チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

1502年 ②


1502年

マジョーネの反乱


1502年(27歳)

チェーザレは自国ロマーニャ公国の本拠地をイモラに置く。

  1. 次の攻略地ボローニャに近い
  2. 城塞が非常に堅固
  3. イモラはロマーニャ公国の最北端ではあるが、彼はこの国境線を、仮のものとしか考えていなかった。

9月26日
 
 
ヴィテロッツォ・ヴィテッリバリオーニの2人(ジャンパオロ、ジェンティーレ)と会合
(25日もしくは28日とする説も。最初の提言はオルシーニからという説もある。)
トーディで。ボローニャ攻撃を拒否することを決定
チェーザレのウルビーノ進撃、フランス王との新たな結びつきを見て、いつ自分たちが次の標的になるかわからない、と怯えはじめる。
→ 反チェーザレの同盟を、他の傭兵隊長たちにも呼びかける。


30日マジョーネの会合(第1回)

反乱の会合は、9月25日から10月9日の間に数回に渡って行われている。

  1. ヴィテロッツォ・ヴィテッリバリオーニによる反乱の提言(トーディ)
  2. 首謀者5人(ヴィテロッツォ、オリヴェロット、ジャンパオロ、パオロとフランチェスコのオルシーニ)とオルシーニ枢機卿らによる会合(マジョーネ)
  3. ベンティヴォーリオやヴァラーノら、参加者全員を含む会合(マジョーネ)
  4. 参加者全員による署名(マジョーネ)

1と2を分けない説もある。2と3を分けない説もある。
いわゆる「マジョーネの会合」は、3を指す場合が多い。
が、4を指す場合もある。
マジョーネで行われた会合全体を総称している場合もある。
この年表では、2と3の会合を「マジョーネの会合(第1回)」「マジョーネの会合(第2回)」として分けた。

参加者

  • ヴィテロッツォ・ヴィテッリ
    チタ・ディ・カステッロの僭主。
    優秀な軍人でチェーザレ軍に最初から使えていたが、弟を殺したフィレンツェに対する復讐心を、チェーザレの都合で黙認されたり制止されたりして、恨んでいた。チェーザレを間近で見て、その力を恐れてもいた。
  • ジャンパオロ・バリオーニ
    ペルージャの僭主。
    自国ペルージャが、いつチェーザレに攻撃されるかと怯えていた。
  • オリヴェロット・エウフレドゥッチ
    フェルモ僭主。
    ヴィテロッツォと親しく、恩もあり、彼に同調した。
  • パオロ・オルシーニ
    パロンバーラの領主。
    今はチェーザレの下で軍務に就き同盟しているが、5年前のガンディア公ホアンとオルシーニ家との戦いはまだ記憶に鮮やかであり、ボルジアが敵になることは想定された。
  • フランチェスコ・オルシーニ
    グラヴィーナ公爵。
    今はチェーザレの下で軍務に就き同盟しているが、5年前のガンディア公ホアンとオルシーニ家との戦いはまだ記憶に鮮やかであり、ボルジアが敵になることは想定された。
  • バッティスタ・オルシーニ
    枢機卿。フランチェスコの伯父。

s_sqp13.gif は首謀者とされる人物
mmi650.gif は参加者


10月6日
 
 
チェーザレ、26日に行われていたトーディでの会合を知る
アレクサンデル6世の隠密によりその情報がもたらされ、教皇は手紙でそれをチェーザレに報せた
7日マキァヴェッリ、フィレンツェ政府により派遣され、チェーザレに謁見

フィレンツェにとってチェーザレは脅威であったが、反乱軍も警戒する必要があった。フィレンツェとは仇敵であるシエナのペトゥルッチヴィテッリ、またメディチとつながりのあるオルシーニがそのメンバーであったから。
フィレンツェが保護者と頼みにしているフランス王ルイ12世は、チェーザレに肩入れしている。が、公然とチェーザレを支持するのは危険である。彼はどのようにして、フィレンツェに踏みこんで来るかわからない。
チェーザレとの交渉は困難な任務であった。


7日
 
モンテフェルトロ家の旧臣らによって、サン・レオの城塞落城
→ チェーザレ軍はペーザロに退却
8日
(7日
or 9日
の説も)
 マジョーネの会合(第2回)
 
 
 

参加者
第1回のメンバーに加えて、

  • ジャンマリア・ヴァラーノ
    チェーザレに殲滅されたカメリーノの僭主ヴァラーノ家の唯一の生き残り。
  • アントニオ・ダ・ヴェナフロ
    シエナの僭主パンドルフォ・ペトゥルッチの代理。


9日出席者全員の署名を得て、反乱の同盟「マジョーネ同盟」が正式に発足


この時点で、

兵力反乱軍チェーザレ
歩兵9,0002,500
槍兵700300
騎兵100-
親衛隊(護衛兵)-100
合計約1万の兵3,000未満の兵

圧倒的にチェーザレの不利だった。


11日ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、カステル・デュランテを落城
チェーザレはウルビーノ国境にいたウーゴ・デ・モンカーダにリミニへ退却するように手紙を書く
しかしウーゴは反乱軍を前に退却することを受け入れず、またチェーザレ配下の城主らが助けを求めたため、ミゲル・ダ・コレッラとともにパーゴラとフォッソンブローネを攻撃し街を略奪、ガイファとプリミチェリオの城塞を奪取する


このフォッソンブローネの戦いにはレオナルド・ダ・ヴィンチが同行している。
アトランティコ手稿に描かれている木の橋はこの戦いで実際に使用され、ミゲルはこのダ・ヴィンチが考案した武器で城塞を陥したらしい。(渓谷に橋をかけた)

しかしダ・ヴィンチはここで初めて戦争というものを間近で見て、激しく嫌悪感を抱き「野獣のような狂気」と表現した。現にこの後すぐ翌年2月にはチェーザレのもとを離れている。(チェーザレは絶頂期だったのに)
(後にフィレンツェ政庁会議室に描かれるアンギアーリの戦いの残酷さは、ここでの経験が影響しているかも?)


12日
 
ジャンパオロ・バリオーニ、カーリを占拠
→ ウルビーノ公国のほとんどが反乱軍の手に
17日チェーザレ軍、カルマッツォの戦いでオルシーノ軍に敗戦
ミゲル・ダ・コレッラは負傷しファノ(フォッソンブローネ説も)へ敗走、チェーザレの支持でペーザロへ移動する
レミーロ・デ・ロルカもファノへ敗走
ウーゴ・デ・モンカーダはオルシーニの捕虜に


チェーザレはフランス王ルイ12世の支持をとりつけ、彼の力を利用してヴェネツィアとフィレンツェを牽制。同時に軍備の増強を図る。
また、オルシーニ家のロベルト、ジュリオの2人を通じてオルシーニ家との交渉を進める。

18日グイドバルド・モンテフェルトロ、ウルビーノへ帰還
フランス国王ルイ12世、チェーザレに援軍を出す。
反乱軍支持であったはずのヴェネツィア共和国は中立を宣言しフィレンツェは静観。
→ 反乱軍は不安になり、混乱し始める。


22日
 
ベンティヴォーリオ、チェーザレの元へ講和代理人を派遣する
パンドルフォ・ペトゥルッチも、講和への動きを見せ、オルシーノ枢機卿は教皇と交渉
25日ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、フォッソンブローネを占拠
パオロ・オルシーニ、講和交渉のためにチェーザレの元へ

反乱軍の意志は一致していなかった。
彼らは互いに不信感を抱いていたし、それをまとめるリーダーを持たなかった。
また、ヴィテロッツォ、バリオーニ、オリヴェロットらはチェーザレ打倒を目指していたが、それ以外の参加者はチェーザレに講和を高く売ることを望んでいた。
反乱軍は、軍事行動によってチェーザレを窮地に立たせながらも、裏では当初から手前勝手な行動をとっていて、結束力の欠如を露呈していた。


27日
 
パオロ・オルシーニ、チェーザレとベンティヴォーリオ間の講和を仲介してイモラ、ボローニャ間を往復
29日ジャンマリア・ヴァラーノ、オリヴェロットとともにカメリーノを占拠
30日パオロ・オルシーニ、反乱軍を講和へ導くためウルビーノへ
31日フランスの援軍、ファエンツァに到着
フェラーラからも600の歩兵が送られ、ガスコーニュ兵もこれに加わる
→ アレクサンデル6世は集められるだけの金をチェーザレに送り、チェーザレは1日に千ドゥカーティもの出費をして軍備を増強した


11月14日パオロ・オルシーニ、チェーザレの作成した講和条文を持ち、反乱軍の元(ウルビーノ)へ


講和条文の内容

  1. チェーザレから略奪したウルビーノやカメリーノは、全てもと通りに返還する。
  2. ヴィテロッツォ、バリオーニ、オリヴェロット、パオロとフランチェスコのオルシーニ、以上5人の傭兵隊長たちは反逆の罪を許される。
  3. ヴィテロッツォらの教皇代理の地位もそのままで、チェーザレ軍への従軍も自由意志に任される。
  4. ウルビーノ公、ならびに彼の旧臣たちも無罪放免。自由を保障される。
  5. オルシーニ枢機卿の名誉、財産、所領地は以前のままに保障される。
  6. チェーザレの望む時には、それぞれの嫡子を1人、チェーザレの下へ送る。

※ ベンティヴォーリオとの協定は別個に行われる。

23日チェーザレとベンティヴォーリオの間に、講和と傭兵契約成立、調印
ベンティヴォーリオのボローニャでの教皇代理を認可
ベンティヴォーリオは年間1万2,000ドゥカートでチェーザレに槍兵100と軽装騎兵200を提供
27日
 
反乱軍、講和条文に全員が調印
→ 反乱は終息、全ては白紙に戻ることに
29日チェーザレ、ヴァレンティーノ公爵として、再びウルビーノとロマーニャを領有することを宣言


12月8日グイドバルド・モンテフェルトロ、ウルビーノを去りチタ・ディ・カステッロへ亡命
10日チェーザレ、ヴィテロッツォの軍を撃破し、イモラからファエンツァへ
12日チェーザレ、チェゼーナへ移動
20日
 
 
チェーザレ、フランス軍を解雇する
糧食補給が困難であるとの理由で
→ 反乱軍は、チェーザレの軍が縮小したことに安心する
22日レミーロ・デ・ロルカ、チェーザレに逮捕される
25日
 
レミーロ・デ・ロルカの処刑死体が、チェゼーナの広場にさらされる
→ チェーザレの腹心であったレミーロの処刑に、イタリア中が驚く

ルクレツィアがフェラーラに向かう際、何らかの不備があり、そのことによって処刑された、などと見る向きもあったが、「マジョーネの反乱の首謀者はレミーロ・デ・ロルカであり、全責任は彼にとらせた、だから安心してよい」という、反乱軍に対するチェーザレのデモンストレーションであると言われる。

  • マキァヴェッリは「君主論」にて独自の解釈を披露している。
    いわく、
    「長年無能な君主に支配され荒廃しきっていたロマーニャに、平和と秩序をもたらすには、まず厳しい取締りが必要であった。
    よってチェーザレは残酷かつ俊敏なレミーロを統治者に選び、この地を平定した。
    しかし峻厳な統治は民衆の憎悪を惹起しもする。そして穏やかになった地に強大な権威はもはや必要ない。
    チェーザレは「かつての統治の残酷さはチェーザレから発したものではなく、レミーロ個人の性格によるものだった」ということを知らしめるため、レミーロを処刑しその死体をさらしたのである。」

→ レミーロの処刑という1石で、反乱軍を安心させることと、民衆の心の懐柔という2鳥を落とした。


26日
 
オリヴェロット、チェーザレの名でシニガリアを攻略
→ チェーザレにこの地を献上したいと申し出る
27日チェーザレ、チェゼーナからペーザロへ向かう
28日チェーザレ、ペーザロに到着




シニガリア事件

1502年(27歳)

12月29日チェーザレ、ペーザロからファノへ
31日チェーザレ、ファノからシニガリアへ

城門の前で、パオロとフランチェスコ、ヴィテロッツォが出迎える。
チェーザレは彼らと抱き合って再会を喜ぶ。
城門の中にいたオリヴェロットも、ミゲルに呼ばれ、これに加わる。
チェーザレは宿所と決めていたベルナルディーノ・デ・パルマの屋敷に、4人を招く。彼らはそれに従う。
が、屋敷に入ったところで、捕縛される。


31日
22時頃
ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・エウフレドゥッチ、絞首刑に処される
→ ミゲル・ダ・コレッラの手によって
 
オルシーニの2人の処刑は保留される。
(バッティスタ枢機卿を筆頭とするローマのオルシーニ家を捕えるまでの延期)








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