オルヴィエート
オルヴィエート Orvieto
[添付]
ローマから、
- Live Orvieto
オルヴィエート市公式観光案内サイト - OrvietoViva
オルヴィエート在住の方が作られている観光案内サイト
ボルジアの街としての印象はあまり強くないが、かなり関わりの深い街。
教皇カリストゥス3世は、甥のペドロ・ルイス(アレクサンデル6世の兄)をこの街の総督にしており、
教皇アレクサンデル6世は、チェーザレをこの街の総督にしている。
オルヴィエートは、13世紀末からローマで争乱が生じた際の教皇たちの避難所という役割を担っている街であった。
高地に築かれた街は天然の要塞都市であったし、ここからさらにウンブリアへもトスカーナへも退却しやすく、戦略的重要性を持っていた。
チェーザレとアレクサンデル6世も、ローマの前哨基地としてオルヴィエートの価値を見いだし、荒廃していた街の修復と要塞化を進めた。
1493年、枢機卿になったばかりのチェーザレは、アレクサンデル6世とともに教皇庁領の視察に赴き、オルヴィエートも訪れている。
この時多数の枢機卿が随行しており、その中にはジョヴァンニ・デ・メディチもいた。
オルヴィエート到着から1週間経った11月30日、チェーザレとアレクサンデル6世は2人して、スペインにいるガンディア公ホアンに、行状をたしなめる手紙を書いている。
1494年、シャルル8世のイタリア侵攻時(シャルルのローマ入城前)には、チェーザレはここで軍を組織し待機している。
1495年、アレクサンデル6世がシャルル8世を避けてローマを離れた時も、チヴィタ・カステラーナを経由してオルヴィエートへ来ている。
(チェーザレも父に帯同している。)
1496年夏ごろ、ミゲル・ダ・コレッラは、オルヴィエートの北の境界を守る城として築かれた街、モンテレオーネ・ドルヴィエート(Monteleone d'Orvieto)での内乱制圧に派遣されている。
1503年、アレクサンデル6世崩御後の混乱期、チェーザレがロマーニャから呼び寄せた2000の軍は、オルヴィエートに待機する。この時軍を指揮していたのはフランチェスコ・レモリーネスの兄弟ジローラモ・レモリーネスだった。
オルヴィエート生まれの歴史家ルイジ・フミ(Luigi Fumi)によると、チェーザレの統治は、ロマーニャと同様にオルヴィエートの人々からも、熱烈な支持を受けていたと言う。
絶えまない内部党派や地方貴族によって動揺させられていたオルヴィエートの民衆は、名ばかりで実質の伴わない政策に疲弊し、活力に満ちたチェーザレの施政を支持したのである。
チェーザレはオルヴィエートを、繁栄させるべき我が街として統治した。彼は民衆の不満を聞き、官吏による悪政を是正した。
彼の統治下で、当時きわめて悲惨な状態に陥っていた街は、再び繁栄するかに見えた。しかし彼の後には再び衰退へと陥り、立ち直ることはなかった。
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ウンブリア州の凝灰岩の台地上に築かれた、古代エトルリア時代に起源をもつ非常に古い都市。エトルリア12都市同盟のひとつで、交易・宗教・軍事の中心として栄えた。
紀元前264年、内部抗争に介入したローマによって破壊され1度衰退する。
西ローマ帝国滅亡後、東ゴート王国・ビザンツ帝国・ランゴバルド王国などに支配されるが、中世になると再び発展し、教皇勢力の影響下で自治都市(Comune)として成長する。
12〜13世紀にはシエナ、ペルージャ、ヴィテルボなどと争いながら勢力を拡大、ローマをしのぐ人口を持つほど繁栄した。 
13世紀にはローマの政情不安を避けた歴代教皇たちがたびたび滞在し、「教皇の避難都市」として重要な役割を果たす。
しかし同時に、教皇派のモナルデスキ家(Monaldeschi)と皇帝派のフィリッペスキ家(Filippeschi)など有力家門の激しい内紛が続き、都市国家としての力は衰退してしまう。
1354年、アルボルノス枢機卿の介入、
その後のオルシーニ家やブラッチョ・ダ・モントーネらの支配を経て、
1450年以降は正式に教皇領へ組み込まれた。 
ナポレオン時代にはフランス支配を受けるが、その後再び教皇領へ戻る。
1860年、イタリア統一運動の中でイタリア王国へ編入される。
現在は、中世景観とエトルリア遺跡、地下都市、大聖堂で知られる歴史都市となっている。 
- オルヴィエート Orvieto
- アルボルノツィアーナ城塞(Rocca Albornoziana)
- サンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会(Chiesa di Santa Maria dei Servi)
- ドゥオーモ広場(Piazza del Duomo)
- レプッブリカ広場(Piazza della Repubblica)
- ポポロ広場(Piazza del Popolo)
- サン・フランチェスコ教会(Chiesa di San Francesco)
- 聖ジョヴェナーレ教会(Chiesa di San Giovenale)
- 聖ドメニコ教会(Chiesa di San Domenico)
- ロマーナ門(Porta Romana)
- マッジョーレ門(Porta Maggiore)
- ヴィヴァリア門(Porta Vivaria)
- コエッリ宮(Palazzo Coelli)
- 聖パトリツィオの井戸(Pozzo di San Patrizio)
- ホテル・ピッコローミニ宮殿(Hotel Palazzo Piccolomini)
アルボルノツィアーナ城塞(Rocca Albornoziana)
14世紀、教皇インノケンティウス6世が、教皇庁領であった都市を再び教皇権の支配下へ戻し、教皇国家の軍事的要塞化計画を推進した。
この時、教皇の依頼を受けた[[スペイン人枢機卿エジディオ・アルボルノス(Egidio Albornoz)>]]によって建てられた城塞。
城塞政策(politica delle rocche)と呼ばれるほど、アルボルノスは各地に城塞を建築しているので、彼の名を冠した同名の城塞が複数ある。ので混同に注意。
1364年に建設開始。
しかし、その頃街は激しい内紛が続いており、1390年には破壊されていた。
1450年、教皇国家の支配下で再建される。
1527年、教皇クレメンス7世は、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネにサン・パトリツィオの井戸(Pozzo di San Patrizio)の建設を委託。
当時この井戸は、城塞の井戸(Pozzo della Rocca)と呼ばれていた。要塞への給水のために作られたものだったからである。
19世紀末まで、本来の軍事防衛施設としての役割を維持し続けた。
がその後、内部に階段席と桟敷席を備えた円形劇場(anfiteatro)が建設され、そこで様々な催しが行われるようになる。
1882年には、ジュゼッペ・ガリバルディ(イタリア王国成立に貢献した政治家)の葬儀追悼式典もここで執り行われた。
現在、公共公園になっており、城壁からは眼下の谷の美しい景観を楽しむことができる。
また、サン・パトリツィオの井戸とを結ぶ連絡通路も整備されている。
サンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会(Chiesa di Santa Maria dei Servi)
ファサードが19世紀に改修されているので、新しい教会に見える。
が!もともとは13世紀に建てられた教会と修道院で、教会にはアレクサンドル6世の紋章を刻んだ15世紀の洗礼盤がある!(Els Borja l’art p209)
単一身廊で、両側にそれぞれ3つの礼拝堂がある。身廊は木造ヴォールトで覆われている。主入口の上には古いオルガンを見ることができる。
右側最初の礼拝堂にある木製の十字架像は14世紀のもの。
主祭壇の右手にあるサン・セバスティアーノ礼拝堂にあるマエスタ(Maestà 玉座の聖母子)は15世紀のもの。
かつてのフランチェスコ会修道院が教会に隣接しており、中庭回廊と、イッポーリト・スカルツァ(Ippolito Scalza)が設計した井戸を見ることができる。
1297年、この教会で、フランス王ルイ9世(Louis IX)の戴冠式が、教皇ボニファティウス8世(Boniface VIII)によって行われた。
ドゥオーモ広場(Piazza del Duomo)
300年以上にわたるドゥオーモ建設の間にドゥオーモを中心として形作られていった広場。オルヴィエートの中央南にある。
ドゥオーモを囲むコの字型になっている。(反転したコの字。「 [ 」の形)
・広場北側に、マウリーツィオ塔
・南側に、教皇宮殿
・ドゥオーモ入口の真正面に、クラウディオ・ファイーナ博物館
・その博物館の隣には、オルヴィエート地下洞窟群の入口がある。
ドゥオーモを取り囲む多くの家屋や宮殿は、現在ではカフェテリアや、オルヴィエート名産の陶器を売る店となっている。
広場は石畳で舗装されており、聖堂の前にはダビデの星などのモザイクが見られる。
オルヴィエート大聖堂(Duomo di Orvieto)
1263年、近隣の街ボルセーナで起こった奇跡の聖遺物、ボルセーナの聖体布(miracolo di Bolsena)を安置するため、教皇ウルバヌス4世の命によって建設された教会。
奇跡とは、聖変化(transubstantiation パンとぶどう酒がキリストの身体と血に変化する秘跡のこと)に疑いを抱いていた司祭の聖体(Host ミサで使っていたパン)から血が流れ出し、それが祭壇布を染めた、というもの。
この布は現在、大聖堂内部の聖体布礼拝堂(Cappela Corporal)に保管されている。
建設にはほぼ3世紀を要し、その過程でロマネスク様式からゴシック様式へと変化している。
大きなバラ窓、黄金のモザイク、3つの巨大な青銅扉を備えている。
内部には、最後の審判を描いたフレスコ画で装飾された2つの礼拝堂がある。
サン・ブリーツィオ礼拝堂(Cappella di San Brizio)の天井や壁面には、ルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli)のフレスコ画が描かれている。
教皇宮殿(Palazzo dei Papi)
複数の建物をふくんでいるので、教皇宮殿群(Palazzi Papali)とも。
教皇宮殿(Palazzo Apostolico)と書かれていることもある。
ボニファティウス8世宮宮殿(Palazzo di Papa Bonifacio VIII)、
ソリアーノ宮殿(Palazzo Soliano)、
を含んでいる。
ソリアーノ宮殿は、現在エミリオ・グレコ博物館(Museo Emilio Greco)になっている。。
大聖堂の向かって右側(南)に隣接している宮殿。
大聖堂と同じく教皇ウルバヌス4世の命によって、13世紀半ばに建設が開始された。13世紀末、教皇ボニファティウス8世が建物をさらに拡大した。
当時、オルヴィエートはローマでの争乱を避けるための教皇たちの避難所だった。
アレクサンデル6世も、1495年5月、シャルル8世のイタリア侵攻時、彼に会うのを避けるためにローマを離れここに宿泊している。(チェーザレも帯同している。)
その前年の1493年にも、チェーザレとアレクサンデル6世は教皇庁領の視察へ赴き、11月23日から数日間、ここに滞在している。
ジュリア・ファルネーゼやジョヴァンニ・スフォルツァ、
ヴェネツィア・フィレンツェ・ナポリ・フランスの大使たち、
が集まり盛大な祝祭が催された。
1550年まで教皇の居所として使用され続け、その後大聖堂参事会(capitolo della cattedrale 大聖堂を運営する組織)の所有となった。参事会はしばらくこれを住居として使用した後、1896年に博物館として再設計し、現在に至っている。
博物館には、20世紀初頭のイタリア人彫刻家エミリオ・グレコ(Emilio Greco)による青銅作品(彫刻32点、およびリトグラフや素描を含むグラフィック作品60点)が収蔵されている。
この彫刻家は大聖堂のためにも制作を行っており3つの大きな青銅扉は彼の作。(元々の木製扉を置き換えたもの。)
マウリツィオ塔(Torre di Maurizio)
もともとは日時計であった塔。
長期に渡ったオルヴィエート大聖堂の建設中である1347年、建設現場での労働時間を知らせるために備え付けられた、鐘を打つ自動人形の付いた時計塔。
自動時報装置が一定間隔ごとに鐘を鳴らす、ということも画期的であるが、毎日の作業開始時刻と終了時刻を定期的に知らせるという労働者への配慮もすごい。全員きっちり時間いっぱい働け!って意味もあるだろうけど。
方形の塔の3面に時計盤があり、すぐ上の頂上には青銅の鐘と鐘打ち人形が立っている。この鐘打ち人形がマウリーツィオである。
この名は、「ariologium de muricio(労働時間を告げる時計)」という表現に含まれる muricio という語が誤って発音されたことに由来している。
時計とマウリーツィオが一本のピンで接続されており、そのピンによってマウリーツィオは横向きに回転し、毎時ごとに棒で鐘を打つことができる、らしい。
マウリーツィオは現在も、毎正時ごとにほとんど正確に鐘を鳴らし続けている。
何世紀もの間、風雨に耐えながら、なお稼働しているのである。すごい!
現存する最古級の自動時計装置のひとつである。
マウリーツィオの帯には、
「Da te a me campana fuoro pati / tu per gridare et io per fare i fati」
と刻まれており、これは、
「これが私と鐘、お前との取り決めだ――お前は叫び、私は仕事をする」
という意味。
彼は、1325年に鋳造されたドゥオーモ正面の他の青銅像よりも、意図的に粗野に作られている。
つまり彼は、労働者階級の代表者なのだ。
鐘は、14世紀半ばにウゴリーノ・ダ・ボローニャ(Ugolino da Bologna)によって鋳造されたもの。
基本的には入場不可。だが、時計の機構とマウリーツィオは、塔入口に設置されたスクリーンで、ウェブカメラ映像を通して見ることができる。
文化週間などの季節の行事の際は一般に公開され、マウリーツィオのいるところまで登ることができる。
塔の建物は、ドゥオーモおよびオルヴィエート大聖堂付属博物館機構「MODO(Museo dell’Opera del Duomo)」の案内所として使われている。
「クラウディオ・ファイーナ」エトルリア博物館(Museo Etrusco "Claudio Faina")
エトルリア時代の遺物(陶器、青銅器、宝飾品)、
ギリシアの遺物(黒絵式および赤絵式の壺)、
ローマ時代の遺物(豊富な貨幣コレクション)、
などを展示する考古学博物館。
1957年、に設立されたクラウディオ・ファイーナ博物館財団(Fondazione per il Museo Claudio Faina)によって運営されている。
オルヴィエートの地下都市(Città Sotterranea)
オルヴィエートの地下に存在する、人工の地下通路、人工空洞、作業空間。
オルヴィエート・アンダーグラウンド(Orvieto Underground cave system)。
迷路のように入り組んだ洞窟内の大部分を占めるのは、地下貯蔵室(cantine)である。
2,500年ほど前のエトルリア時代から!、低温で光が入らないという食品やワインの保存に理想的な空間として、貯蔵庫の役割を担っていた。
いくつもの通路で繋がっており、ちょっとした地下都市の様相を成している。
1950年代、冷蔵庫の普及と新しいワイン製造方式の導入によって、長く地下貯蔵室として利用されてきた地下空間は無用となった。それ以来この場所は放棄され、どこがどうなっているのか不明になってしまっていた。
1970年代末、オルヴィエートの洞窟探検家グループが都市地下の探査を行い、調査記録を開始した。その結果、1200以上の人工空洞の再発見へとつながった。
現在、調査によって長大な貯水槽群が明らかになっている。
・紀元前5世紀のエトルリア時代のもの(特に枠組み式 (a telaio)と呼ばれる技法で造られた珍しいもの)、
・中世のもの、
・ルネサンス期の非常に巨大なもの
である。
また、エトルリア時代に掘削された導水用地下通路、
中世にごみ捨て場として使われた廃棄のための井戸(pozzi butto)、
18世紀の窯、
古代の墓、
中世のオリーブ製造所、
ハト飼育小屋、
建設用具の格納庫、
暖炉、
などもある。
ガイドツアーにより、見学できる。入口はドゥオーモ広場、大聖堂の向かい側にある。
イタリア語と英語のみ。所要時間は約1時間。
レプッブリカ広場(Piazza della Repubblica)
オルヴィエートの西側にある広場。東端にあるアルボルノツィアーナ城塞から伸びる、街のメインストリート、カヴール通り(Corso Cavour)の終点にある。レプッブリカとは共和国という意味。
チェーザレの時代はマッジョーレ広場(Piazza Maggiore)と呼ばれていた。
ローマ時代からフォルム(公共広場。政治・経済・宗教の中心地として機能していた。)があった場所で、当時から市民生活の中心であった。ドゥオーモが建設される以前には、サンタンドレア教会が街の主要教会であったため、宗教生活の中心地でもあった。
12世紀までには、町の重要な建物のすべてがこの広場、あるいはその近辺に建っていた。
ローマからオルヴィエートを訪れる人々は、マッジョーレ門をくぐり、カーヴァ通り(Via della Cava)を通ってこの広場に入った。
13世紀、教会と市庁舎の両方が修復される。
また、広場の中央に赤い大理石の噴水が建設された。当時新しく作られた水道設備を記念する噴水だった。
14世紀、大聖堂と教皇宮殿の建設によって、都市の中心がドゥオーモ広場へ移る。
オルヴィエートが教皇領へ組み込まれ、市民統治者たちが権力を失ったことで、この傾向はいっそう強まった。
しかし長く街の人々を集めていた広場は寂れることはなく、都市生活の基幹拠点だった。チェーザレの時代に書かれた日記や年代記にも、この広場は多く登場する。
現在、オルヴィエートの中心的広場はこのレプッブリカ広場の他に、
ドゥオーモ広場
ポポロ広場
とあるが、今でもこちらが最も賑わっている。
ケーブルカーからは距離があるが、遠距離のバスはここから発着するよう。
・北側に、ラヴィッツァ宮(Palazzo Ravizza)
ルネサンス時代の宮殿。19世紀に修復されている。
・隣接して西側に、オッタヴィアーニ宮(Palazzo Ottaviani)
ルネサンス時代の宮殿だが19世紀に修復されている。現在はオルヴィエート貯蓄銀行(Cassa di Risparmio di Orvieto)が入っている。イタリア統一の英雄ガリバルディ(Garibaldi)がここで演説を行った。
サンタンドレア教会(Chiesa di Sant'Andrea)
レプッブリカ広場(Piazza della Repubblica)の、市庁舎(Palazzo Comunale)に隣接して建つ後期ロマネスク=ゴシック様式の教会。13世紀初頭に増設された十二角形の鐘楼、ドデカゴナーレ塔(Torre Dodecagonale)が特徴的。
20世紀に大きく改修されているが、エトルリア時代の神殿跡地に、6世紀頃に建てられたとても古い教会。オルヴィエート最古の教会とも言われている。
977年、教皇ベネディクトゥス7世の命によってモザイク床が改修されたことが記録されている。
もともとは使徒アンデレとバルトロメオに捧げられていたので、聖アンドレアおよび聖バルトロメオ教会(Collegiata dei Santi Andrea e Bartolomeo)とも呼ばれる。
[[ドゥオーモ>]]ができるまでは、この教会と広場が長くオルヴィエートの中心であり、様々な重要な式典が行われた。
1125年、教会派支持者たちがここに集まり、皇帝派に抵抗することを決定した。
1216年、教皇インノケンティウス3世がここで十字軍の必要を説教した。
1217年、オルヴィエート最初のポデスタであるピエトロ・パレンツォ(San Pietro Parenzo)がここで列聖された。
1281年、後の教皇ボニファティウス8世となるベネデット・カエターニ(Benedetto Caetani)ここでが枢機卿に任命された。
11〜12世紀、中世都市の発展と並行して、後陣部分の拡張と、尖頭アーチを支える大きな複合形柱によって支えられた二重翼廊が、ロマネスク様式で作られた。
ファサード中央のバラ窓は、15世紀のもの。
バラ窓と同時期、中央部分に赤い大理石の隅広がり型扉が設置された。そして、それを際立たせるための灰色の玄武岩帯の中にはめ込まれた。
その後も何度も改修改築は行われるが、
1926年から1930年にかけて、グスターヴォ・ジョヴァンノーニ(Gustavo Giovannoni)によってほぼ全面的改修された。
この時、鐘楼を飾る多数の紋章も付けられた。
鐘楼は、胸壁と小円柱によって区切られた三層の二連窓を備えているが、もともとは十字架付きのクーポラ屋根を載せていた。
内部は広大で開放感があり、バシリカ式平面(長方形平面で、列柱によって中央身廊と側廊に分けられ、奥に後陣を備える教会形式。中央身廊が側廊より高く、上部に採光窓を持つことが多い)を持つ。
3つの壮大な身廊は、おそらく2世紀にさかのぼるモノリス円柱によって分けられており、それらは古典様式の柱頭によって冠されている。
内陣は14世紀の改築によって、細長く伸びた交差ヴォールトになっている。屋根は16世紀に再建されたもの。
市庁舎(Palazzo Comunale)
広場の南側にある最も大きな建物。
何世紀にもわたって幾度も修復されており、現在でも完全には完成していないと言われている。大きく貢献した建築家はオルヴィエート生まれの建築家イッポーリト・スカルツァ(Ippolito Scalza 1532 – 1617)。
宮殿下のアーチは19世紀にヴィルジーニオ・ヴェスピニャーニによって付け加えられた。
ポポロ広場(Piazza del Popolo)
オルヴィエートのほぼ中央にある広場。
毎週木曜と土曜の午前中に朝市が開かれている。食品だけでなく、花、衣料品、靴などが並んでいる。
市は昔から開かれていたようだが、広場についての情報はあまりない。
カピターノ・デル・ポポロ宮殿(Palazzo Del Capitano Del Popolo)
ポポロ宮殿(Palazzo del Popolo)、ポデスタ宮殿(Palazzo del Podestà)とも。
13世紀末に建設された、ポポロ広場(Piazza Popolo)に建つ宮殿。ロマネスク=ゴシック様式。
カピターノ・デル・ポポロ(Capitano del Popolo)とは人民隊長のような意味で、都市の民衆側を代表する重要な役職だった。宮殿は、民衆代表による都市議会の場であり、自由都市国家(コムーネ)時代における市政の中心地であった。
周辺には、有力貴族であったブラッチ家(Bracci)やシモンチェッリ家(Simoncelli)の宮殿も残っている。
もともとは、1156年に教皇ハドリアヌス4世によって、サン・ベルナルド教会に隣接する教皇宮殿として、一階建てのロッジャ形式で建設された。
その後戦争によって損傷を受け、1255年、教皇アレクサンデル4世により修復される。
その後、この建物はポデスタ(Podestà)、後に人民隊長(Capitano del Popolo)の居館となった。(いずれも街の最高位の行政長官)
1315年、鐘楼が追加され、その翌年には大鐘が吊り下げられた。
大きな外階段があり、上にはかつて演壇テラスが設けられていた。そこから下の群衆に向かって演説することができた。当時は階段と演壇には屋根が付いていた。
この階段は、市民が評議会の広間へ容易にアクセスできることを象徴する、開かれた市政を象徴していた。
1463年頃、1階の広場側にモンテ・ディ・ピエタ(Monte di Pietà)という、主に貧民へ金を貸し付ける質屋的金融機関の事務所が存在していた。これは教皇ピウス2世の支援のもと設立された。
1472年、大広間は2つに分割され、広い方は、現在の四百人の間(Sala dei Quattrocento)として残っている。
1596年から1651年、1階部分にストゥディウム(Studium)と呼ばれる教育機関が置かれた。
その後、劇場となり、トーディ出身のスフォルツィーノ(Sforzino da Todi)によって設計され、スウェーデン女王クリスティーナの訪問時に落成した。
その後、オルヴィエート市長の所在地となる。
現在は市役所の一部が置かれており、広間は会議センターとして利用されている。観光客向けには公開されていない。
モーロ塔(Torre del Moro)
正確にはポポロ広場ではなく、広場の南西にある。ポポロ広場とマッジョーレ広場(現在のレプッブリカ広場)の中間あたり、オルヴィエートの4つの地区の境目に、建つ塔。七人宮殿に隣接している。
1200年代、テルツァ家(Terza)によって建設された。当時は宮殿の主塔や堡塁として機能していた。(敵の攻撃を防ぎつつ、反撃を行うために構築された防御陣地的な役割を担っていた。)
1500年代までは教皇の塔(Torre del Papa)と呼ばれていたが、その後改名された。
その理由としては3つの可能性がある。
1・近くのプッチ宮(Palazzo Pucci)の紋章盾に描かれていたムーア人(Moor)に由来
2・近隣に土地を所有していた貴族ラファエーレ・ディ・サンテ(Raffaele di Sante)の渾名イル・モーロ(Il Moro)に由来
3・競馬競技の際に塔へムーア人像が吊るされ、通過する騎手たちが槍でそれを突いた、というエピソードに由来
2・の説が有力なよう。だがミラノの君主と同じ呼び名を持っていたラファエーレが何者なのかは、謎。
高さは47メートル。ほぼ正確に東西南北の四方位に向かって建てられている。
頂上には鐘があり、その表面には各職業組合(arti)の紋章と民衆の印章が刻まれている。
1866年の修復後、機械式時計と2つの鐘が設置された。
小さい方の鐘はサンタンドレア教会の鐘楼だったもので、
大きい方はポポロ広場にあった14世紀の職業組合のもの。
入口周辺には九つの紋章が見られる。
塔の銘板には、ダンテの「神曲」 の煉獄篇・第6歌の詩句が刻まれている。これは、コムーネ時代におけるオルヴィエートの教皇派と皇帝派の争い、モナルデスキ家(Monaldeschi)とフィリッペスキ家(Filippeschi)の抗争を想起させている。
『Vieni a veder Montecchi e Cappelletti,
Monaldi e Filippeschi, uom sanza cura,
color già tristi, e questi con sospetti!”
来て見よ、モンテッキ家とカッペレッティ家を、
モナルディ家とフィリッペスキ家を。
名誉なき者よ、前者はすでに苦しみ、後者は疑念に満ちている!』
現在、塔は一般公開されており、300ほどの階段を上ってテラスへ到達できる。途中までエレベーターも利用できる。ドゥオーモとそれを取り巻く街並みだけでなく、トスカーナの平原や丘を360度見渡すことができる。
七人宮殿(Palazzo dei Sette)
モーロ塔に隣接している宮殿。
当初テルツァ家(Terza)によって建設され、その後、教皇の宮廷を収容するために用いられた。
しかし1319年、この建物は自治都市政府(コムーネ)へ与えられ、都市の同業組合を代表する七人の行政官(consuls)の議事堂(収容所)となった。
彼らは七人の長官たち(Signori sette)と呼ばれ、評議員および地方裁判官として機能した。
任期は2か月で、期間中、彼らは宮殿の外部の人間と接触することを禁じられていた。
1354年、オルヴィエートが教皇ボニファティウス9世と枢機卿アルボルノスのもとで教皇権の直接支配下に入ると、宮殿は教皇の居館となった。アレクサンデル6世の一行もここに滞在した。
1516年、教皇レオ10世は宮殿を再びコムーネへ移譲し、自らが任命した総督の住居とした。
16世紀、イッポーリト・スカルツァ(Ippolito Scalza)によって宮殿の改修が行われた。
1831年、教皇グレゴリウス16世は、この宮殿を県の裁判所および監獄とした。
入口上の銘板は、1571年の教皇ピウス5世を記念している。
サン・フランチェスコ教会(Chiesa di San Francesco)
13世紀初頭、オルヴィエート近郊に隠修所を設立したフランチェスコ会士たちによって、1234年に建てられた教会。
隣接する修道院は、2009年から、ルイジ・フミ新公共図書館(Nuova Biblioteca Pubblica Luigi Fumi)になっている。ルイジ・フミは1849年にオルヴィエートで生まれた歴史家で、チェーザレとアレクサンデル6世の本も書いている。
当初は聖フランチェスコと聖アンブロジウスに献堂されていたが、
1264年に拡張された後、1266年に教皇クレメンス4世によって、聖フランチェスコに献堂された。
1290年に[[ドゥオーモ>]]が完成するまで、オルヴィエート最大の教会だった。
単一身廊で、四角形の後陣、木造トラス屋根を備えた、当時のフランチェスコ会教会の典型的な構造をしている。
16世紀後半、側壁沿いに祭壇が設置された際に内部が改変される。
1768年から1773年にかけて、2組の側礼拝堂が追加され、交差部上のドームも追加された。
ファサードもバロック様式になったが、彫刻大理石の扉は、完全な形で残っている。
左側廊にある教皇ボニファティウス8世の彫像群は1297年のもの。
祭壇上の木製十字架像は、1320年頃のもの。
聖ジョヴェナーレ教会(Chiesa di San Giovenale)
聖ジョヴェナーレって聖ジョヴァンニ(San Giovanni)?発音の揺れ?と思うけど、別人。
聖ジョヴェナーレは、4世紀頃の人物とされ、ナルニの司教聖ユウェナリス(Juvenalis)を指す。ジョヴェナーレ(Giovenale)はそのイタリア語化したもの。
1004年、ユピテルに捧げられたエトルリア神殿の跡地に建てられた教会。街の裕福な貴族たちの後援によって建設された。オルヴィエート最古の教会と言われている。
ロマネスク様式で、簡素な正面ファサードの側面には高い鐘楼が立っている。内部の壁面には12世紀〜13世紀のフレスコ画が部分的に残っている。
大理石祭壇は、1170年のビザンティン彫刻。その両脇に、福音記者たちの象徴を刻んだ13世紀後半の大理石製朗読台が置かれている。
洗礼堂には、14世紀の「キリスト昇天」のフレスコ画がある。
入口は9世紀の彫刻入り舗石板で飾られており、洗礼盤は15世紀のものである。
1028年、教区教会として記録されている。
1170年頃、教会はグリエルミーニ修道会(Ordine Guglielmino)に属していた。これは主祭壇にある碑文「GUIDO ABAS MCLXX」に記されている。
1248年頃、修道士たちが去り再び教区教会へ戻る。
14世紀、東側をゴシック様式で増築した際、半円形の後陣が取り壊され、矩形へ変更された。当時のロマネスク様式のポーチやブラインドアーチ(壁面に施される装飾的なアーチ)の痕跡は現在も残っている。
1497年、改築または増築が行われたようで、側面扉の碑文に年号が刻まれている。
1739年、マルシャーノ司教ジュゼッペ(Giuseppe Marsciano)によって改修される。
その後1810年まで、サンタゴスティーノ教会(Sant’Agostino)の管理下に置かれ、
その後フランチェスコ会に移管された。
1825年、建物上部が再建される。(建物下部は創建当初のものが残っている。)
1860年、フランチェスコ会共同体が廃止されると、教会は再び教区へ返還された。
入口前の小さな広場からは、ウンブリアの丘陵地帯の田園風景を広く見渡すことができる。
聖ドメニコ教会(Chiesa di San Domenico)
ヴェンティノーヴェ・マルツォ広場(Piazza Ventinove Marzo)にある、ゴシック様式の教会。
もともとここにはローマ時代のミネルヴァ神殿が建っており、その後サンタ・パーチェ(Santa Pace)という教区教会が建てられていた。
1233年、ドメニコ会創始者の修道士・ドミンゴ・デ・グスマン(Domingo de Guzmán Garcés)の死から約10年後、そこに新たな教会と修道院の建築が開始される。これはドメニコ会最初期の教会のひとつであった。
1261年頃、教皇ウルバヌス4世(Urban IV)の時代に、枢機卿アンニバルド・アンニバルデスキ(Annibaldo Annibaldeschi)のもとで拡張された。
建物は三廊式で建設されたが、現在残っているのは後陣と翼廊右側部分のみである。
17世紀に教会は短縮され、前方の広場空間が広げられ、
1932年、女子体育アカデミー(Accademia femminile di educazione fisica)建設のため、教会の大部分が取り壊されたからである。
現在、そこには体育アカデミーではなく、イタリア財務警察(Guardia di Finanza)の緑のベレー隊(Baschi Verdi テロ対策や危険度の高い犯罪捜査を専門とする特殊部隊)の訓練センターが置かれている。
1263年から1264年にかけてオルヴィエートに滞在していたトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)が、神学の講義で使用した机を所蔵している。
1282年頃、アルノルフォ・ディ・カンビオ(Arnolfo di Cambio)によってが制作されたドゥ・ブレー枢機卿(cardinale De Braye)の霊廟は、紀元前2世紀のローマ時代の彫像を含んでいる。
[添付]
1516年から1523年にかけてミケーレ・サンミケーリ(Michele Sanmicheli)が主祭壇後方空間(tribuna)の下に設計した、ペトルッチ礼拝堂(Cappella Petrucci)がある。
この礼拝堂は八角形で、2つの左右対称の階段を下りると3つの空間がある。対角軸上に配置された壁龕のデザインは、古代ローマの霊廟(mausolei)から着想を得ている。
複数の彫刻作品を備えており、当時の最も壮大かつ独特な、一族礼拝堂のひとつだった。
が、16世紀後半から、上部礼拝堂の改築工事が行われ、礼拝堂の構造は大きく改変されている。
また、かつてはシモーネ・マルティーニ(Simone Martini)によるサン・ドメニコ祭壇画が所蔵されていたが、現在はオルヴィエート大聖堂附属美術館に移されている。
ロマーナ門(Porta Romana)
1822年に建てられた門。
それまでは、ペルトゥーザ門(Porta Pertusa)と呼ばれる門が建っていた。
門の両側にある2本の柱の頂部には、市の紋章である皇帝の鷲(aquila imperiale)とガチョウ(oca)の石像がある。
市内への主要な入口のひとつ。
マッジョーレ門(Porta Maggiore)
エトルリア時代からの最も重要な門。
ローマ時代、中世、ルネサンス時代まで、変わらず街への主要な出入口であった。
ローマからやって来た教皇たちも、ここから入城した。それを記念して?門の上には壁龕(nicchia)があり、そこには教皇ボニファティウス8世(Pope Boniface VIII)像の複製が納められている。
1493年11月23日、チェーザレがアレクサンデル6世とともにオルヴィエートを訪れた際も、この門から入城している。
オルヴィエートの人々は、教皇の一行がヴィテルボに滞在していることを知り、使節を送って街に招聘していた。
門の周辺には、教皇の一行を見ようとあらゆる身分の人々が押し寄せ、群れをなしていたと言う。
『教皇は、歓呼する民衆の二つの波の間を馬に乗って進んでいたが、やがてマッジョーレ門の少し先にあるマリア・デッラ・フォンテの聖所(santuario di Maria della Fonte)の近くで下馬し、そこで教皇の祭服を身につけると、絹の天蓋の下、貴族たちによって担がれる輿に乗って姿を現した。その貴族たちは交代しながら輿を担ぎ、男も女も、教皇が通るたびに「アレッサンドロ! アレッサンドロ!」と叫んでいた。』
現在、この門はカーヴァ通り(Via della Cava)の終点(始点?)にあり、市外へ出るための一方通行になっている。
ヴィヴァリア門(Porta Vivaria)
現在は一部分だけが残っている。
市街中心部から、断崖の環状道(anello della Rupe)へ出るところにあり、徒歩でのみ通行可能。
ここからエトルリア人墓地遺跡の博物館(Necropoli del Crocifisso del Tufo)へ行くことができる。
とても小さく、通りにくい門だった。その特徴ゆえ、第二次世界大戦中には、市街への避難路として大いに利用された。
コエッリ宮(Palazzo Coelli)
最初の所有者であったジュリオ・コエッリ(Giulio Cohelli)の名前が冠されている宮殿。16世紀後半に建てられた。
ファサードは、オルヴィエート出身の建築家イッポーリト・スカルツァ(Ippolito Scalza 1532 – 1617)によって設計されたと考えられている。
その後何世紀にもわたり、コエッリ家から、フェベイ家(Febei)、ラッツァリーニ家(Lazzarini)、チャルフィ家(Cialfi)、フミ家(Fumi)、と、オルヴィエートの有力者に所有されてきた。
現在は、オルヴィエート貯蓄銀行財団(Fondazione Cassa di Risparmio di Orvieto)の本部が入っており、美術展、会議、ワークショップなど、イベント会場として利用されている。2つの独立した出入口を備えているため、複数のイベントを同時に開催できる。
2000年、銀行に購入された時、全面的な修復が行われている。
聖パトリツィオの井戸(Pozzo di San Patrizio)
1527年から1537年にかけて、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ(Antonio da Sangallo il Giovane)によって建設された、深さ約53.15メートル、底の直径約13メートルの巨大な井戸。
呼び名は、煉獄へ通じる入口と言われているアイルランドの底なし洞窟「聖パトリックの煉獄(Purgatorio di San Patrizio)」に由来している。しかしこのように呼ばれるようになったのは19世紀からで、当時は近くにあるアルボルノス要塞にちなみ、単に城塞の井戸(Pozzo della Rocca)と呼ばれていた。
アントニオ・サンガッロは、チヴィタ・カステラーナのボルジア城塞(サンガッロ城塞)の建築にも携わっていた人物。
1527年、神聖ローマ皇帝カール5世によるローマ劫略の際、教皇クレメンス7世はオルヴィエートへ避難した。
この時、オルヴィエートは優れた避難所であることが証明されたが、長期包囲戦となった場合の水供給が充分ではないのではないかと、懸念された。
その懸念を払拭するため、井戸の掘削が開始された。
完成は、次代の教皇パウルス3世の治世中である1537年。
中央の井戸坑が、二重らせん構造になった2本の螺旋坂路で囲まれており、出入口が2カ所作られている。これは、空の容器を下へ運ぶ者と、水の入った容器を上へ運ぶ者が、同じ階段を使わずに、昇り降りできるようにするためであった。
井戸を行き来して水を運ぶのに、ロバの隊列を使っていたので、すれ違う必要がない設計は荷運びの流れをスムーズ継続させることが可能で、非常に便利だった。賢い!
井戸にはラテン語の銘文が刻まれている。
QUOD NATURA MUNIMENTO INVIDERAT INDUSTRIA ADIECIT
「自然が防御のために与えなかったものを、人間の努力が補った」という意味である。
ホテル・ピッコローミニ宮殿(Hotel Palazzo Piccolomini)
16世紀末から20世紀初頭までピッコローミニ家の所有であった宮殿と、
1306年に死去した枢機卿テオドリーコ・ラニエーリの所有していた宮殿(Palazzo Ranieri)、
2つの歴史的建造物を利用しているホテル。四つ星。
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