チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

オスティアOstia

オスティア Ostia

オスティア・アンティカ駅

オスティアの見どころは、ローマ・リド線 (Ferrovia Roma-Lido) の3つの駅が最寄りになる。

  1. オスティア・アンティカ駅(Ostia Antica)
    最もローマ寄り。
    ユリウス2世の城、オスティア・アンティカ最寄り駅。
  2. リド・ディ・オスティア・ノルド駅(Lido di Ostia Nord)
    1.と2.の駅の中間にある駅。あえて利用することはない?かも。
  3. リド・ディ・オスティア・チェントロ駅(Lido di Ostia Centro)
    最も海より。
    観光案内所などはここにある。

ローマから、鉄道で約1時間。(乗換え1回。)
フィウミチーノ空港から、車で約10分。


最寄り駅が3つあるだけあって広いので、徒歩で周るのは厳しい。



ティレニア海に面したテヴェレ河河口にある街。

紀元前630年頃、ローマ人によって建設された。ローマ艦隊の基地として重要な軍事的機能があったと言われている。
河口北側には塩田もあり、商業都市としても重要な街だった。

2世紀初頭、テヴェレ河口付近に土砂が溜まって不便になったため、新たな港ポルトゥスPortusが建設される。このためオスティアはローマの外港としての地位を奪われることになった。
さらにその後、周辺の湿地帯に発生したマラリヤの蔓延が人口の減少に拍車をかけ、おそらく5世紀中頃、オスティアは完全に放棄されたものと考えられている。
現在はオスティア・アンティカとして広く公開されていて、ローマ時代の遺跡が見られる。

9世紀、教皇グレゴリウス4世が、サラセン人の侵入からこの地域の住民を守るため、城壁を建築する。村が形成され、徐々に発展して行った。 城壁で守られたこの最初の集落は、その創設者の名前が付けられ、グレゴリオポリと呼ばれた。

15世紀、教皇マルティヌス5世によって、テヴェレ河制御のための濠に囲まれた塔が建てられる。
また、オスティア司教であった枢機卿ギヨーム・デストゥトヴィルが、商人と近隣の塩田の安全を守るため、グレゴリオポリの城壁を改築し、その中に3棟のテラスハウスを建てた。

1483年から1487年にかけて、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿が海賊の襲撃を食い止めるため、河を守る要塞を建設する。が、1557年の大洪水で河の流れが迂回し、要塞の戦略的機能は無効となった。

1503年11月22日、ロマーニャへ向かうためオスティアから乗船しようとしたチェーザレは、ここで逮捕された。

現在はローマ市内から日帰りできる、ちょっとしたビーチリゾートになっている。



  • ユリウス2世の城 - 聖アウレア教会はこの城の城壁内にある。
  • トレ・サン・ミケーレ -
  • トレ・ボアッチャーナ -
  • オスティア・アンティカ - チケット売り場 、
  • オスティア桟橋 -


ユリウス2世の城(Castello di Giulio II)

オスティア、ユリウス2世の城

ローマ帝政時代にネクロポリス(古代の大きな共同墓地)があった場所に、5世紀、聖アウレアに捧げられた教会が建てられた。
教会はその後何世紀にも渡って修復され、9世紀には教皇グレゴリウス4世の統治下で、教会を中心に街が形成される。

街は、近くの塩田とテヴェレ河の接線上にあり税関もあったので、要衝となっていく。

15世紀、教皇マルティヌス5世は、街の防衛強化のため、濠に囲まれた円形の塔を建築する。

オスティア、城塞 オスティア、城塞
1461年から1483年にかけて、オスティアの司教デストゥトヴィル枢機卿(Guillaume d'Estouteville)は、城壁を修復し、3棟の住居を増築する。

上の写真はエストゥトヴィル紋章の掲げられた城壁とその紋章。



敷地内にレストランやホテルとして利用されている矩形の建物があるんだけど、もしかしてこれが3棟の住居?3つあるし…。(門に隣接している1棟は写真に写っていない。)
オスティア、城塞内のレストラン


オスティア、ユリウス2世の城

1483年から1487年にかけて、教皇シクストゥス4世の時に、後にローマ教皇ユリウス2世となるジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿が、海からの攻撃を防衛するため、城塞の建築を始める。
設計は、フィレンツェの建築家バッチョ・ポンテッリ(Baccio Pontelli)に依頼された。
(ポンテッリはシスティーナ礼拝堂シニガリアの城塞も建築している人。)
中庭に通じる門の碑文に、そのことが刻まれている。



城はルネサンス期の最も優れた軍事建築のひとつとなり、
3つの塔(正面入口を守るために作られた、リヴェッリーノ(rivellino)と呼ばれる最も高い塔)(教皇マルティヌス5世の建てた塔を基にした塔)(と、もう1つ)、
カセマッテ(casematte)(大砲の砲弾を防ぐ空間)のある城壁、
広い濠、
で構成された。

上から見ると三角形になっている、珍しい城塞。




オスティア、河の流れが変わる前の城塞
16世紀の版画。オランダ、アムステルダム国立美術館所蔵。


ロドリーゴ・ボルジアが教皇アレクサンデル6世として選出されたコンクラーヴェの後、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレは、この城に逃亡したと言われる。
実際は逃亡と言うより、ミラノとナポリの対立に乗じてローマの玄関口であるオスティアを押さえ、アレクサンデル6世の廃位を目論んでいた。

16世紀、教皇ユリウス2世は城西側の一部を改築し、教皇の住居を設けた。
バルダッサーレ・ペルッツィ(Baldassarre Peruzzi)がヘラクレスの神話を鮮やかなフレスコ画で描き、記念碑的な階段を装飾した。城はやや宮殿的になり、戦略的・軍事的価値は、部分的に低下した。



1556年、スペイン軍の包囲を受け、
1557年、テヴェレ河の洪水とその影響による湿地の増加、マラリアの発生、
また河の流れの変化、
により、城の周辺は荒れ、街は衰退する。
教皇庁の税関は、当初はトレ・ボアッチャーナに、その後すぐにトレ・サン・ミケーレに移された。

19世紀、この城は監獄として使われ、主に死刑囚が収容された。

やがて、教皇ピウス7世(1800~1823年)とピウス9世(1846~1878年)は、オスティア・アンティカの発掘調査を始め、この城を調査基地として利用した。
囚人たちは、発掘の労働力として使役された。



現在、城塞はオスティア考古学遺産監督局(uffici della Soprintendenza ai Beni Archeologici di Ostia)のオフィスとして利用されているが、一部が一般公開されている。

なのに!
2024年11月、修復が始まってしまい、閉館している…







聖アウレア教会(Cattedrale di Sant'Aurea)

ユリウス2世の城塞の広場(Piazza della Rocca)にある教会。
最初の建築がいつなのか、はっきりわかっていない古い教会。発掘された碑文から、387年には存在していたことが確認されている。

700年頃、教皇セルギウス1世により改修され、
800年頃、教皇レオ3世によっても改修された。

1479年、フランス人枢機卿ギョーム・デストゥートヴィル(Guillaume d'Estouteville)により再建され、後のローマ教皇ユリウス2世となるジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿によって完成された。建築家はユリウス2世の城塞と同じバッチョ・ポンテッリ(Baccio Pontelli)。
ファサード上部に枢機卿デッラ・ローヴェレの紋章、バラ窓の下部に枢機卿デストゥトヴィルの紋章がある。

後陣にある聖アウレアの殉教の絵は、17世紀にアンドレア・サッキによって描かれた。

オスティア、聖アウレア教会 オスティア、聖アウレア教会






トレ・サン・ミケーレ(Tor San Michele)

オスティア、トレ・サン・ミケーレ

1500年半ばに、ミケランジェロ・ブォナロッティの設計によって建てられた、典型的な要塞建築。
(ミケランジェロ作である確証はない。が、定説になっている。)

ミケランジェロの死後、ジョヴァンニ・リッピによって完成され、1568年に教皇ピウス5世によって落成式が行われた。


ピウス4世とピウス5世の教皇時代(1559〜1572)に実施された、ローマの海岸の防衛計画の一部。
監視塔としてだけでなく、洪水により廃用となったユリウス2世の城に代わる戦略的・軍事的建造物として機能することを期待された。
河から約100メートル、海から約2キロの距離にあるが、もともとは海岸線から50メートルの距離にあった。

八角形で、高さは約18メートル。3階建て。
1階には8つの独立した部屋があり、もともとは砲弾や弾薬の倉庫として使用されていた。後には監獄や仮住まいとしても使用された。
2階も8つの部屋に分かれており、城主や従者の住居として使用されていた。
最上階には武器庫があり、見張り台もあった。
そして塔の中央には、直径約5.6メートルの円筒形の空間があった。

武器庫の床面は中央に向かって傾斜しており、投下された火薬や爆弾を、中央の空間から水で満たされた地下の井戸に落とし込む役割を果たしていた。
(おもしろいアイディア!でもそんな上手くいくのか!?)

この中央の空間には、雨水を集めるための配管システムもあり、集めた水は地下の貯水槽に貯められるようになっていた。

塔への入り口は地面から約4メートルの高さにあり、かつては吊り橋だったが、現在は固定橋になっている。
扉の上には、建設完了の年と建設理由を記した銘板が置かれており、教皇ピオ5世の紋章が刻まれている。


第二次世界大戦後に使われなくなるまで、最初は税関や防衛・見張り所として、次に灯台として、そして最後にはオスティア水上機基地の無線標識として使われた。

1994年、ローマの文化遺産および建築遺産の監視機関によって、「重要な国家財産」として保護されることとなる。

2021年、塔は一般公開される。が、開館日時は未定。






トレ・ボアッチャーナ(Tor Boacciana)

Wikipedia、Author=MM

塔の基礎となる部分は、おそらく2世紀前後の帝政ローマ、トラヤヌス帝時代のもの。レンガに刻印があり判明している。灯台または監視塔として使われていた。

上部の建築は12世紀頃のもの。塔周辺の領主であったボヴァッツァーニ家(Bovazzani)によって建てられた。現在残っている塔の名称は、この一家の名前に由来している。

1406年、教皇インノケンティウス7世の命により部分的に修復される。この頃、塔は廃墟寸前だった。
1420年、教皇マルティヌス5世の命により再び修復される。

1562年、教皇ピウス4世の下で、洪水によるテヴェレ河の変形で利用しづらくなったユリウス2世の城に代わって、教皇庁の税関として使用される。

1568年、海岸線の拡張に伴い、税関は海により近いトレ・サン・ミケーレに移転する。

数世紀の間塔は再び放置される。

19世紀初頭、倉庫として利用され、その後アルドブランディーニ家(Aldobrandini)の手に渡る。
アルドブランディーニはタンクレディ・キアラルーチェ(Tancredi Chiaraluce)に塔を貸出した。キアラルーチェは、テヴェレ河の渡し船の拠点として、塔を利用した。

現在、塔は史跡として保存されてはいるが、近隣に多数のローマ時代の遺跡が点在しているので、ほとんど注目されていない。






オスティア・アンティカ(Ostia Antica)

ローマ帝政時代に最も繁栄したオスティアの、広大な遺跡群。1日では周りきれない程の規模。
神殿、劇場、広場、食堂、公衆浴場、公衆トイレ、倉庫、など、かつての大都市の名残りを見ることができる。
保存状態も良く、ポンペイよりも広い。そしてポンペイほど有名じゃないので、人が少なく見やすい!


ドムス・フルミナタ(Domus Fulminata)。高級住宅跡。

オスティア・アンティカ、ドムス・フルミナタ

オスティアの繁栄を反映しており、主に商業活動や港湾の重要性に関連した上流階級の居住区として使われていたと考えられている。
内部には美しいモザイクや壁画があり、当時の裕福な市民の生活様式を知る手がかりとなっている。


オスティア・アンティカ、インスラ

インスラ(Insla)。
こちらは集合住宅。労働者階級や中流階級の住民が暮らしていた。
1階には商店や倉庫があり、上階が住居だった。


画像の説明

公衆トイレ。
下に水が流れていて、簡易ながらも水洗だった。すごい。


画像の説明

劇場!ひと目でわかる。
それだけあちこちにあって、目にするってことだよね、すごい。


画像の説明

神殿。


日陰が少なく、売店などもほとんどないので、飲み物携帯は必須。
気候のいい時はピクニック最高だと思います!

オスティア・アンティカ オスティア・アンティカ






オスティア桟橋(Pontile di Ostia)

オスティアのメインストリート、オスティエンセ通り(Via Ostiense)をまっすぐ下ったところにある、150メートルほどの桟橋。先端は円形の展望広場になっている。オスティアの海(ティレニア海)がぐるりと一望できる。
近くには観光案内所もある。

オスティア、桟橋

オスティア、海岸の遊歩道

海岸沿いには遊歩道があり、散歩やジョギング、サイクリングする人々が多い。
夏場はビーチ利用者も多く、賑わっている。










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