1503年 ②
1503年
アレクサンデル6世の死
1503年(28歳)
この年のローマの夏は猛暑で、マラリアが蔓延していた。
ヴァティカン周辺は、特に流行がひどかった。
8月1日 | ホアン・ボルジア(サヴィオ)、死去 → おそらくマラリアによって |
5日 | チェーザレ、アレクサンデル6世とともにアドリアーノ・ディ・コルネートの別荘での晩餐会に出席 |
11日 | アレクサンデル6世、発熱する |
12日 | アレクサンデル6世、病床につく |
13日 | チェーザレ、アレクサンデル6世と同じ症状で病床につく → 毒殺説、ペスト説などあったが、現在では症状からマラリアと考えられている |
14日 | アレクサンデル6世、瀉血される |
15日 | チェーザレ、解熱のために冷水に体を浸す |
18日 | アレクサンデル6世、崩御 |
ミゲル・ダ・コレッラは、今だ病床にあるチェーザレの代わりに、私兵を使って教皇庁財宝室の鍵を入手。金10万ドゥカートと20万ドゥカート相当の財宝を確保する | |
チェーザレ、プロスペロ・コロンナへ同盟を申請する → オルシーニの攻撃に備えるため → コロンナの所領地を返還することを条件に | |
19日 | アレクサンデル6世の遺体、システィーナ礼拝堂へ、次にサン・ピエトロ大聖堂へ移される 24時間以内に、遺体はサンタ・マリア・デッラ・フェッブリ教会へ埋葬された |
サンタ・マリア・ミネルヴァ教会にて枢機卿会議が開かれる → チェーザレへ、サンタンジェロ城を明け渡すように要請 → チェーザレはこれを拒否 |
病床にあり衰弱してはいたものの、この時点でのチェーザレの立場は堅固であった。
彼には多額の資金があったし、
多くの兵を持っていた。ミゲルをはじめとする忠実で優秀な家臣に恵まれていた。
サンタンジェロ城はチェーザレの手中にあったし、
ヴァティカンの財宝も保持していた。
教皇軍総司令官という肩書きも健在だった。
目下、チェーザレにとって重要なことは、
- ローマでの身の安全を図ること
- ロマーニャ公国を保全すること
- チェーザレに好意的な新教皇を選出すること
であった。
20日 | オルシーニの蜂起をけん制し、ミゲル・ダ・コレッラ、モンテ・ジョルダーノに火を放つ |
サンタ・マリア・ミネルヴァ教会にて、再び枢機卿会議が開かれる → コンクラーヴェの間、ローマから退出するようにチェーザレへ要請することを決議する → 塩野版「チェーザレ」では、この会議にミゲルが乗りこみ、チェーザレへのローマ退出要請を取り下げるように剣を抜いて迫る。枢機卿として会議に参加していたフランチェスコ・レモリーネスが、涙ながらに彼をとめる | |
22日 | 枢機卿団、新教皇選出までの期間、教皇軍総司令官としてのチェーザレの地位を保証する |
チェーザレとコロンナ間に同盟成立 | |
23日 | プロスペロ・コロンナ、ファビオとニッコロのオルシーニ、ローマへ |
28日 | グイドバルド・モンテフェルトロ、ウルビーノに復位 → ウルビーノの民衆はこれを歓呼して迎える |
9月2日 | チェーザレ、ローマを離れネピへ → ホフレ、ヴァノッツァもともに |
3日 | ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ、ローマへ |
ヤコポ・ダッピアーノ、ピオンビーノへ復位 ジャンマリア・ヴァラーノ、カメリーノへ復位 ジョヴァンニ・スフォルツァ、ペーザロに復位 → ヴェネツィアの後押しによって | |
6日 | パンドルフォ・マラテスタ、リミニへ復位 → ヴェネツィアの後押しによって |
7日 | ヴェネツィア、ポルト・チェゼナティコを占拠しチェゼーナを攻囲 |
9日 | ジャンパオロ・バリオーニ、ペルージャに復位 |
ロマーニャ公国のあちこちで反乱が生じ、旧主が復位する中、
チェゼーナ、
フォルリ、
ファエンツァ、
イモラ、
の4都市がチェーザレの下に残る。
9日 | ラファエーレ・リアーリオ、ローマへ |
10日 | アスカーニオ・スフォルツァ、ジョルジュ・ダンボワーズ、ローマへ |
16日 | コンクラーヴェ、開催 |
22日 | フランチェスコ・トデスキーニ・ピッコローミニ、ピウス3世として教皇に選出される |
ピッコローミニ枢機卿は、どの派閥にも属さない朴訥でまじめな聖職者であった。
ピッコローミニの伯父ピウス2世はロドリーゴ・ボルジアと親しかったので、ピウス3世の選出は、チェーザレにとって歓迎すべきものだった。
25日 | ピウス3世、ペルージャ市に対して、チェーザレへの恭順を説く文書を送る |
10月1日 | ピウス3世、ロマーニャ侵攻を続けるヴェネツィアに対して抗議文書を送る |
10月2日 | チェーザレ、ネピからローマへ戻る |
→ 150の騎兵と500の歩兵のみを率いて → ピウス3世は大軍を伴わないことを条件にチェーザレのローマ帰還を許可した → チェーザレの軍の一部はロマーニャとオルヴィエートに留まり、一部はフランス軍に合流している → ミゲルはこの時ソリアーノでオルシーニ軍とにらみ合っていた | |
8日 | ピウス3世、戴冠式 |
チェーザレ、教皇軍総司令官の地位を教皇によって保証される → 再び軍を率いてロマーニャ公国を建て直し、イタリアの権力の中枢に立てることを意味した |
転落
1503年(28歳)
10月12日 | オルシーニ、コロンナ、スペインと同盟する → 長年フランス派であったオルシーニが、これを破棄してまでコロンナ、スペインと同盟 → チェーザレにとって大きな脅威に |
14日 | スペイン王フェルナンド2世、全スペイン人に対しチェーザレの下で軍務につくことを禁じる → チェーザレがフランス王と友好関係にあることを理由に → ウーゴ・デ・モンカーダ以下、チェーザレ配下の勇将たちの大部分が軍から離れる → チェーザレ軍は解体の危機に瀕する |
15日 | チェーザレ、身の危険を感じローマを脱出しようとするが叶わず → 同盟国フランスの軍はローマから遠く、唯一の頼みの綱ピウス3世はすでに死の淵にあり、ミゲルはソリアーノへいた → カステル・サンタンジェロへ逃げ込む |
18日 | ピウス3世、崩御 |
31日 | コンクラーヴェ、開催 |
11月1日 | ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ、ユリウス2世として教皇に選出される |
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