニコは、ボルジア城の入り口の向かいにある。 城とつながっていた壁は、1885年11月14日の自治体の決議により、1895年に取り壊された。 扉には「XQV - UNICUS CUSTOS PROCUL HINC TIMORES- XQV」という碑文が刻まれており、これは「ただ一人の守護者がここにいる:あらゆる恐れから遠ざかれ」という意味であり、バッカーノ渓谷付近でシャルル5世の軍隊が撃退されたローマ略奪を偲んでいるのかもしれない。 Horti Silj "と刻まれた大理石のプレートは、上部が失われている。
ファリスカ門 (Porta Falisca)
ポルタ・ファリスカは、ファリスカ領の人々がアメリーナを経由してスメントヴァータに出入りできたことから、そう呼ばれるようになった。 北の堡塁の近くにあったが、市街への新しいアクセス道路が建設された際に放棄された。 門の入り口の上には、教皇パウロ3世の紋章が掲げられている。
ガロッツィーノ門(Porta del Gallozzino)
ポルタ・デル・ガッロッツィーノ、この門は通りの宮殿に組み込まれたため、現在は消滅している。 1545年にファルネーゼ家がネピをパルマ公国およびピアチェンツァ公国と交換する頃には、城壁の建設はポルタ・ファリスカまで完了していた。 ファルネーゼ城壁が建設される前、マッサの "カヴォーニ "から来るネピへの入り口は、コルテ通りの終点、"ヴァッレ "の先、テルモ・ラルテ通りの小さな広場の近く、トーリ宮殿の側にあった。 1545年に修復・補強されたポルタ・デル・ガロッツィーノと呼ばれる門がここにあった。 現在は、前述のトッリ宮殿に隣接する小さな広場を形成する家々に完全に取り込まれている。 この門は、ファリスカ領の人々にスメントヴァータ・アメリーナ通りへの出入りを許したことから、そう呼ばれている。 北の砦の近くにあったこの門は、市街への新しいアクセス道路が建設された際に放棄された。 写真は、その門があったはずの場所である。
ラウレターナ門(Porta Lauretana)
ポルタ・ラウレターナ(Porta Lauretana)、今は使われていないこの門は、街の北側からの入口門で、国道に通じていた。 1842年の文書に記録され、1821年と1855年の道路地図に描かれている。
バルバガーノ門(Porta del Barbagano)
ポルタ・デル・バルバガーノ(北東海岸道路)、今はなきこの門は、街の北東側からの入口の門だった。 旧病院の裏手、峡谷が小さな支流を作る場所にあった。 峡谷とサンテリア城へと続いていた。 バルビカンとして知られる大きな石積みの支柱の上にあった。 それ以来、この門は「デル・バルバカーノ」と呼ばれるようになった。
サン・ビアージョ門(Porta San Biagio o strada delle Coste)
ポルタ・サン・ビアージョ、あるいはストラーダ・デッレ・コステは、今では消滅してしまったか、あるいはほとんど消滅してしまったが、南方上流から到着する農民のための街への玄関口だった。 この道路地図に描かれているように トル・ディ・フローリディ通りとカルミネ通りの間の曲がり角から始まり、フォレ川に沿って下っていた。 16世紀の古文書に記載されている。
ホルタ・シルジ門(Porta Horti Silj)
ポルタ・ホルティ・シルジは、ファルネーゼ堡塁への入り口である。 門の外側には、19世紀後半の城主ホルティ・シルジ(フランチェスコ・シルジとピエトロ・シルジ)の名が刻まれている。
城内のロマーナ門(Porta di epoca romana interna al castello)
紀元前3世紀から2世紀にかけて建てられたこの扉は、ボルジア城の内部にあり、アメリーナ通りに面した街の入り口だった。 城の建築壁に組み込まれており、側面には当時の古壁の跡が見られる。 城壁の南西側にあり、地下牢の外からもよく見える。 入り口の高さ約4.70メートルのアーチには、ローマ時代の建築技術と、街に面した側の門扉という閉鎖システムの痕跡がはっきりと残っている。 私たちに伝わってきたこのアーチは、古代に広く普及していた、上から防御する二重門システムの一部だったと考えるのが妥当だろう。 アーチの隣には、後に作られたアーチのない蝶番扉の跡が確認されている。
中世の門(Porte medioeval)
中世の門は、ボルジア城の内部、最初のアーチから数メートル離れたところにある。 城壁に組み込まれていた。 聖ベネディクトを描いたフレスコ画の痕跡があり、おそらくネピ城の中世の中核をなすものであろう。 実際、その上にそびえる四角形の塔は、より古い時代のもので、まさにこの堂々としたアーチからその基礎を引き出している。 3つ目の門は、ローマ時代の石畳の上に直接あり、互いに重なり合う壁の中に組み込まれている。 同じく中世の建築様式で、ネピを通り、ヴィア・アメリナを経由してウンブリアとエミリアの最奥部を結んだこの街道が、何世紀も前から使われていたことを物語っています。
ボルジアの中庭門(Porta della Corte Borgiana)
ポルタ・デッラ・コルテ・ボルジアーナは、ボルジア城の正面に位置し、城の中庭への入り口であった。 ユニコの門をくぐり、回廊を通ってアクセスした。
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