エルバ島
エルバ島 Isola d'Elba

フェリーで、ピオンビーノ港からエルバ島の港ポルトフェッラーイオ港まで、約1時間。高速船だと30分ちょっと。
途中、北西の街カーヴォに立ち寄る便もある。
主なフェリー会社は3つ。
・Blu Navy
・Toremar
・Moby Lines
- 予約サイト
3社から、都合の良い便を選べるので便利。しかも日本語でいける。
ミラノ、フィレンツェ、ピサからの空路もある。
- エルバ島の観光案内サイト
INFO ELBA
宿泊から食事、観光、買い物、アクティビティなどひと通り紹介されています。
青銅器時代末〜鉄器時代初期に、リグーリアの人々(イタリア北西部の先住集団)によって開かれたのでは、と考えられている島。
ナポレオンが流された島として有名。
また、現在では、海辺はリゾート、山間部はトレッキングやサイクリング(MTBでのトレイル走行)などの楽しめる人気の観光地となっている。
島は7つの市(Comune)に区別されている。

・ポルトフェッラーイオ
(Portoferraio)
・カンポ・ネッレルバ
(Campo nell’Elba)
・カポリーヴェリ
(Capoliveri)
・マルチャーナ
(Marciana)
・マルチャーナ・マリーナ
(Marciana Marina)
・ポルト・アッズッロ
(Porto Azzurro)
・リオ
(Rio)
ガイドなどでたまに8つの市と書かれているものがあるが、これは2018年以前のもの。
2018年、リオ・マリーナ(Rio Marina)とリオ・ネッレルバ(Rio nell’Elba)が合併し、リオ(Rio)となった。
エトルリア時代(古代イタリア中部で栄えた高度な都市文明)から鉄の産地として名高く、いくつもの要塞化された集落が築かれた。
(モンテ・カステッロ、
カスティリオーネ・ディ・サン・マルティーノ、
カスティリオーネ・ディ・カンポ、
モンテ・ファッブレッロ、
モンテ・プッチョ、
など。)
ローマ帝国の支配下で、現在ピオンビーノへの航路のある港ポルトフェッラーイオ周辺に街が作られ、海浜にいくつかの別荘も建てられた。
ローマ帝国の崩壊後、東ゴート族の領土となり、その後ランゴバルド族の支配下に入る。
9世紀から11世紀初頭にかけて、数回にわたるイスラムによる攻撃を受けた。
エルバ島は、
コルシカ島とイタリア半島の間に位置し、リグリア海とティレニア海間の航行を支配する上で重要な位置を占めており、
また鉱物資源(鉄)を有していたため、
絶えず攻撃にさらされるようになり、要塞化されていく。
11世紀以降、ピサ共和国の領土の一部となる。
サン・ジョヴァンニの塔(Torre di San Giovanni)のような見張り塔、
モンテマルサーレの要塞化集落(villaggio fortificato di Montemarsale)(現在はほぼ廃墟のようになっている)、
マルチャーナの要塞(Fortezza di Marciana)、
そして海賊の襲撃から避難するために到達困難な高地に築かれたヴォルテッライオの要塞(Fortezza del Volterraio)が建設された。
また、ピサ大聖堂工房(Opera della Primaziale Pisana)によって、グロッタレッレ(Grottarelle)やサン・ピエーロ・イン・カンポ(San Piero in Campo)の採石場が作られた。
この時期、島内の自治が発展し、カポリーヴェリ、リオ、グラッセーラ、ラトラーノ、フェッライア、モンテマルサーレ、カンポ、ポッジョ、マルチャーナ、ポモンテなどのコムーネが形成された。
人口が増したことにより、サン・ロレンツォ教区教会、サン・ジョヴァンニ教区教会、サン・ミケーレ教区教会、サン・ジョヴァンニ・ディ・フェッライア教区教会(これは現存していない)などの教会が作られた。
1399年、ピオンビーノやピアノーザ、モンテクリストの領主であったアッピアーノ家(アッピアーニ)の支配下に入る。
この時期、ジェノヴァとの対立やサラセン海賊による侵攻があり、アッピアーノ家は多くの要塞を修復・強化し、リオ近郊にジョーゴ要塞を建築した。
1501年6月5日、チェーザレはエルバ島とピアノーザ島(エルバ島の20キロほど南西にある小島)を占拠する。そしてピオンビーノを攻囲した。
3ヶ月後、ピオンビーノは陥落する。
1502年2月21日、チェーザレは教皇アレクサンデル6世とともにピオンビーノ視察へ。この時2人はエルバ島も訪れている。
1503年、ボルジア没落後、ナポリ王国(スペイン)との同盟を背景に、アッピアーノ家が再び支配を取り戻す。同家は16世紀半ばまで島を統治した。
1500年代、数度にわたって、オスマン帝国の提督バルバロッサ・ハイレッディン(Khayr al-Dīn Barbarossa)により攻撃される。
これはオスマン帝国とスペイン(神聖ローマ帝国=ハプスブルク家=カール5世)との戦争の中での破壊行動だった
アッピアーノ家にこれを抑える軍事力はなく、フィレンツェのコジモ・デ・メディチ(Cosimo I de’ Medici)により援軍が送られた。
防衛支援という形でエルバ島(とピオンビーノ)支配に介入したコジモは、カール5世の信頼と戦略判断によって、エルバ島の一部支配を正式に与えられることになった。
1548年、コジモ・デ・メディチは建築家ジョヴァンニ・カメリーニ(Giovanni Camerini)に、要塞都市の設計を依頼する。
この都市はトスカーナ沿岸防衛のための軍事拠点であると同時に、サント・ステファノ騎士団の本拠地として構想されたものだった。
港全体を見下ろし支配する最も高い丘はファルコーネと呼ばれた。もう一つのやや低い丘は、その地形に応じた要塞の形からステッラと名付けられ、その防備はあたかも光線のように四方に広がっている。同様に、港の入口の上には一つの堡塁が設けられ、その形からリンゲッラと呼ばれた。
このようにして島は、
フィレンツェ(ポルトフェッラーイオ地区)
スペインのプレシディオ国家(ポルト・ロンゴーネ、現在のポルト・アッズーロ地区)
ピオンビーノ(島の残り全域)
3つの区域に分割された。
1603年にはスペインがポルト・アッズーロにフォルテ・ベネヴェンターノおよびフォルテ・フォカルドという軍事拠点の建設を開始した。
1802年、フランス帝国に編入される。
1814年5月4日、ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)はこの島へ流刑され、約10か月間滞在した。
彼が滞在した2つの美しい別荘が残っている。
ポルトフェッラーイオの高所に位置するヴィッラ・デイ・ムリーニと、
夏の別邸ヴィッラ・サン・マルティーノである。流刑と言うわりに優雅。
1882年、地質学者ベルナルディーノ・ロッティによって、島で最初の地質図が作成される。
1892年から1900年にかけては、植物学者ピオ・ボルゾン、ステファノ・ソミエ、ジャコモ・ドーリアによって、島の西部(モンテ・カパンネ)が調査され、
1904年から1914年にかけては、地質学者ピエロ・アロイージによって調査が行われた。
1900年12月13日、製鉄会社イルヴァがポルトフェッラーイオに高炉の建設を開始した。
1907年、島西部で花崗閃緑岩の採掘が再開され、旧採石場も再開された。
1947年以降、国際的なリゾート観光地として知られるようになっている。
- エルバ島 Isola d'Elba
- ヴォルテッライオ要塞(Fortezza del Volterraio)
- ジョーヴェ要塞(Fortezza del Giove)
- ピサ要塞(Fortezza Pisana)
- サン・ジョヴァンニの塔(Torre di San Giovanni)
- ピエトラ・ムラタ(Pietra Murata)
- サン・ジョヴァンニ教区教会(Pieve di San Giovanni)
- 聖チェルボーネのロミトリオ(Romitorio di San Cerbone)
- サン・ミケーレ教区教会(Pieve di San Michele)
- サン・ロレンツォ教区教会(Pieve di San Lorenzo)
- アッピアーニの塔(Torre degli Appiani)
- ポルトフェッラーイオのメディチ家要塞群(le fortificazioni medicee di Portoferraio)
- イングレーゼ要塞(Forte Inglese)
- カポリーヴェリ(Capoliveri)
- アルフェオ・リッチ鉱物学博物館(Museo mineralogico Alfeo Ricci di Capoliveri)
- マルチャーナ市立考古学博物館(Museo civico archeologico di Marciana)
- リオ・ネル・エルバ鉱山地区市立考古学博物館(Museo civico archeologico del Distretto minerario di Rio nell’Elba)
- サン・ピエロ・イン・カンポ ルイージ・チェッレリ鉱物学博物館(Museo Mineralogico Luigi Celleri di San Piero in Campo)
- リオ・マリーナ鉱山博物館(Museo minerario di Rio Marina)
- リングエッラ市立考古学博物館(Museo Civico Archeologico della Linguella)ステッラ要塞(Forte Stella)
ヴォルテッライオ要塞(Fortezza del Volterraio)
エルバ島のポルトフェッラーイオ市(Portferraio)に位置する軍事建築。
島で最も古い要塞で、土台はエトルリア人によって築かれたとも言われている。

標高394メートルの険しい高地に建っており、島のほとんど全ての場所から見ることができる。ポルトフェッラーイオ港に到着するフェリーからも見える。逆に言うと、ここからエルバ島の全てを見渡すことができる。
三方を急峻な壁と断崖に囲まれた砦は、エルバ島のほぼ全域を監視し、防衛することが可能であった。
1281年、ピサによって拡張され、引き続き防衛目的に使用された。
この時建築を監督したヴォルテッラ出身の建築家、ヴァンニ・ゲラルド・ラウ(Vanni Gherardo Rau)に結び付けられ、要塞はヴォルテッライオと呼ばれるようになった、という説がある。(他にも、エトルリア語の「vultur(ハゲタカ)」に由来するなど、いくつかの説がある。)

1440年頃、ピオンビーノ領主ヤコポ3世アッピアーノ(Jacopo III Appiano)の計画したエルバ島防衛強化の中で、さらに拡張・強化される。広範囲にわたる監視が可能となり、エルバ全土の防衛を担う見張り要塞となった。
1502年、チェーザレがアレクサンデル6世とともにエルバ島を訪れた時、ここを視察したのでは?と思われる。
上部から見ると、要塞は楕円ぽい六角形になっている。
↓ 裏側(北)から。
海はポルトフェッラーイオ港。奥に見える山はマルチャーナにある、エルバ島で最も高いカパンネ山(Monte Capanne)。この山はピオンビーノ港からも見える。

要塞の最も古い部分は方形の塔と外郭の城壁(下図①と②)で、見張りに最も適した位置に築かれている。
灯や煙を利用した信号で、周辺の他の塔、さらには一部はトスカーナ沿岸とも通信することが可能だった。すごい。
↓ 入口側(南西)から見た復元図。

① 方形の塔
② 城壁
③ 貯水槽
④ 城壁上の巡回路(歩廊)へ上がる階段
⑤ 火薬庫
⑥ 城壁上の巡回路(当初は木造、その後石造)
⑦ 砲兵用の平坦地(砲台広場)
⑧ 門を防御するためのマシクーリ(石落とし)
⑨ 17世紀に建てられた礼拝堂
⑩ 兵士宿舎
⑪ リヴェッリーノ(堡塁)
⑫ 入口(17世紀の跳ね橋と石造階段)
← ⑫跳ね橋と階段。奥に見えるのは⑪リヴェッリーノ。
→ 下から見上げた⑫跳ね橋と⑧マシクーリ。


入口側に面した角では、歩廊が小さな広場⑦へつながっており、そこはおそらく要塞で最も脆弱な地点で、大砲が集中配置される必要のある場所だった。現在は展望テラスとなっている。
→ 写真は⑦の下(城壁外)にあるベンチ。右手が⑦の壁。

← 入口から見た⑨と⑦。
南側には非常に高い欄干を持つリヴェッリーノ(突出防塁)(⑪)があり、多数の矢狭間が開けられていて、入口のさらなる防御として機能していた。
塔の入口は木の跳ね橋で歩廊とつながっていた。
エルバ島は何度もイスラムや海賊に襲撃されているが、強固な要塞は1度も征服されることがなかった。
1544年および1554年の包囲の際には、多くのエルバ島民がここに逃げ込み、避難所としても利用された。
1798年、ポルトフェッラーイオに駐留していたフランス軍によって要塞はさらに強化された。が、市民の蜂起によってその施設はほとんど破壊されてしまう。
それ以来、要塞は放棄され廃墟のようになってしまった。
1999年にトスカーナ群島国立公園(Parco Nazionale dell’Arcipelago Toscano)によって購入され修復が開始された。
2016年1月、計画された修復工事の第1段階が完了し、要塞の安全確保とともに、元の入口、周囲の歩廊、跳ね橋付きの塔および礼拝堂の復元を含むいくつかの建築要素が回復された。
2017年7月18日、第2段階工事完了。古いアクセス路は改良され、木製の階段や手すりが設置されアクセスが容易になった。さらに考古学監督機関の協力により元来の舗装も復元された。
2026年現在、夏季は入城することができる。ガイドツアーもある。
岩山を登って行くので、ちょっとしたトレッキングになる。
ジョーヴェ要塞(Fortezza del Giove)
エルバ島リオ市(Rio)に位置する15世紀の軍事建築。
現在、劣化が深刻で、非常に不安定な状態にある。大きく残っているところ(↓ 下の写真)が城壁なのか塔なのか館部分なのかさえ、よくわからない。
大規模な崩落によって主塔の1階部分は完全に埋まり、さらに崩落した瓦礫が外部構造全体の足元にも散乱している…。

1459年、ヤコポ3世アッピアーニ(Jacopo III Appiano)によって建設された。
ヤコポ3世は、チェーザレに追放されるピオンビーノ領主ヤコポ4世・ダッピアーノの父。
ジョーヴェ山(Mount Giove)の頂上に位置し、麓のリオ・マリーナ(Rio Marina)鉱山を見下ろしている。
おそらく、ピオンビーノ間の海上交通と、東部の鉱山を監視する目的で、作られた。
↓ 上の写真の裏側に降りたところ。
一段低いところに通路があり、外側を壁が囲っている。


← その通路部分。
右側の壁が、1番上の写真の根元部分。

← 1番上の写真を、左手から見たところ。
この手前に山道がある。ので、道から見えるのはこの部分。
方形の塔を備え、胸壁のある城壁と堀(水のない乾濠)に囲まれていた。
↓ おそらく堀だったと思われる部分。

塔は傾斜した壁に囲まれた基礎の上に建ち、ヴォールト天井を持つ3階建てだった。
入口は南東側にあり、アッピアーニ家の大理石の紋章(大きさ2×1メートル、厚さ30センチ)が掲げられていた。門を備えた小塔によって守られ、外側には跳ね橋が設けられていた。
テラスは胸壁に囲まれており、主に信号用の火を灯すために使用された。
1502年、チェーザレがアレクサンデル6世とともにエルバ島を訪れた時、ここを視察したのでは?と思われる。
↓ 最も高いところ(1番上の写真の壁があるところ)から見下ろした景色。

1534年と1553年のイスラムによる侵攻の際、要塞は攻撃されて大きな被害を受けた。近隣のグラッセーラ村は破壊され、住民の一部は奴隷として連行された。
17世紀、スペイン支配下時代においても多数の包囲戦を受け、それが荒廃へとつながっていく。
1967年、入口の門を飾っていたアッピアーノの紋章が、盗まれてしまう。
以降、修復されることもなく、放棄されている…。残念。
ピサ要塞(Fortezza Pisana)
エルバ島のマルチャーナ市(Marciana)の最も高い地点、カパンネ山(Monte Capanne)の斜面、標高415メートルに位置する軍事建築。マルチャーナ要塞(Fortezza di Marciana)とも呼ばれている。
ほぼ正方形に中庭を囲み、頂点に矢尻形(菱形)の稜堡を持つ稜堡式城郭である。
※ 現地の解説が全て、北の方角が時計回りに90度ずれた状態で書かれている。

現地の解説。
この図だと、入口側(図の下側、階段部分)の右手にある稜堡が北にある。
(現地の解説は、この図だけでなく、全てがこの方向を北にしている。ので、この図がたまたま間違っていると言うことはない。)

Googleマップ。
この図だと、入口入って奥の右手にある稜堡が北にある。
つまり、現地の解説と、北が90度異なる。
なぜこのようなことになっているのかは、謎。
どういうわけか、解説の基礎になった建築調査そのものが、現在の地理的方位とは異なる方位設定を採用している?としか思えん。
Googleマップに合わせると、現地のパネルと矛盾してしまうし、解説の全てを変更して書くことになってしまうので、
このサイトでは、現地の解説通りに書いています。
↓ 入口。

↓ 入口を入ったところ。
すぐ左手に受付のテーブルがある。建物向かって右手の稜堡部分(西の稜堡)(実際は北。※ 以降この情報は割愛します。)のみ、入場することができる。


← 入場できる西の稜堡から、中庭を見下ろしたところ。
左手に入口と受付が見える。
真ん中に見えるのが、東の稜堡。
右下の赤茶色部分は、イヴェントに利用される舞台。
防御壁に囲まれた中庭では、主に夏期、様々なイヴェントが開催されている。
入口側から奥にかけて、地面が高くなっている。それに合わせて、建物自体の高さも傾斜している。城壁が斜めになっているのがわかる。
12世紀、ピサ共和国(Repubblica Pisana)によって建設された。ので、ピサ要塞と呼ばれている。建築当初から、17.60×17.69メートルという、ほぼ正方形のかたちをしていた。
当時頻発していた海賊やサラセン人の襲撃に対する、重要な防衛拠点だった。戦闘になった場合の避難場所としても利用されていた。
ピサの勢力が衰退すると、要塞はピオンビーノ公国の領主アッピアーノ家の支配下に入る。1450年から1457年にかけて、同家は要塞を強化した。
要塞の立地と強固さは、エルバ島西部の拠点として重要だった。
1502年、チェーザレがアレクサンデル6世とともにエルバ島を訪れた時、ここを視察したのでは?と思われる。
↓ 駐車場から見たところ。
北(向かって左手)と西(右手)の稜堡を繋ぐ城壁。


1560年、さらなる増強・修復工事が行われ、
・矢尻形の4つの稜堡(speroni a freccia)
・城壁下部の傾斜状補強壁(rinforzo a scarpa)
・その上端に設けられたコルドーネ(cordone)(城壁外面を水平に巡る帯状の突出部。城壁を登りにくくする。)
・側面を防護するための銃眼(feritoie per tiro radente) (射撃用の狭間)
・上部からの攻撃・防御のための胸壁(merloni)
・円筒形のガリッタ(garitta)(歩哨用小塔、見張り台)
といった要素が、付け加えられた。
胸壁とガリッタは上部が崩れているが、これらは現在も存在している。
つまり、チェーザレが訪れた時の要塞は、現在見られるかたちではなく、ただの方形に近かった。
もし、彼の支配がもう少し長かったなら、このような改修を彼自身が行っていたかもしれない!
南の稜堡(入口入って向かって右)は、爆薬および弾薬の保管庫として利用されていた。
ここの上部に、円筒形のガリッタ(garitta、歩哨用小塔、見張り台)が設けられていた。(この南の稜堡と西の稜堡、そこをつなぐ通路が要塞の最も高い地点なので。)
ここから、島の東側に位置するヴォルテッライオ要塞を目視することができた。
現在この小塔は下部分だけが残っている。
数年前はこの通路に上ることができ、島でも最も美しい景観のひとつが見られたよう。
マルチャーナ・マリーナ(Marciana Marina)から、エンフォラ(Enfola)とポルトフェッラーイオ(Portoferraio)へ、
さらに奥にはピオンビーノ(Piombino)と緑豊かなモンテ・カパンネ(Monte Capanne)を望む、唯一無二の風景が広がっている。
しかし2026年現在、入場できるのは西の稜堡のみになっている。
中庭の西には貯水施設があり、近くのフォッソ・デッラ・ジュンカ(Fosso della Giunca)(要塞近くを流れる小川の名称)からの地下水路によって、包囲時にも安定した水供給が確保されるようになっていた。
また、入口は地面よりも上にあり、梯子を利用して出入りしていた。これは跳ね橋のように、必要時に梯子を引き上げられる構造だった。

北西のモンティ通り(Via dei Monti)から見たところ。
奥に見えるのが、東の稜堡。
東の稜堡(入口入って左手)には、ドーリア(Dolia)と呼ばれるワインの発酵・保存に用いられた、大型の陶製容器が設えてある。1970年代にプロッキオ(Procchio)のモンテ・カステッロのエトルリア要塞の発掘で発見されたもので、かつての島の生産活動がうかがえる。
入口入って正面左右にある2つの稜堡(西と南)の内部は博物館として利用されている。これは2013年に開館した。
左側の稜堡(南)には、中世およびルネサンス期の刃物武器の複製と、鷹狩りに関する資料が展示されている。
(こちらは2026年現在、閉じられている。)
右側の稜堡(西)には、要塞内で発見された考古学的出土品や、ルッカ、モンテルーポ、サヴォーナのマヨリカ陶片、などが展示されている。ピサ共和国の海事史とその艦隊に関するパネルもある。
- 開館時間(2026年)
4月1日〜
9:30 - 13:00
日曜日休館
- 料金
一般:3ユーロ
マルチャーナの3つの博物館(ピサ要塞、考古学博物館、貨幣博物館)共通チケット:7ユーロ
14歳以下無料
サン・ジョヴァンニの塔(Torre di San Giovanni)
エルバ島のカンポ・ネッレルバ市(Campo nell’Elba)に位置する軍事建築。
11〜12世紀頃、ピサ共和国によって建てられた見張り塔である。
女王の塔(Torre della Regina)と呼ばれることもあるよう。
この時代、ピサは地中海で広範な交易を行っていた海洋共和国で、しばしばサラセン人やジェノヴァと地中海の覇権をめぐって衝突していた。そのため、島全体の防衛手段として、重要な軍事施設網を築く必要に迫られていた。

当時、海からの攻撃に対して最も脆弱な湾のひとつであったマリーナ・ディ・カンポ湾(塔の南東約5キロ)を守るため、ペローネ山の斜面、標高300メートルの地点に建設された。
サン・ティラーリオ(Sant'Ilario)からペローネ山(Monte Perone)へと登る、曲がりくねった急な道沿いにある。
ここから、湾周辺の船の往来を監視し、灯と煙による信号通信を行えるようになっていた。

花崗岩で造られており、四角形である。
もともとは2階建てで、見張り用のテラスを備えていた。が、テラスは破壊されてしまい、現在は残っていない。
開口部は窓と入口のみで、入口には引き上げ式の木製はしごを利用して、到達するようになっていた。敵が容易に侵入できいようにするための工夫だった。
1502年、チェーザレがアレクサンデル6世とともにエルバ島を訪れた時、ここを視察したのでは?と思われる。
戦闘とその後の占領で、大きく損傷したと考えられているが、どの時点での何の戦闘であったのかは不明。
それから何世紀にもわたり放置されていたため、さまざまな崩壊が生じた。が、その後いくつかの修復が行われ、壁の補強がなされている。最新の修復は1995年に行われた。しかし内部に入ることはできない。
ピエトラ・ムラタ(Pietra Murata)
エルバ島のカンポ・ネッレルバ市(Campo nell’Elba)のカパンネ山(Monte Capanne)南西斜面に広がる、モンゾ花崗岩が露出する特徴的な岩石地形を中心とした遺跡・地域のこと。
古代から人類の活動の場として利用され、ティレニア海を望む戦略的な位置から、中世にはその頂部に海上監視所が置かれた。
この監視所も、所在地の名からピエトラ・ムラタと呼ばれている。ピエトラ・ムラタとは石の壁というような意味。

監視所には、武装した歩哨が配置され、眼下の海を監視し、煙や灯で信号を送る役目を担っていた。ここからヴォルテッライオ要塞を視認でき、エルバ島の防衛・監視網を構成する拠点のひとつとなっていた。

ピエトラ・ムラタ遺跡・地域の歴史は非常に古く、青銅器時代の活動・居住の痕跡が認められている。
ヘレニズム時代(紀元前4世紀〜紀元前1世紀末)に属すると考えられている石積みの遺構が残っており、その付近からは、エトルリア文字が刻まれた刻陶器片も発見されている。
中世に入ると、この高地は海上監視のための見張り所として利用された。頂上には岩を加工して造られた、円筒形の座席を備える見張り所があったとされる。
1324年のピサの文書に、グロクタ・ムラタ(Grocta Murata)(石の洞穴のような意味)と呼ばれる場所に、武装した歩哨が配置され、眼下の海を監視し、発見したものを煙の信号によって伝えていたことが記録されている。
現在は、広大なトレッキングコースの一部になっている。
- エルバ島の監視・防衛システム

チェーザレの時代、エルバ島には上記5カ所の軍事建築が存在していた。
・ヴォルテッライオ要塞(Fortezza del Volterraio)
・ジョーヴェ要塞(Fortezza del Giove)
・ピサ要塞(Fortezza di Pisana)
・サン・ジョヴァンニの塔(Torre di San Giovanni)
・ピエトラ・ムラタ(Pietra Murata)
中世のPietra Murataが、要塞ではないものの、エルバ島の監視・防衛ネットワークを構成する高地の監視拠点だった
ピサ支配期には、ピエトラ・ムラタはエルバ島の監視・防衛網を構成する拠点の一つとして機能していた。ヴォルテッライオ要塞からは、マルチャーナ要塞、サン・ジョヴァンニの塔とともにピエトラ・ムラタを目視することができ、各監視拠点は視覚信号によって情報を伝達することが可能であった。
要塞間の視界
島の境界の視覚的監視
見張り地点の設置は、建造物の最も高い部分に配置された歩哨が扱う光による信号を通じて、各地点が互いに視覚的に連絡を取り合う必要性に基づいた、特定の基準に従って行われていた。これらの地点は、海から到来する可能性のある脅威を知らせることを目的として構想されていた。
こうした地点の位置は慎重に選ばれ、場合によっては内陸方向への見通しも考慮された。これによって見張り地点は戦略的な監視拠点として機能し、接近してくる危険を察知して、速やかに知らせることができた。
位置の選定にあたっては、見張り地点どうしの距離、周囲の地形の高さ、海岸線の形状といった要素が考慮された。これは、視覚による通信の有効性を最大限に高めるとともに、海上・陸上双方の広い範囲を監視できるようにするためであった。
このように、ピサ支配時代には、ヴォルテッライオ要塞から、島の北西側に位置するピサ要塞、島の南側に位置するサン・ジョヴァンニの塔――サン・ピエロとサンティラーリオの間に位置し、視覚的により優位な場所に置かれていた――、そして南西に位置するピエトラ・ムラタの地点を、同時に見通すことができた。
ルネサンス期には、ジョーヴェ要塞が建設されたことにより(おそらく1459年)、ヴォルテッライオ要塞からこの要塞とも視覚的に連絡することが可能となり、その結果、島の東側に対する監視がさらに強化された。
ピサ支配期には、成立年代の異なる既存の高所拠点――ヴォルテッライオ要塞、マルチャーナ要塞、サン・ジョヴァンニの塔、ピエトラ・ムラタの見張り地点――が相互に視認できる監視網として機能していた。そこへ1459年頃にジョーヴェ要塞が加わり、東部への視覚的監視能力が拡張された。
サン・ジョヴァンニ教区教会(Pieve di San Giovanni)
サン・ジョヴァンニ塔の近くにある教会。
1502年、チェーザレがアレクサンデル6世とともにエルバ島を訪れた時、サン・ジョヴァンニ塔を視察したのでは?と思われるので、この教会にも立ち寄ったかも?しれない。
ピエーヴェとは(Pieve)とは、司教座のある大聖堂(Duomo)に対し、地域住民の信仰の中心として機能し、9世紀〜13世紀頃多く建てられた。 周囲の村々を包括する、独自の洗礼堂を持つ「教区教会」。
ロマネスク様式であることが多く、素朴で荘厳な姿が特徴。このサン・ジョヴァンニもロマネスクである。
洗礼者聖ヨハネ(サン・ジョヴァンニ)に捧げられた教会。
11〜12世紀の間にエルバ島に建てられた16のロマネスク様式の教会のうちのひとつ。4つの主要なピエーヴェ、
マルチャーナのサン・ロレンツォ、
カポリーヴェリのサン・ミケーレ、
サン・ジョヴァンニ・デッラ・フェッライヤ(San Giovanni della Ferraja 16世紀に破壊されており残っていない)、
の中で最大の規模であった。 
かつては木製のトラス構造(三角形を組み合わせて強度を出す骨組み構造)が屋根を支えていた。現在も、花崗岩の直方体を積み上げて作られた壁は残っている。
ファサードには扉の上に小さなギリシャ十字形の窓と、建物と一体化したシンプルな鐘楼(鐘壁)が載っている。 
内部は単一の身廊と半円形の後陣で構成されていた。が、もうそれを形作る壁しか残っておらず地面が露出している。南側には、かつて教会に付属していたと思われる隠修所の遺構が残っている。 
建物は東西方向に建てられており、昇る太陽が内部を照らすようになっていた。これは旧約聖書に由来する宗教的原則に従っており、救い主は東から光の束の形で現れ、暗闇にいる人々を照らすとされている。 
聖チェルボーネのロミトリオ(Romitorio di San Cerbone)
ロミトリオとは、世俗から離れて暮らす修道者の住まい・庵のこと。隠修所。
修道院は共同生活だが、ロミトリオはほぼ一人で静かに暮らすための場所。隠者のための小さな修行の住まい。
聖チェルボーネの隠修所はモンテ・カパンネ(エルバ島西にある島内最高峰の山)の麓、海抜530メートルの場所に位置している。周囲には栗の木が生い茂り、建物が見えないくらいである。
569年、ランゴバルドの襲撃侵入から逃れて来たポプロニア(ピオンビーノの北のある街)の司教が、建築したと言われている。エルバ島で最も古い礼拝の場であると、教会外壁の銘板に記されている。
島の他の古い宗教建築と同様に、こちらもロマネスク時代に再建・拡張されている。
1421年、隣接して修道院も作られた。が、場所の不便さと気候の厳しさのためか、長くは続かなかったよう。
19世紀、エルバ島がトスカーナ大公国の支配下にあった頃、隠修所は放棄され廃墟となってしまう。
20世紀、デンマークの貴族ヴィゴ・ディミトリ(Viggo Dimitri)により修復された。上記の銘板は、その時記念として設置されたものである。
現在、教会はほとんど閉ざされていて、中に入ることはできない。窓から中を垣間見ることはできる。
身廊は1つで、木製の梁の天井とテラコッタのタイルの床でできている。主祭壇の上には聖チェルボーネとアヒルを描いた19世紀の絵画が掛けられている。(ローマに向かう聖チェルボーネにアヒルがついていったという逸話がある。)
また、聖ジャコモと雪の聖母(Madonna della Neve)に捧げられた2つの側祭壇がある。
ファサードの両側には鉄格子の付いた小さな石窓が2つあり、上部には小さな鐘楼がある。
教会の背後には、かつて隠修士たちが住んでいた建物の跡が今も見ることができる。
かつて教会のそばには1本のイチジクの木が生えており、聖チェルボーネのイチジクと呼ばれていた。
この木のイチジクは島の他のイチジクに比べて非常に遅い時期に熟し、10月10日の聖チェルボーネの祝日にちょうど食べ頃となった、と言われている。
サン・ミケーレ教区教会(Pieve di San Michele)
ピサ支配時代の12世紀頃に建てられた教会。
ピエーヴェとは(Pieve)とは、司教座のある大聖堂(Duomo)に対し、地域住民の信仰の中心として機能し、9世紀〜13世紀頃に多く建てられた。 周囲の村々を包括する、独自の洗礼堂を持つ「教区教会」。
ロマネスク様式であることが多く、素朴で荘厳な姿が特徴。このサン・ミケーレもロマネスクである。
大天使ミカエル(ミケーレ)に捧げられた教会。
11〜12世紀の間にエルバ島に建てられた16のロマネスク様式の教会のうちのひとつで、
サン・ジョヴァンニ、
マルチャーナのサン・ロレンツォ、
サン・ジョヴァンニ・デッラ・フェッライヤ(San Giovanni della Ferraja 16世紀に破壊されており残っていない)
とともに、教区教会(Pieve)であった。
エルバ島で最も収入の多い、豊かな教会であったと言われている。
教会は何度も改築・修復され、建築当初の教会とは大きく異なっている。
当時のまま残っているのは、白みがかったピンクの石灰岩で造られた後陣と、壁の一部のみである。
おそらく当初、教会は単廊式で、木造のトラス屋根で覆われていた。
ファサードには帆型の鐘楼があり、半円アーチの装飾がピラスターと持ち送り(コーベル)によって交互に支えられていた。
1376年11月、教皇のアヴィニヨン捕囚を終わらせた教皇グレゴリウス11世は、フランスからローマへの途上、悪天候のためエルバ島に緊急寄港した。この時、教皇はこのサン・ミケーレ教区教会でミサを行った。
16世紀、島が海賊の襲撃に苦しめられていた時期、教会は荒廃し、廃墟となった。
その後、残っていた部分の多くは、墓地の建築に利用された。
20世紀、完全に放置され、さらに荒廃は進む。
21世紀初頭、本来のロマネスク様式の部分が修復され、かつての姿が偲ばれるようになった。
サン・ロレンツォ教区教会(Pieve di San Lorenzo)
ピサ支配時代の1150年頃に建てられた教会。
ピエーヴェとは(Pieve)とは、司教座のある大聖堂(Duomo)に対し、地域住民の信仰の中心として機能し、9世紀〜13世紀頃に多く建てられた。 周囲の村々を包括する、独自の洗礼堂を持つ「教区教会」。
ロマネスク様式であることが多く、素朴で荘厳な姿が特徴。このサン・ロレンツォもロマネスクである。
聖ロレンツォに捧げられた教会。
聖ロレンツォは紀元3世紀頃、皇帝ウァレリアヌス(Valeriano)の迫害で殉教した人物。8月10日が記念日で、この時期の流星群は聖ロレンツォの涙と言われる。
11〜12世紀の間にエルバ島に建てられた16のロマネスク様式の教会のうちのひとつで、
サン・ジョヴァンニ、
サン・ミケーレ、
サン・ジョヴァンニ・デッラ・フェッライヤ(San Giovanni della Ferraja 16世紀に破壊されており残っていない)
とともに、教区教会(Pieve)であった。
1298年の十分の一税台帳(Rationes decimarum)に、「エルバのマルチャーナの教区教会(Plebs de Marciana de Ylba)と、記録されている。
屋根が失われている…ので、廃墟のよう。
正面ファサード頂部には鐘楼壁(campanile a vela)の遺構が残っているが、本来存在したアーチ状の頂部装飾は失われ、現在はそれを支えていた二本の支柱だけが在る。
外壁の石積みは、地元産のモンゾ花崗岩(monzogranito)の切石を列状に積み重ねたもので、石灰と石を混ぜた凝集材によって結合されている。石は、なぜかエルバ島の他のロマネスク教会に比べて、大きい。
後陣の半ドームは、自重を減らすためにピアノーザ島産の軽量な石灰質砂岩(calcarenite)の粗石で構成されている。
内部壁面に沿って、ランプを置くための多数の四角い壁龕がある。
半円形の後陣は東方(エルサレムの方向)を向いており、夏至(6月21日)には昇る太陽が内部を照らすようになっている。
側壁がわずかに内側へ収束しているという変わった形をしており、これは訪問者の視線を祭壇へ集中させるためのものであった。
1511年には、修道院も隣接していたよう。
小規模な建物群の廃墟が教会南側と、下方のピアーネ・ディ・サント地区に点在しており、おそらく修道士たちのための修道共同体(cenobio)であったと考えられている。
1553年8月、オスマン帝国のドラグート(Dragut)率いるトルコ・フランス連合軍にに焼き払われた。
その後1960年代まで、農村用倉庫として使用される。
現在、特に修復されることもなく、放棄されているよう…。
アッピアーニの塔(Torre degli Appiani)
アッピアーニ家はアッピアーノ(Appiano)とも表記されるが、こちらはアッピアーニになっているよう。
同名の塔が、エルバ島に2基ある。
(エルバ島以外にも、ピオンビーノの南、カスティリオーネ・デッラ・ペスカーイア(Castiglione della Pescaia)の島にも1基ある。)
アッピアーノ家によって建てられた軍事施設(監視塔)ではあるが、チェーザレの時代よりはやや新しく、彼の訪問時にはなかった。残念。
リオ市のアッピアーニ塔
リオ・マリーナ(Rio Marina)の街に建つのでリオ・マリーナ塔(Torre di Rio Marina)とも。
1534年、ヤコポ5世アッピアーノ(Jacopo V Appiano)によって建てられた塔。港の入口に灯台のように建っており、海賊の襲撃に備えた監視・防衛塔だった。
リオは鉄鉱脈のある街であったので、鉄倉庫を守るためでもあった。
高さ約30メートルで、六角形。
軍事施設としての役割を終えた後は、長年放置され、その後倉庫として使用されていた。
1882年、リオ市の成立を記念して修復され、時計はロックマン(Locman 地元の時計製造会社)によって上部に小さな方形の時計塔が加えられた。この時から塔は時計塔とも呼ばれるようになった。
現在内部は小さな博物館になっている。
テラスに上ってリオ・マリーナの街と港を見渡すこともできる。
マルチャーナ・マリーナ市のアッピアーニ塔
現在の塔は、16世紀後半に再建されたものと考えられている。が、16世紀にはノヴァーリア塔という名で呼ばれ、存在していた。
ノヴァーリアは近くの沿岸平野の地名で、ラテン語 novalia「休耕地」を意味する語に由来する。
何世紀にもわたり、塔は島の北岸の監視および防衛という機能を果たしていた。 
1815年、ピオンビーノ公国が政治的に崩壊すると、塔は徐々に軍事的機能から外され、個人に売却され、作家の住居になったりもした。
現在、マルチャーナ・マリーナの住民による長年の返還運動を経て、国有財産に戻っている。
円形の塔で、下は斜めに広がる円すい形の土台になっている。
土台と塔は、ぐるりと回る帯のような出っ張りで区切られているが、その一部は外階段のところで途切れている。
外の階段を上ると、少し高い位置にある入口に着く。この入口の上には、敵に石などを落とすための防御装置カディトイアが付いている。
塔の最上部には、もともと見張りに使われていたテラスがある。
また、壁には細い穴(狭間)があり、そこから攻撃できるようになっている。
マルチャーナ歴史文書館の16世紀の文書には、この塔に関する港湾税について次のように記されている。
「ノヴァーリアの塔を維持し、装備し、火薬その他必要な物資を備えるために、以下に示す全ての者から税を徴収しなければならない。
すなわち、マルチャーナのすべての船の所有者(たとえ船が外国人の所有であっても)は、航海から帰還するたびに、得た全収入からリラごとに2デナリを差し引き支払わなければならない。
これに違反した場合には7リラの罰金に処され、その4分の3は当該塔に、4分の1はそれを徴収する委員に充てられる。」
ポルトフェッラーイオのメディチ家要塞群(le fortificazioni medicee di Portoferraio)
古くから戦略的・商業的に重要な港であったポルトフェッラーイオに、1548年からメディチ家によって建設が開始された壮大な要塞群。
コジモ1世・デ・メディチはジョヴァンニ・カメリーニ(Giovanni Camerini)とジョヴァンバッティスタ・ベルッツィ(Giovanbattista Belluzzi)に壮大な防衛システムの建設を依頼した。
コスモーポリ(Cosmopoli)(コジモの街、と言うような意味)が開かれ、
岬の高地にはファルコーネ要塞(Forte Falcone)と
ステッラ要塞(Forte Stella)が築かれ、
港湾防衛のためにリングエッラ要塞(Forte della Linguella)が建設された。
これらすべては稜堡式の城壁(Mura Medicee)によって結ばれていた。
この一連の防衛システムは、陸側に向かって段状に配置された稜堡によってさらに強化された。
街の人口増加を促すために、定住する者には優遇措置が与えられた。
コスモーポリという名はまもなく廃れ、古代ローマの名称および鉄の輸送の伝統に由来するポルトフェッラーイオ(Portoferraio)に変化した。
街は重要性を増し、都市へと昇格し、1637年から1751年にかけては大公の艦隊がここに置かれていた。
現在、ポルトフェッラーイオは、地中海におけるメディチ家の前哨地から、多くの観光客を受け入れる主要港へと変貌している。
ファルコーネ要塞(Forte Falcone)
ステッラ要塞(Forte Stella)、
リングエッラ塔(Torre della Linguella)と並び、
コスモーポリ(Cosmopoli)に築かれたメディチ家防衛施設の三大堡塁のひとつ。
入口は2か所ある。海沿い(lungomare)または広場(piazza)から来る場合、稜堡(bastioni)への入口はグエッラッツィ通り(via Guerrazzi)の突き当たりにある。この通りは一般に「ポルタ・ア・テッラ(Porta a Terra)」の道と呼ばれており、これはメディチ家の都市の第二の入口へと通じているためである。一方、すでに街の岬(promontorio)へ上っている者にとっては、同名の通りの終点にあるフォルテ・ファルコーネ(Forte Falcone)からの入口の方が利用しやすい。
フォルテ・ファルコーネ(Forte Falcone)は、ポルトフェッラーイオ(Portoferraio)の街を囲む壮大なメディチ家の要塞群の中で中心的な構造物である。海に向かって段状に低くなっていく異なる高さに配置された稜堡から成るこの軍事要塞は、フォルテ・ステッラ(Forte Stella)およびリングエッラ(Linguella)とともに、街の主要な防衛拠点の一つであった。これらは次第に強化され、軍の居住地であると同時に重要な観測・監視の拠点でもあった。
「フロンテ・ダッタッコ(Fronte d’Attacco)」の上を歩く散策路は印象的である。これは、コジモの都市である古都コスモーポリ(Cosmopoli)の西側を閉じる、壮麗で威圧的な建築複合体である。フォルテ・ファルコーネのテラスからは、街と海岸を360度見渡すことができ、その眺望は見逃せない。
ステッラ要塞(Forte Stella)
ファルコーネ要塞(Forte Falcone)、
リングエッラ塔(Torre della Linguella)と並び、
コスモーポリ(Cosmopoli)に築かれたメディチ家防衛施設の三大堡塁のひとつ。
1548年、コジモ1世・デ・メディチ(Cosimo I de’ Medici)の命により、建築家ジョヴァン・バッティスタ・ベッルッチ(Giovan Battista Bellucci)とジョヴァンニ・カメリーニ(Giovanni Camerini)によって設計された。
海賊の襲撃や外国勢力から島を守ることを目的としていた。
海抜49メートルの丘の上という戦略的地点に建っており、エルバ島北岸およびポルトフェッラーイオ湾全体を監視することが可能だった。
その名が示す通り、建物は五芒星形をしている。
特徴的な赤みを帯びたテラコッタ煉瓦の壁面には、銃眼や、防衛・監視のための内部回廊が設けられている。
1557年11月15日、ベンヴェヌート・チェッリーニ(Benvenuto Cellini)により、コジモ1世・デ・メディチを称える青銅胸像が制作される。要塞門上部の壁龕に設置された。
1781年5月2日、ロレーナ大公レオポルド1世(Leopold I of Lorraine)の命により、胸像はフィレンツェへ移送され、ウフィツィ美術館に置かれた。そこから再び移動され、現在はバルジェッロ国立美術館に保存されている。
1814年、ナポレオンがエルバ島へ到着した際、コジモ像を見るため特にフォルテ・ステッラを訪れたと言われている。しかし、胸像は数10年前にフィレンツェへ移されていた。
1788年、大公レオポルドは古い烽火台に代えて、現在の円形灯台を建設させた。
現在、この灯台は要塞の象徴的な建造物となっている。
歴史家セバスティアーノ・ロンバルディ(Sebastiano Lombardi)は、「地中海に存在するすべての灯台の中で最も美しく壮麗なもの」と評している。
灯台に加えて、要塞には中庭や複数の建物が残っている。それらはかつて礼拝堂、貯水槽、武器庫、兵士の兵舎、倉庫、さらに攻撃時の緊急避難所として用いられた地下通路網を収容していた。
ここから、ポルトフェッラーイオ湾およびエルバ島とトスカーナ海岸を隔てる海域を見渡す、息を呑むような大パノラマを楽しむことができる。
リングエッラ要塞(Forte della Linguella)
ファルコーネ要塞(Forte Falcone)、
ステッラ要塞(Forte Stella)、と並び、
コスモーポリ(Cosmopoli)に築かれたメディチ家防衛施設の三大堡塁のひとつ。
メディチ壁(Mura medicee)
イングレーゼ要塞(Forte Inglese)
18世紀、トスカーナ大公コジモ3世・デ・メディチによって建てられた要塞ポルトフェッラーイオからは離れているので、上のメディチ家要塞群とは別になっている。
エルバ島流刑中のナポレオン・ボナパルトによって拡張され、さまざまな用途で使用されてきた。
開館時間:
3月1日〜6月14日、9月16日〜10月31日
毎週末16:00〜18:00
6月15日〜9月15日
毎日18:00〜20:00
11月1日〜3月1日
不定期
カポリーヴェリ(Capoliveri)
エルバ島にある7つのコムーネのひとつ。エトルリア時代に、東岸を見下ろす海抜170メートルの場所に築かれた、要塞の街だった。
現在は旧市街の路地や広場が観光資源となっており、街全体が観光地となっている。
また、周囲の自然、ビーチ、鉱山跡、トレッキングルートなども充実している。エルバ島で最も訪問者の多い村のひとつ。
アルフェオ・リッチ鉱物学博物館(Museo mineralogico Alfeo Ricci di Capoliveri)
アルフェオ・リッチは、鉱物の収集と地質学の研究に生涯を捧げた人物。1924年、エルバ島リオ・マリーナ生まれ。
父と叔父がリオ鉱山で働いていたため、幼少期から石に触れる機会があったアルフェオは、鉱物に魅了され、早くからエルバ島の鉱物を収集・分類することを始めた。また硬石加工にも取り組んだ。
島で働く鉱夫・現場監督・地質学者たちと広く関係を築きながら、観光客や研究者に鉱物学的関心地を積極的に案内することもしていた。
1940年代から1960年代にかけて、アルフェオはエルバ島産の標本を1000点以上集めたコレクションを築き上げた。
1962年、アルフェオの死後、コレクションは相続人に引き継がれ、設立中であったリオの博物館に寄贈された。その後カポリーヴェリへ移され、現在も見学することができる。
彼のコレクションには、非常に希少なものも含まれており、鉱物資源に対する深い研究の成果として評価されている。
見どころは、
エルバ島で初めて発見された、希少なプラジオ石英(Quarzo Prasio)、
カラミタ鉱山で発見された、独特な偏光磁鉄鉱(Magnetite polarizzata)、
ジネーヴロ鉱山で発見された、六角形の結晶が鱗のように重なり合った、世界でも唯一の結晶形態であるロゼット状方解石(Calcite a rosette con epidoto)、
など。
マルチャーナ市立考古学博物館(Museo civico archeologico di Marciana)
リオ・ネル・エルバ鉱山地区市立考古学博物館(Museo civico archeologico del Distretto minerario di Rio nell’Elba)
サン・ピエロ・イン・カンポ ルイージ・チェッレリ鉱物学博物館(Museo Mineralogico Luigi Celleri di San Piero in Campo)
リオ・マリーナ鉱山博物館(Museo minerario di Rio Marina)
リングエッラ市立考古学博物館(Museo Civico Archeologico della Linguella)
ステッラ要塞(Forte Stella)
民間の居住のために用いられたことはなく、倉庫や貯蔵施設として使用されていた。
現在、市立考古学博物館(Museo Civico Archeologico)を収めているこれらの空間は、16世紀初頭には塩の倉庫であり、その後はマグロ漁場(tonnara)の倉庫およびマグロの保存場所として用いられ、さらにロレーナ家時代には監獄へと改装された。市立博物館は1981年に市議会によって設立され、1985年にエトルリア鉱業(Etruria Mineraria)に関する大規模展覧会の機会に開館し、1988年に正式に一般公開された。
博物館は2つの展示室から成り、1つは地上階、もう1つは1階にある。展示されている考古学資料は、ピサ大学(Università di Pisa)考古学科学学科の考古学者たちによって、オルランダ・パンクラッツィ(Orlanda Pancrazzi)教授の指導のもと、歴史的・地理的な順序に従って整理されている。ここで扱われる年代の幅は、紀元前8世紀末〜紀元前7世紀初頭から紀元後5世紀にまで及ぶ。
エルバ島およびトスカーナ群島(Arcipelago)の資料の豊富なコレクションは展示ケースに収められ、各ケースには解説パネルが添えられており、個々の展示物の主要な特徴、年代、歴史的意義について説明しながら鑑賞へと導いている。他の展示ケースでは、エルバ島の経済(鉄鉱石)に関するテーマや、ワインの海上交易、さらには船舶の各部構造の説明に関する内容が扱われている。多数のアンフォラとその内容物は、食料品の交易を再構成する手がかりを与えると同時に、それらの器物自体の理解を深める助けとなっている。
珍しく興味深い展示品として、モンテクリスト(Montecristo)沖の難破船から引き揚げられた鉄製の錨がある。この錨には海中で形成された付着物によって、多数の黒色塗りの小杯や船上用器具の壺が固定されている。もう一つの重要な展示品は、紀元後2世紀の花崗岩製のアッティアーノの祭壇(Ara di Attiano)であり、セッケート(Seccheto)の花崗岩採石場付近で発見されたものである。これはアッティアーノ(Attiano)によってヘラクレスに捧げられたもので、彼はおそらく皇帝ハドリアヌスの近衛長官であったと考えられる。正面には次のような奉納碑文が刻まれている:
「P. ACILIUS ATTIANUS PRAEF. PR. HERCULI SANCTO D.D. 」
レリーフで彫られた棍棒(ヘラクレスの象徴)がこの奉納を補完しており、また背面には同じくレリーフで槍と盾が装飾されている。いくつかの展示ケースは、メリーニ(Mellini)およびフォレージ(Foresi)の市立コレクションの中でも特に価値の高い資料の展示に充てられている。
a:149 t:1 y:0