チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

1502年 ①


1502年

チェーザレの進撃・・・ウルビーノ、サン・マリノ、カメリーノ

1502年(27歳)

1月6日ルクレツィア、フェラーラに向けてローマを発つ
枢機卿、司教、貴婦人、騎士、道化師、騎兵隊など総勢1000余人
150頭のラバ
ネピ → スポレート → ウルビーノ → ペーザロ → リミニ → チェゼーナ → フォルリ → ファエンツァ → イモラ → ボローニャを経てフェラーラへ
27日かけて
2月2日ルクレツィア、フェラーラに到着
2月21日
 
 
 
 
チェーザレ、教皇とともにピオンビーノ視察
2人のボルジア枢機卿(ペドロ・ルイス、フランチェスコ)を含む6人の枢機卿、多数の従者とともに
(ピオンビーノはミゲルやヴィテロッツォが征服したので、チェーザレはまだこの地をちゃんと見てなかった)
3月まで2人でチェーザレの獲得したエルバ島、チヴィタ・ヴェッキア、コルネートなどを色々と見てまわった
ピオンビーノは小さな街であるが要衝で、チェーザレは新たな城塞を建築することを予定しており、その計画にはダ・ヴィンチの名前があった
ローマへの復路で猛烈な嵐に遭遇。誰もが船酔いと恐怖のため消耗するが、71歳という高齢にもかかわらず、アレッサンドロだけは平然と耐えたと言う
3月2日
 
 
 
チェーザレ、アレクサンデル6世と共にヴァティカンに戻る
ここからしばらくチェーザレはヴァティカンにこもる(新たな戦闘の好機を待っている)
しかし彼はローマにいても部下を通してロマーニャ地方をよく管理し、秩序ある政治を行なっている
5月頃レオナルド・ダ・ヴィンチ、チェーザレの建築技術総監督となる
レオナルドはすぐにチェーザレのもと(ウルビーノ)を訪れたのではなく、まずピオンビーノへ行ったよう。城塞をまわり視察・点検を行った。
そこから東へ向かい、ウルビーノに到着したのは夏になってから。
6月2日
 
ヴェネツィア大使アントニオ・ジュスティニアン、チェーザレを来訪
チェーザレはヴェネツィアとの友好関係を確認
4日アレッツォ、フィレンツェに対し反乱
フィレンツェに恨みを抱くヴィテロッツォ・ヴィテッリの扇動による。
ピエロ・デ・メディチの復帰を願うオルシーニ、バリオーネ、ペトゥルッチも同意の上。
1501年秋には、ヴィテロッツォを制止したチェーザレだが、今回は黙認。
→ チェーザレとしてはフィレンツェを攻略したいのはやまやま。しかしルイの手前表立って動くことはできない。代わりにヴィテロッツォの復讐心を利用。
10日ピサ、領主権をチェーザレに提供
ピサもアレッツォと同様にフィレンツェの支配下にあったが、関係は良好でなく、抵抗を続けていた。このため、フィレンツェの支配下にあることよりも、チェーザレの保護下に入ることを、ピサは選択した
フィレンツェは孤立。フランス王ルイにすがる。
→ この反乱の黒幕はチェーザレ以外にありえない、チェーザレの野心はロマーニャ、トスカーナだけにとどまらず、すぐにミラノにも迫るだろう、と説く
→ ルイの懸念を想定していたチェーザレは、ピサの申し入れを断り、ヴィテッリらの企てに一切関与していないことを表明する
9日アストーレ・マンフレディ暗殺
弟エヴァンジェリスタとともに首に砲弾をくくりつけられた状態で、テヴェレ河より発見される
→ ミゲルの手にかかったとされている
→ ウルビーノ進攻を前に、アストーレを殺害してファエンツァの動きを完全に抑えておく必要があった。(背後から攻められないように)
12日
 
チェーザレ軍、ローマを発つ
目的地はカメリーノとして(実際はウルビーノ
→ この頃ナポリを分割統治していたスペインとフランスがもめていた。のでチェーザレは自由に動けた。
チェーザレはフランチェスコ・オルシーニとオリヴェロット・エウフレドゥッチ指揮下の軍を、すでにカメリーノに送っている。カメリーノの領主ジュリオ・チェーザレ・ヴァラーノはウルビーノ公グイドバルド・モンテフェルトロに援軍を要請する。
15日チェーザレ軍、スポレートに到着
チェーザレは、グイドバルドに領内の通行許可と兵士1000人の提供を申し出る。グイドバルドは快くこれに応える。
→ グイドバルドは以前、チェーザレの下に傭兵隊長として従軍していたし、つい半年ほど前のルクレツィアのフェラーラ行きに際しても、彼女を歓待している。
モンテフェルトロ家と教皇一家との関係は良好であり、懸念すべきことは何もなかった。
18日ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、アレッツォの城塞を占拠
20日チェーザレ軍、ウルビーノを目指し進軍
グイドバルドは夕餉の途中にチェーザレがウルビーノに向かっているとの報を受けとる。
しかしスポレートからウルビーノまでは80キロ、しかもアペニンの山脈地帯である。グイドバルドはその報を、ありえないと笑って受けとる。
ノチェラに入ったチェーザレは、東のカメリーノに向かう代わりに、北のウルビーノを目指す。怒涛の勢いで同日中にカーリに到着。全軍がそこで休息をとる間も、チェーザレと隊長たちは休むことなく行軍、夜半ウルビーノ手前10キロのフェルミニャーノに入る。
再び伝令がグイドバルドに届けられる。
「チェーザレ軍はすでにカーリに到着。明朝にはウルビーノに入るだろう。」
続く伝令。
「チェーザレ軍はすでにウルビーノを攻囲。」
→ 「怖ろしい進軍の速度だった。アペニン山脈を、しかも夜中に。」(塩野七生「チェーザレ・ボルジア 優雅なる冷酷」172ページ)
チェーザレに自軍を貸与しているグイドバルドには、防衛の手段さえない。
グイドバルドは養子にしている甥のフランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレとともに、逃亡。
→ まずラヴェンナに、後マントヴァへ。
21日チェーザレ、ウルビーノに入る
グイドバルドの逃亡から4、5時間後(日の出の頃)だった。住民は抵抗せずに降服。
→ またも一戦も交えず、無血開城
-全市民の安全保障
-市民代表は据え置き
-政府要人は総入れ替え
-グイドバルドの側近、ドッティら3人は処刑
ここでもチェーザレは兵士たちに「相手が金持ちであろうと貧乏人であろうと、市民であろうと村人であろうと、それが行為であろうと言葉であろうと、嫌がらせをしないように」と非常に厳しい罰則付きの布告を発した 。
→ このチェーザレのウルビーノ侵攻は、近隣諸国に驚きと恐怖を与える
22日
 
フィレンツェ、チェーザレの下へ特使を派遣
司教フランチェスコ・ソデリーニと外交官ニッコロ・マキァヴェッリ
出発してからウルビーノ陥落の報を受け取り、ウルビーノへ向かう
24日マキァヴェッリ、ウルビーノに到着
 チェーザレは、アレッツォに対するヴィテロッツォ・ヴィテッリの侵攻に、一切関与していないことを強調し、以前フィレンツェと交わされた傭兵契約料4万ドゥカートの支払いを求める。
そしてその契約が遂行されるならば、フィレンツェに対して何ら企てるところはない、と言明。
「私の目的はこの国を圧迫することではない。圧制者を駆逐することだ」
フィレンツェは、フランス王を頼みにして、返答を引き伸ばす。
25日マキァヴェッリとフランチェスコ・ソデリーニ、デュカーレ宮殿でチェーザレに面会


マキァヴェッリはチェーザレの態度、気迫に感銘を受ける。
「この君主はすばらしい器の持ち主である。
権力と栄光のためなら、休息するということを知らず、疲れや苦痛を恐れない。
部下を扱うこつを心得ており、最良の軍隊を組織している。
卓越した論理をあやつり、巧みに脅迫を用いて交渉を有利に進める。
そして、例を見ないほどの幸運に守られている。」


6月24日
 
サン・マリーノ共和国、チェーザレに降服、協定を結ぶ
チェーザレの代理レミーロ・デ・ロルカと
26日マキァヴェッリ、ウルビーノを去る
ソデリーニは7月末まで滞在
28日グイドバルド・モンテフェルトロ、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレに手紙を書く
ウルビーノからマントヴァに逃れ、ゴンザーガ家の宮殿に身を寄せたことを知らせる
30日
 
 
イザベッラ・デステ、ウルビーノ公のコレクションであったミケランジェロのキューピッド像を入手できないかと弟のイッポーリト・デステに手紙を書く
→ チェーザレは求めに応じてこれを贈っている
7月3日チェーザレ、ウルビーノを発ちファブリアーノへ
→ カメリーノ攻略について指揮するため(とヴェネツィア大使ジュスティニアンが書いている。)
7日フランス軍、アスティに到着
ナポリ支配に関してのスペインとの衝突を解決するため、でもあったが、チェーザレを牽制するためでもあった。
19日
 
フィレンツェ、チェーザレとの交渉を打ち切る
フランス軍の到着で強気に
20日カメリーノ陥落
フィレンツェと交渉中にも、チェーザレはフランチェスコ・オルシーニオリヴェロット・ダ・フェルモにカメリーノを攻囲させていた。
カメリーノの領主ジュリオ・チェーザレ・ヴァラーノ(70)と二人の息子とアンニーバレとヴェナンツィオは捕虜となり別々の城塞で監禁、やがて処刑される。彼らもまた、ミゲルの手にかかったとされている。
→ ウルビーノ公と違って、ヴァラーノ家は民衆の支持を得ていなかった。厳しい措置をとって然るべきだった。
ミゲルはかなり残酷な拷問を加え彼らを殺害したよう。
チェーザレ配下の傭兵隊長たち、オルシーニの面々、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、パンドルフォ・ペトゥルッチ、ジャンパオロ・バリオーネらは、ウルビーノとカメリーノの攻略で動揺し始める。
彼らもそれぞれ小国ではあるが、一国の領主(僭主)たちであったから。
チェーザレの下に従軍していても、いつ自分が攻撃されることになるかわからない。
29日
 
チェーザレ、ヴィテロッツォにアレッツォを放棄させる
フランス王ルイに配慮
渋るヴィテロッツォにチェーザレは「直ちにアレッツォから退却しなければ、自軍を率いて攻撃する」と言って脅した




ルイ12世との談合

1502年(27歳)

7月25日
 
チェーザレ、ミラノのルイ12世の下へ向かう
4人の供のみで
 チェーザレと連絡がとれなかったらしいレオナルド・ダ・ヴィンチは「ヴァレンティーノ公はどこに行ってしまったんだ?」とノートに記している(かわいい)
28日
 
チェーザレ、フェラーラへ到着
死産の後病床にあったルクレツィアを見舞う
アルフォンソ・デステ、チェーザレに同行してミラノへ
イタリア中の君主がミラノに集まっている。彼らは対チェーザレとして意見がまとまっており、ルイをこれに引きこもうとする。
→ フランス王の力を頼らなければ力不足
-ウルビーノを奪われた グイドバルド・モンテフェルトロ
-カメリーノ領主ヴァラーノ家唯一の生き残り ジャンマリア・ヴァラーノ
-ペーザロを奪われた ジョヴァンニ・スフォルツァ
−ボローニャを攻撃されそうな ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオ
-マントヴァとはいえ安心はできない フンチェスコ・ゴンザーガ
-圧迫され続けている フィレンツェ特使
8月5日チェーザレ、ルイ12世と再会
チェーザレはイェルサレム騎士団の制服でルイと対面。
→ チェーザレのイタリア征服は、教皇領を統べるため、キリスト教会の発展のため、ということを暗に示す。
周囲の思惑に反し、ルイはチェーザレを熱烈に歓迎する。自らが丁重に迎え、部屋に案内し、自身の衣類や馬を自由に使うようにと勧める。祝宴を設け、歓待する。
→ チェーザレの侵攻に懸念と怒りを感じていたものの、ルイはチェーザレ、教皇と改めて協定することを選ぶ。
→ ナポリ制圧のため、チェーザレと教皇の支援が必要。
また、ミラノとナポリの領有を快く思わないヴェネツィア、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアンの不穏な動き、スイス人との小競り合い、スペイン王との決裂など、周囲の状況が、チェーザレまでも敵にすることを許さなかった。
→ またルイの腹心ルーアンの枢機卿ジョルジュ・ダンボワーズも、教皇庁での出世のために、ルイとボルジアの同盟維持を望んでいた。
→ フランス軍がチェーザレに対して進撃するものと予想していた周囲の人々は愕然。
8月18日
 
チェーザレ、レオナルド・ダ・ヴィンチにロマーニャ全域の通行証を用意する
レオナルドが後にサライに与えたというチェーザレのマントは、この時下賜された



ロマーニャの支配と自軍の設立

1502年(27歳)

9月上旬チェーザレ、ロマーニャの支配体制を整える
レミーロ・デ・ロルカには軍事方面だけを任せ、法律家アントーニオ・デル・モンテを行政官に任命する

また領民から成る自軍(市民兵)を形成するため一家に1人を徴兵、軍事訓練と指揮をミゲル・ダ・コレッラに任せる
補佐にはディオニージ・ナルドがついた。
→ もともとロマーニャは治安が悪く戦いの多い地域だったので(だから城塞が非常に多い)、住民は戦闘に慣れていて軍として組織しやすかった。
兵士たちは赤と黄の地にcesareと書かれた軍服を着用し、ドイツ製の長槍を武器とした。
農民を兵士として利用することも兵士に軍服を着用させることも先駆け的なことであり、チェーザレの発想の豊かさが伺える。
徴兵によりファノで1200、イモラで1000の新兵を獲得することになる。
彼らは自分たちの生活の場を守るため、金で雇われた傭兵よりもずっと熱心な兵士となった。









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