チェーザレ・ボルジアと、その周辺のさまざまを紹介するサイトです。

エルバ島

エルバ島 Isola d'Elba

[添付]

フェリーで、ピオンビーノ港からエルバ島の港ポルトフェッラーイオ港まで、約1時間。
ミラノ、フィレンツェ、ピサからの空路もある。


  • エルバ島の観光案内サイト
    INFO ELBA
    宿泊から食事、観光、買い物、アクティビティなどひと通り紹介されています。


青銅器時代末〜鉄器時代初期に、リグーリアの人々(イタリア北西部の先住集団)によって開かれたのでは、と考えられている島。
ナポレオンが流された島として有名。
また、現在では、海辺はリゾート、山間部はトレッキングやサイクリング(MTBでのトレイル走行)などの楽しめる人気の観光地となっている。


島は7つの市(Comune)に区別されている。

エルバ島、コムーネ

・ポルトフェッラーイオ
 (Portoferraio)
・カンポ・ネッレルバ
 (Campo nell’Elba)
・カポリーヴェリ
 (Capoliveri)
・マルチャーナ
 (Marciana)
・マルチャーナ・マリーナ
 (Marciana Marina)
・ポルト・アッズッロ
 (Porto Azzurro)
・リオ
 (Rio)

ガイドなどでたまに8つの市と書かれているものがあるが、これは2018年以前のもの。
2018年、リオ・マリーナ(Rio Marina)とリオ・ネッレルバ(Rio nell’Elba)が合併し、リオ(Rio)となった。





エトルリア時代(古代イタリア中部で栄えた高度な都市文明)から鉄の産地として名高く、いくつもの要塞化された集落が築かれた。
(モンテ・カステッロ、
カスティリオーネ・ディ・サン・マルティーノ、
カスティリオーネ・ディ・カンポ、
モンテ・ファッブレッロ、
モンテ・プッチョ、
など。)

ローマ帝国の支配下で、現在ピオンビーノへの航路のある港ポルトフェッラーイオ周辺に街が作られ、海浜にいくつかの別荘も建てられた。

ローマ帝国の崩壊後、東ゴート族の領土となり、その後ランゴバルド族の支配下に入る。
9世紀から11世紀初頭にかけて、数回にわたるイスラムによる攻撃を受けた。


11世紀以降、ピサ共和国の領土の一部となる。
サン・ジョヴァンニの塔(Torre di San Giovanni)のような見張り塔、
モンテマルサーレの要塞化集落(villaggio fortificato di Montemarsale)、
マルチャーナの要塞(Fortezza di Marciana)、
そして海賊の襲撃から避難するために到達困難な高地に築かれたヴォルテッライオの要塞(Fortezza del Volterraio)が建設された。
また、ピサ大聖堂工房(Opera della Primaziale Pisana)によって、グロッタレッレ(Grottarelle)やサン・ピエーロ・イン・カンポ(San Piero in Campo)の採石場が作られた。

この時期、島内の自治が発展し、カポリーヴェリ、リオ、グラッセーラ、ラトラーノ、フェッライア、モンテマルサーレ、カンポ、ポッジョ、マルチャーナ、ポモンテなどのコムーネが形成された。
人口が増したことにより、サン・ロレンツォ教区教会、サン・ジョヴァンニ教区教会、サン・ミケーレ教区教会、サン・ジョヴァンニ・ディ・フェッライア教区教会(これは現存していない)などの教会が作られた。


1399年、ピオンビーノやピアノーザ、モンテクリストの領主であったアッピアーニ家の支配下に入る。
この時期、ジェノヴァとの対立やサラセン海賊による侵攻があり、アッピアーニ家は多くの要塞を修復・強化し、リオ近郊にジョーゴ要塞を建築した。


1501年6月5日、チェーザレはエルバ島とピアノーザ島(エルバ島の20キロほど南西にある小島)を占拠する。そしてピオンビーノを攻囲した。
3ヶ月後、ピオンビーノは陥落する。

1502年2月21日、チェーザレは教皇アレクサンデル6世とともにピオンビーノ視察へ。この時2人はエルバ島も訪れている。

1503年、ボルジア没落後、ナポリ王国(スペイン)との同盟を背景に、アッピアーニ家が再び支配を取り戻す。同家は16世紀半ばまで島を統治した。

1500年代、数度にわたって、オスマン帝国の提督バルバロッサ・ハイレッディン(Khayr al-Dīn Barbarossa)により攻撃される。
これはオスマン帝国とスペイン(神聖ローマ帝国=ハプスブルク家=カール5世)との戦争の中での破壊行動だった
アッピアーノ家にこれを抑える軍事力はなく、フィレンツェのコジモ・デ・メディチ(Cosimo I de’ Medici)により援軍が送られた。

防衛支援という形でエルバ島(とピオンビーノ)支配に介入したコジモは、カール5世の信頼と戦略判断によって、エルバ島の一部支配を正式に与えられることになった。

1548年、コジモ・デ・メディチは建築家ジョヴァンニ・カメリーニ(Giovanni Camerini)に、要塞都市の設計を依頼する。
この都市はトスカーナ沿岸防衛のための軍事拠点であると同時に、サント・ステファノ騎士団の本拠地として構想されたものだった。
港全体を見下ろし支配する最も高い丘はファルコーネと呼ばれた。もう一つのやや低い丘は、その地形に応じた要塞の形からステッラと名付けられ、その防備はあたかも光線のように四方に広がっている。同様に、港の入口の上には一つの堡塁が設けられ、その形からリンゲッラと呼ばれた。

このようにして島は、
フィレンツェ(ポルトフェッラーイオ地区)
スペインのプレシディオ国家(ポルト・ロンゴーネ、現在のポルト・アッズーロ地区)
ピオンビーノ(島の残り全域)
3つの区域に分割された。
1603年にはスペインがポルト・アッズーロにフォルテ・ベネヴェンターノおよびフォルテ・フォカルドという軍事拠点の建設を開始した。


1802年、フランス帝国に編入される。
1814年5月4日、ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)はこの島へ流刑され、約10か月間滞在した。
彼が滞在した2つの美しい別荘が残っている。
ポルトフェッラーイオの高所に位置するヴィッラ・デイ・ムリーニと、
夏の別邸ヴィッラ・サン・マルティーノである。流刑と言うわりに優雅。


1882年、地質学者ベルナルディーノ・ロッティによって、島で最初の地質図が作成される。
1892年から1900年にかけては、植物学者ピオ・ボルゾン、ステファノ・ソミエ、ジャコモ・ドーリアによって、島の西部(モンテ・カパンネ)が調査され、
1904年から1914年にかけては、地質学者ピエロ・アロイージによって調査が行われた。

1900年12月13日、製鉄会社イルヴァがポルトフェッラーイオに高炉の建設を開始した。
1907年、島西部で花崗閃緑岩の採掘が再開され、旧採石場も再開された。

1947年以降、国際的なリゾート観光地として知られるようになっている。



ヴォルテッライオ要塞(Fortezza del Volterraio)

エルバ島のポルトフェッラーイオ市(Portferraio)に位置する軍事建築。
島で最も古い要塞で、土台はエトルリア人によって築かれたとも言われている。

標高394メートルの険しい高地に建っており、島のほとんど全ての場所から見ることができる。ポルトフェッラーイオ港に到着するフェリーからも見える。逆に言うと、ここからエルバ島の全てを見渡すことができる
三方を急峻な壁と断崖に囲まれた砦は、エルバ島のほぼ全域を監視し、防衛することが可能であった。

1281年、ピサによって拡張され、引き続き防衛目的に使用された。
この時建築を監督したヴォルテッラ出身の建築家、ヴァンニ・ゲラルド・ラウ(Vanni Gherardo Rau)に結び付けられ、要塞はヴォルテッライオと呼ばれるようになった、という説がある。(他にも、エトルリア語の「vultur(ハゲタカ)」に由来するなど、いくつかの説がある。)

1440年頃、ピオンビーノ領主ヤコポ3世アッピアーニ(Jacopo III Appiani)の計画したエルバ島防衛強化の中で、さらに拡張・強化される。広範囲にわたる監視が可能となり、エルバ全土の防衛を担う見張り要塞となった。

1502年、チェーザレとアレクサンデル6世がエルバ島を訪れた時、間違いなくここを視察したと思われる。

上部から見ると、要塞は六角形になっている。最も古い部分は外郭の城壁と方形の塔で、見張りに最も適した位置に築かれている。
灯や煙を利用した信号で、周辺の他の塔、さらには一部はトスカーナ沿岸とも通信することが可能だった。すごい。

塔の入口は木の跳ね橋で歩廊とつながっている。
入口側に面した角では、歩廊が小さな広場へと広がっており、そこはおそらく最も脆弱な地点であり、大砲が集中配置される必要のあった場所であった。現在は展望テラスとなっている。

南側には非常に高い欄干を持つラヴェリン(突出防塁)があり、多数の矢狭間が開けられていて、入口のさらなる防御として機能していた。


強固な要塞は、イスラムや海賊たちによって1度も征服されることがなかった。
1544年および1554年の包囲の際には、多くのエルバ島民がここに逃げ込み、避難所としても利用された。

1798年、ポルトフェッラーイオに駐留していたフランス軍によって要塞はさらに強化された。が、市民の蜂起によってその施設は半ば破壊されてしまう。
それ以来、要塞は放棄され廃墟のようになってしまった。

1999年にトスカーナ群島国立公園(Parco Nazionale dell’Arcipelago Toscano)によって購入され修復が開始された。
2016年1月、計画された修復工事の第1段階が完了し、要塞の安全確保とともに、元の入口、周囲の歩廊、跳ね橋付きの塔および礼拝堂の復元を含むいくつかの建築要素が回復された。

2017年7月18日、第2段階工事完了。古いアクセス路は改良され、木製の階段や手すりが設置されアクセスが容易になった。さらに考古学監督機関の協力により元来の舗装も復元された。




ジョーヴェ要塞(Fortezza del Giove)

エルバ島リオ市(Rio)に位置する15世紀の軍事建築。
1459年、ヤコポ3世アッピアーニ(Jacopo III Appiano)によって建設された。
ジョーヴェ山(Mount Giove)の頂上に位置し、麓のリオ・マリーナ(Rio Marina)鉱山を見下ろしている。
おそらく、ピオンビーノ間の海上交通と、東部の鉱山を監視する目的で、作られた。

方形の塔を備え、胸壁のある城壁と堀(水のない乾濠)に囲まれていた。
塔は傾斜した壁に囲まれた基礎の上に建ち、ヴォールト天井を持つ3階建てであった。
入口は南東側にあり、アッピアーニ家の大理石の紋章(大きさ2×1メートル、厚さ30センチ)が掲げられていた。門を備えた小塔によって守られ、外側には跳ね橋が設けられていた。
テラスは胸壁に囲まれており、主に信号用の火を灯すために使用された。


1534年と1553年のイスラムによる侵攻の際、要塞は攻撃されて大きな被害を受けた。近隣のグラッセーラ村は破壊され、住民の一部は奴隷として連行された。

17世紀、スペイン支配下時代においても多数の包囲戦を受け、それが荒廃へとつながっていく。
1967年、入口の門を飾っていたアッピアーニの紋章が、盗まれてしまう。


現在、この建物全体は劣化が深刻で、非常に不安定な状態にある。
大規模な崩落によって主塔の1階部分は完全に埋まり、さらに崩落した瓦礫が外部構造全体の足元にも散乱している…。




アッピアーニの塔(Torre degli Appiani)

同名の塔が、エルバ島に2基ある。
(エルバ島以外にも、ピオンビーノの南、カスティリオーネ・デッラ・ペスカーイア(Castiglione della Pescaia)の島にも1基ある。)

リオ市のアッピアーニ塔

リオ・マリーナ(Rio Marina)の街に建つのでリオ・マリーナ塔(Torre di Rio Marina)とも。
1534年、ヤコポ5世アッピアーノ(Jacopo V Appiano)によって建てられた塔。港の入口に灯台のように建っており、海賊の襲撃に備えた監視・防衛塔だった。
リオは鉄鉱脈のある街であったので、鉄倉庫を守るためでもあった。
高さ約30メートルで、六角形。

軍事施設としての役割を終えた後は、長年放置され、その後倉庫として使用されていた。

1882年、リオ市の成立を記念して修復され、時計はロックマン(Locman 地元の時計製造会社)によって上部に小さな方形の時計塔が加えられた。この時から塔は時計塔とも呼ばれるようになった。

現在内部は小さな博物館になっている。
テラスに上ってリオ・マリーナの街と港を見渡すこともできる。


マルチャーナ・マリーナ市のアッピアーニ塔




サン・ジョヴァンニの塔(Torre di San Giovanni)




ピサ要塞(Fortezza Pisana)

12世紀、ピサ共和国(Repubblica Pisana)によって建設された要塞。
当時非常に頻繁だった海賊やサラセン人の襲撃の際の、重要な防衛拠点だった。戦闘になった場合の避難場所としても利用されていた。

現在も見られる四角形の平面構造は、建設当時のもの。
15世紀、矢じり状の石積みをもつ4つの稜堡が追加された。

防御壁に囲まれた中庭の内部空間には舞台が設けられており、夏の期間には催しやイベントが開催されている。

南側の稜堡には、ドーリア(Dolia)と呼ばれるワインの発酵・保存に用いられた、大型の陶製容器が設えてある。1970年代にプロッキオ(Procchio)のモンテ・カステッロのエトルリア要塞の発掘で発見されたもので、かつての島の生産活動がうかがえる。

南西の稜堡と北西の稜堡をつなぐ通路は要塞の最も高い地点で、島でも最も美しい景観のひとつが見られる。
マルチャーナ・マリーナ(Marciana Marina)から、エンフォラ(Enfola)とポルトフェッラーイオ(Portoferraio)へ、
さらに奥にはピオンビーノ(Piombino)と緑豊かなモンテ・カパンネ(Monte Capanne)を望む、唯一無二の風景が広がっている。




聖セルボネのロミトリオ(Romitorio di San Cerbone)

ロミトリオとは、隠者・世俗から離れて暮らす修道者の住まい・庵のこと。
修道院は共同生活だが、ロミトリオはほぼ一人で静かに暮らすための場所。隠者のための小さな修行の住まい。




カポリーヴェリ(Capoliveri)

エルバ島にある7つのコムーネのひとつ。エトルリア時代に、東岸を見下ろす海抜170メートルの場所に築かれた、要塞の街だった。

現在は旧市街の路地や広場が観光資源となっており、街全体が観光地となっている。
また、周囲の自然、ビーチ、鉱山跡、トレッキングルートなども充実している。エルバ島で最も訪問者の多い村のひとつ。


カポリーヴェリ・アルフェオ・リッチ鉱物学博物館(Museo mineralogico Alfeo Ricci di Capoliveri)




マルチャーナ市立考古学博物館(Museo civico archeologico di Marciana)




リオ・ネル・エルバ鉱山地区市立考古学博物館(Museo civico archeologico del Distretto minerario di Rio nell’Elba)




サン・ピエロ・イン・カンポ ルイージ・チェッレリ鉱物学博物館(Museo Mineralogico Luigi Celleri di San Piero in Campo)




リオ・マリーナ鉱山博物館(Museo minerario di Rio Marina)




ポルトフェッラーイオのメディチ家要塞群(le fortificazioni medicee di Portoferraio)

古くから戦略的・商業的に重要な港であったポルトフェッラーイオに、1548年からメディチ家によって建設が開始された壮大な要塞群。

コジモ1世・デ・メディチはジョヴァンニ・カメリーニ(Giovanni Camerini)とジョヴァンバッティスタ・ベルッツィ(Giovanbattista Belluzzi)に壮大な防衛システムの建設を依頼した。
コスモーポリ(Cosmopoli)が創設され、
岬の高地にはファルコーネ要塞(Forte Falcone)と
ステッラ要塞(Forte Stella)が築かれ、
港湾防衛のためにリングエッラ要塞(Forte della Linguella)が建設された。
これらすべては稜堡式の城壁(Mura Medicee)によって結ばれていた。
この一連の防衛システムは、陸側に向かって段状に配置された稜堡によってさらに強化された。

街の人口増加を促すために、定住する者には優遇措置が与えられた。
コスモーポリという名はまもなく廃れ、古代ローマの名称および鉄の輸送の伝統に由来するポルトフェッラーイオ(Portoferraio)に変化した。
街は重要性を増し、都市へと昇格し、1637年から1751年にかけては大公の艦隊がここに置かれていた。

現在、ポルトフェッラーイオは、地中海におけるメディチ家の前哨地から、多くの観光客を受け入れる主要港へと変貌している。


メディチ要塞(Fortezze Medicee di Portoferraio)




メディチ壁(Mura medicee)




ファルコーネ要塞(Forte Falcone)

入口は2か所ある。海沿い(lungomare)または広場(piazza)から来る場合、稜堡(bastioni)への入口はグエッラッツィ通り(via Guerrazzi)の突き当たりにある。この通りは一般に「ポルタ・ア・テッラ(Porta a Terra)」の道と呼ばれており、これはメディチ家の都市の第二の入口へと通じているためである。一方、すでに街の岬(promontorio)へ上っている者にとっては、同名の通りの終点にあるフォルテ・ファルコーネ(Forte Falcone)からの入口の方が利用しやすい。

フォルテ・ファルコーネ(Forte Falcone)は、ポルトフェッラーイオ(Portoferraio)の街を囲む壮大なメディチ家の要塞群の中で中心的な構造物である。海に向かって段状に低くなっていく異なる高さに配置された稜堡から成るこの軍事要塞は、フォルテ・ステッラ(Forte Stella)およびリングエッラ(Linguella)とともに、街の主要な防衛拠点の一つであった。これらは次第に強化され、軍の居住地であると同時に重要な観測・監視の拠点でもあった。

「フロンテ・ダッタッコ(Fronte d’Attacco)」の上を歩く散策路は印象的である。これは、コジモの都市である古都コスモーポリ(Cosmopoli)の西側を閉じる、壮麗で威圧的な建築複合体である。フォルテ・ファルコーネのテラスからは、街と海岸を360度見渡すことができ、その眺望は見逃せない。




リングエッラ市立考古学博物館(Museo Civico Archeologico della Linguella)
ステッラ要塞(Forte Stella)

民間の居住のために用いられたことはなく、倉庫や貯蔵施設として使用されていた。

現在、市立考古学博物館(Museo Civico Archeologico)を収めているこれらの空間は、16世紀初頭には塩の倉庫であり、その後はマグロ漁場(tonnara)の倉庫およびマグロの保存場所として用いられ、さらにロレーナ家時代には監獄へと改装された。市立博物館は1981年に市議会によって設立され、1985年にエトルリア鉱業(Etruria Mineraria)に関する大規模展覧会の機会に開館し、1988年に正式に一般公開された。

博物館は2つの展示室から成り、1つは地上階、もう1つは1階にある。展示されている考古学資料は、ピサ大学(Università di Pisa)考古学科学学科の考古学者たちによって、オルランダ・パンクラッツィ(Orlanda Pancrazzi)教授の指導のもと、歴史的・地理的な順序に従って整理されている。ここで扱われる年代の幅は、紀元前8世紀末〜紀元前7世紀初頭から紀元後5世紀にまで及ぶ。

エルバ島およびトスカーナ群島(Arcipelago)の資料の豊富なコレクションは展示ケースに収められ、各ケースには解説パネルが添えられており、個々の展示物の主要な特徴、年代、歴史的意義について説明しながら鑑賞へと導いている。他の展示ケースでは、エルバ島の経済(鉄鉱石)に関するテーマや、ワインの海上交易、さらには船舶の各部構造の説明に関する内容が扱われている。多数のアンフォラとその内容物は、食料品の交易を再構成する手がかりを与えると同時に、それらの器物自体の理解を深める助けとなっている。

珍しく興味深い展示品として、モンテクリスト(Montecristo)沖の難破船から引き揚げられた鉄製の錨がある。この錨には海中で形成された付着物によって、多数の黒色塗りの小杯や船上用器具の壺が固定されている。もう一つの重要な展示品は、紀元後2世紀の花崗岩製のアッティアーノの祭壇(Ara di Attiano)であり、セッケート(Seccheto)の花崗岩採石場付近で発見されたものである。これはアッティアーノ(Attiano)によってヘラクレスに捧げられたもので、彼はおそらく皇帝ハドリアヌスの近衛長官であったと考えられる。正面には次のような奉納碑文が刻まれている:
「P. ACILIUS ATTIANUS PRAEF. PR. HERCULI SANCTO D.D. 」

レリーフで彫られた棍棒(ヘラクレスの象徴)がこの奉納を補完しており、また背面には同じくレリーフで槍と盾が装飾されている。いくつかの展示ケースは、メリーニ(Mellini)およびフォレージ(Foresi)の市立コレクションの中でも特に価値の高い資料の展示に充てられている。




ステッラ要塞灯台(Faro di Forte Stella)




イングレーゼ要塞(Forte Inglese)

18世紀、トスカーナ大公コジモ3世・デ・メディチによって建てられた要塞。
エルバ島流刑中のナポレオン・ボナパルトによって拡張され、さまざまな用途で使用されてきた。
開館時間:
3月1日〜6月14日、9月16日〜10月31日
毎週末16:00〜18:00

6月15日〜9月15日
毎日18:00〜20:00

11月1日〜3月1日
不定期







a:25 t:2 y:2

powered by Quick Homepage Maker 4.74
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional