チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

1499年〜1500年


1499年〜1500年

チェーザレの進撃・・・イモラ、フォルリ

チェーザレ軍の旗印
Aut Cesare aut nihil
(チェーザレ(=皇帝の意味をも持つ)か、無か)


アレクサンデル6世はローマの貴族カエターニ家の所領地セルモネータを没収。同地をルクレツィアに与えた。
続いて、教会税の未納を理由に、ロマーニャ諸都市の領主を破門。
チェーザレの進撃理由「教皇領を教皇の手に」という大義名分が作られる。


1499年(24歳)

11月9日チェーザレ、イモラ、フォルリ攻略に向けてミラノを発つ
イモラとフォルリはカテリーナ・スフォルツァの所領地。
-1・イル・モーロの敗走によりスフォルツァの力が衰退
-2・フォルリはロマーニャ地方の要
という2点で第一の攻略先となる。
ピアチェンツァ → パルマ → レッジョ → モデナと行軍。
  • ルイに借りた軍
    イヴ・ダルグレ率いる1700の槍騎兵
    アントワーヌ・ド・ベーセ、バリ・ディ・ディジューノ率いるガスコーニュとスイスの歩兵4000
  • イタリアの傭兵隊長の軍
    アキッレ・ティベルティ
    エルコレ・ベンティヴォーリオ
    ヴィテロッツォ・ヴィッテリ

    総勢1万6000


11月25日
 
チェーザレ、イモラ入城
イモラの民衆はカテリーナの弾圧と恐怖政治を憎んでいたので、抵抗は皆無
12月13日
 
イモラ陥落
イモラの武将ディオニージ・ディ・ナルドは後にチェーザレの側近に
12月19日
 
チェーザレ、フォルリ入城
→ カテリーナは2000の兵とともにラヴァルディーノの城塞にこもる
12月26日カテリーナの姦計、失敗
無血開城を望むチェーザレは、城塞の跳ね橋の前で、カテリーナに降服をうながす。カテリーナは言葉巧みに彼を城内にいざなう。チェーザレが橋を渡るや否や、跳ね橋を上げ、捕虜としてしまおうという企み。しかしカテリーナの兵士はチェーザレが渡りきる前に橋をあげ始めてしまい、姦計は失敗に終わる。

1500年(25歳)

1月12日チェーザレ軍、城塞に突入
カテリーナは甲冑をつけ剣を構え自ら前線に立つ。抵抗が不可能とわかった時、自分ごと城を爆破しようとするが、味方の兵士の裏切りにより降服、捕虜となる。
→ フォルリ陥落 400(700という説も)の死者。
チェーザレはカテリーナとともに一昼夜寝室にこもる。この行為は騎士道精神の強いフランス軍隊長イブ・ダレグルなどに非難されるが、カテリーナが自らを餌にして、取引を申し出た可能性もある、とされる。


チェーザレは従来当然のように行われていた、征服地での略奪を厳しく禁じる。違反者は将校であっても死罪とした。
→ 民心をつかむため→後にマキァヴェッリが「君主論」にて賞賛

そして総督と城代は自分の部下を配置したが、それ以外の代表委員会や長老は従来のままにし、行政を任せた。
→ イモラとフォルリの総督にはレミーロ・デ・ロルカを任命。

カテリーナはローマに送られ、カステル・サンタンジェロに幽閉される。


1月14日チェーザレのいとこ甥のホアン・ボルジア(シレンツィオ)、死去
チェーザレの勝利を祝福するために、ウルビーノからフォルリへ向かっていた。その旅の途中、フォッソンブローネにおいて、熱病により死去。
チェーザレによる暗殺説などがささやかれたが根拠は全くない。
23日チェーザレ、ペーザロ攻略に向け、フォルリを発つ
しかしチェゼーナに着いたところで、フランス兵4千300がミラノへ引きかえすことに。
→ イル・モーロ(ルドヴィーコ・スフォルツァ)が神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアンの援助を受け、スイス傭兵隊を率いてコモを占領、ミラノ城外に迫っていた。
→ イヴ・ダルグレ指揮下のフランス軍はこれに対抗するため、ミラノへ。
→ ペーザロ進軍は一時停止を余儀なくされる。
2月26日チェーザレ、ローマへ凱旋帰還
戦利品を積んだ荷車
フランス王の白百合の紋章をつけた伝令官とボルジアの牡牛の紋章をつけた伝令官
スイス槍兵
騎馬隊
護衛隊
幕僚を従えたヴィテロッツォ・ヴィッテリ
黒繻子の胴衣をまとい聖ミカエル騎士団の勲章を首にかけたチェーザレ

枢機卿、大使、聖庁秘書官、市吏員らがポポロ門で迎える。
サンタンジェロの祝砲、教会の鐘が鳴り響く。


1500年は聖年であったため20万人もの巡礼者がヴァティカンを訪れ、教皇からの祝福を受けた。教会の(つまりアレクサンデルとチェーザレの)金庫は信者たちの供物でうるおった。

フォッソンブローネで急死したホアン・ボルジア(シレンツィオ)の遺体は、1月27日、ローマへ運ばれサンタ・マリア・デル・ポポロ教会へと埋葬された。
チェーザレの凱旋に湧いていたせいか、葬儀も追悼式典も行われない寂しい埋葬だった。


3月9日チェーザレ、ロマーニャの教皇代理官に任命
29日
 
チェーザレ、教皇軍総司令官に任命
「金のバラ」「教会の旗手」の称号も授与
6月24日
 
チェーザレ、闘牛をする
聖ヨハネの日、カーニヴァルの催しのひとつとして、サン・ピエトロ広場にて
6月29日
 
ヴァティカンに落雷
→ 3人死亡。アレクサンデル6世、頭に怪我
 この出来事はチェーザレに警鐘を鳴らす。すなわち、教皇である父を亡くした時、チェーザレの地位はいとも簡単に崩れ去ってしまう。彼は教皇にもしものことがあった場合を鑑み、ヴェネツィアとフランスに支持の確約をしている。
7月15日ビシュリエ公、アルフォンソ・ダラゴーナ襲撃される
→ サン・ピエトロ広場にて
落雷により怪我を負った教皇を見舞い、妻ルクレツィアと妹サンチャと、夕食をともに過ごした帰途、数人の刺客に襲われる。頭と右腕と脚を刺され、重傷を負う。
8月18日アルフォンソ・ダラゴーナ死亡
ヴァティカン内のボルジアの間で看護され、回復に向かっていたが、ミゲル・ダ・コレッラの手によって絞殺される。
チェーザレは、
「ビシュリエ公は私を殺害する陰謀を企てていた。ゆえに今度の事件は正当防衛である」
と公式弁明をだす。


アルフォンソ暗殺におけるチェーザレの動機

  1. フランスと手を結んだ今、ナポリ王家と関係を保持する意味は失われた
  2. ルクレツィアが夫を亡くせば、再び利用できる
  3. ルクレツィアがナポリとつながっているせいで、教皇が反ナポリに踏みきれていない
  4. ナポリ征服を狙うルイ12世に忠誠を示す
  5. 反教皇の立場を崩さないコロンナ一族と親しい関係にあった


8月31日
 
ルクレツィア、ネピの城にこもる
→ 11月まで
9月アレクサンデル6世、新たに12人の枢機卿を任命
教会に納められる謝礼は、チェーザレの戦費に
(他にも十字軍遠征を理由にユダヤ人や聖職者に多額の税を課している)


その頃、ミラノ公イル・モーロは再びフランス軍と激突するも、ノヴァラにて完敗。4月10日捕虜となる。ミラノは再びフランスの都市に。
イル・モーロは以後フランスのロッシュの塔に幽閉され、捕囚生活を送り、10年後その生涯を終える。
(弟のアスカーニオ枢機卿も捕われ、フランス、ブールジュのボルジェスの塔に幽閉される)
→ ミラノの軍師だったレオナルド・ダ・ヴィンチはこれで後ろ盾を失い、やがてチェーザレの許を訪れることになる。






チェーザレの進撃・・・チェゼーナ〜 ファエンツァ

1500年(25歳)

フランスのミラノ攻略完了
→ チェーザレは再びフランス軍の力を借りることができるように
→ 第2次攻略へ(教会の現金収入で資金も潤沢)

目標はロマーニャ地方の残り、チェゼーナ、リミニ、ペーザロ、ファノ、ファエンツァ


  • チェゼーナ
    • 2大勢力 
      ●ティベルティ家
      ●マルティネッリ家

      両家に対し、教皇の関心が相手側に向いているとの偽情報を流す
      → 両家の争いから血の流れる事件に
      → 解決のため、教皇は新たな支配者の必要を説く

8月2日
 
教皇教書により、チェーザレ、チェゼーナの領主に
ローマから一歩も動かずに!


8月8日
 
 
 
 
 
アレクサンデル6世、
リミニのマラテスタ家

ファエンツァのマンフレディ
ペーザロのスフォルツァ家、を破門
→ 攻撃の前段階
→ ヴェネツィアからの抗議はなし(ヴェネツィアはこれらの都市を保護する立場にあった)
9月30日
 
9月30日 チェーザレ、自軍を閲兵
サン・ピエトロ広場にて
 イヴ・ダルグレ率いるフランス軍
パオロ・オルシーニ
ヴィテロッツォ・ヴィッテリ
ジャンパオロ・バリオーニ
エルコレ・ベンティヴォーリオなどの率いる傭兵軍


  • ペーザロ
10月11日
 
ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ、逃亡
→ ボローニャ、次いでマントヴァへ
21日チェーザレ軍、ペーザロを占拠
27日
 
チェーザレ、ペーザロへ無血入城
→ 午後4時、土砂降りの雨の中


  • リミニ
    • 当主
      ●パンドルフォ・マラテスタ(暴君であり、民衆の支持なし)
10月10日
 
リミニ、落城
パンドルフォはヴェネツィアに逃亡
30日チェーザレ、リミニへ無血入城
チェーザレは防衛施設を点検し、市民生活の平穏化に努める。
10月18日
 
 
チェーザレ、ヴェネツィアの貴族に
→ ヴェネツィアの同盟者として公に認められる
→ ファエンツァはヴェネツィアの助力を期待できなくなる
  • ファノ

    城塞の引渡しを命じるが城代は拒否
    → 砲撃と略奪と放火
    → あえなく降服
    → イタリア諸国の、チェーザレに対する恐怖が高まる

  • ファエンツァ
    • 当主
      ●アストール・マンフレディ(15)

      若さと美貌、幼少時の悲劇により、民衆に人気
      → 民心は少年の下に一致団結
      → チェーザレにとって何千の兵より手ごわい敵に

11月1日11月1日 チェーザレ軍、ファエンツァを包囲
17日
 
 
チェーザレ軍、ファエンツァに砲撃開始
→ 大量の死者
→ チェーザレの士官の一人、オノーリオ・サヴェッリ死亡
ファエンツァの守りは堅固。さらに大雪という悪天候がチェーザレ軍の前進を阻止する。
→ ファエンツァは城塞周辺の樹木や家屋を焼き払っており、野外での宿営も困難に。
11月26日
 
 
チェーザレ、ファエンツァ攻囲を中断
→ ジャンパオロ・バリオーニは勝手にペルージャへ帰ってしまう
  (当時の傭兵とはこんなものだった)
12月3日
 
 
チェーザレ軍、撤退を開始
→ しかし町の封鎖はそのままに
  ミゲルが指揮を任される
12月24日
 
 
チェーザレ、クリスマスをチェゼーナで過ごす
民衆に混じってこの地方の祭りや娯楽を楽しむ
彼の分けへだてない態度は、民衆の間に絶大な人気を獲得する


ミゲル。





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