1496年〜1498年
1496年〜1498年
ホアンの進撃
1496年(21歳)
6月 | ホアン、スペインからローマへ戻る 父アレクサンデル6世の命により |
シャルル8世のイタリア侵入によって、教皇軍の充実の必要性を痛感。長男ペドロ・ルイスはすでに亡く、次男のチェーザレは僧籍にあるので、三男のホアンを教皇軍総司令官にしようと意図 | |
12月26日 | ホアン、教皇軍総司令官に任命 → サン・ピエトロ寺院にて |
1497年(22歳)
教会の勢力拡大の邪魔になる、ローマ近郊の豪族を第一のターゲットに。
ローマから50キロのブラッチャーノを拠点に、ローマ北部を支配するオルシーニと開戦。
(オルシーニはシャルルの侵攻時にフランスに寝返ったので、攻撃の理由は充分にあった。)
副将はウルビーノ公爵グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ
コロンナ家、スフォルツァ家、ナポリ王も教皇を支持。ヴェネツィアも同意。
カンパニァーノ、ラングイララ、トリヴィアーノの城塞が陥落。
しかしバルトロメア・オルシーニ(♀)(バルトロメオ・ダルヴィアーノ(♂)という説も)の指揮するブラッチャーノの城塞をどうしても落とせない。
この頃、戦況を丘の上から望見していたチェーザレは、クローチェ・ア・モンテマリまで行軍したオルシーニ軍に、間一髪、捕らえられそうになっている。
教皇は日ごとに兵を増強。ナポリで戦っていたドイツ歩兵800をも加える。
オルシーニ軍にはカルロ・オルシーニ、ヴィテロッツォ・ヴィッテリが加わる。
両軍はバッサーノ・イン・テヴェリーナで激突。
ヴィテロッツォ軍の、通常よりも長い槍で武装させた歩兵が活躍する。
→ 800人の戦死者を出し、グイドバルドは捕虜に。
ホアンはロンチリオーネへ逃走。
オルシーニをあきらめ、ローマの南を支配する反ボルジア派のオスティア(ローヴェレの所領地)を狙う。が、ホアンの軍は戦果をあげられない。
→ アレクサンデルは、外部に助力をもとめる。
- ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ
(スペイン人武将。スペイン王フェルディナンドの家臣) - プロスペロ・コロンナ
(ゴンサロの軍の副将)
二人の力で、あっさりとオスティア落城
→ ゴンサロへ「金のバラ(ローザ・ドーロ)」(教皇が一般人に与える最高の褒賞)授与
→ ホアンの評判は地に落ちる
ホアンの死
戦闘が終わり規律を失った兵士による犯罪が頻発し、ローマは荒廃する。
ホフレの妻サンチャとホアン、チェーザレの淫蕩な関係の噂。
ルクレツィアの夫ジョヴァンニ・スフォルツァのローマからの逃亡。
1497年(22歳)
6月4日 | ルクレツィア、サン・シストの修道院に閉じこもる |
6月9日 | ナポリ新王戴冠式教皇代理にチェーザレ任命 |
前年1496年9月7日、ナポリ王フェルディナンド2世が27歳で死去。伯父フェデリーゴとフランス王が再び王位をめぐり対立する。フェデリーゴは教皇に王位継承権の承認をもとめ、教皇はベネヴェントの地と引きかえにこれを認めた。 → 教皇はベネヴェントをホアンに与え、公国にすることに | |
6月14日 | ヴァノッツァ、宴席を催す |
ヴァノッツァ邸に、チェーザレ、ホアン、ルクレツィア、ホフレ、サンチャ、従兄弟のホアン(シレンツィオ)と集まり会食。 その後、テヴェレ河付近での姿を最後に、ホアン、行方不明に。 | |
6月16日 | ホアン、遺体で発見される |
ポポロ広場近くのテヴェレ河の底から。全身に9つの刺し傷、のどへの一突きが致命傷。財布には30ドュカーティ。サンタ・マリア・デル・ポポロ教会へ埋葬される。 |
7月5日 | アレクサンデル6世、ホアン殺害事件の捜査を打ち切る |
7月22日 | チェーザレ、ナポリ王戴冠式のためローマを発つ |
8月19日 (10日の説も) | チェーザレ、カプア大聖堂にて、フェデリーコに戴冠 |
12月22日 | ルクレツィア、ジョヴァンニ・スフォルツァと離婚 |
カトリック世界で離婚は認められないが、ジョヴァンニの性的不能を理由に、「結婚は履行されていない=白い結婚だった」として問題を解決。 |
1498年(23歳)
2月22日 | ホアン殺害容疑者にチェーザレの名が浮上 |
- 「教皇は殺害についてあらゆる情報を握っているが、事を公にすることを望んでいない。それは犯人が重要な人物であるからである」・・・フィレンツェの使者ブラッチの報告書
- 「ガンディア公(ホアン)の死は枢機卿の兄によるものに違いないということです」・・・フェラーラの情報官アルベルト・デッラ・ピーニャの手紙
しかし、結局ガンディア公爵ホアン・ボルジア殺害の真相は解明されずに終わる。
(教皇庁書記官、ドイツ人ブルカルドの日誌は、1497年6月14日からしばらくの間が欠けているらしい)
この頃、ルクレツィアはサン・シストの修道院で妊娠、出産している。子どもはインファンテ・ロマーノ(ローマの子)と呼ばれ、ホアン(ジョヴァンニ)と名づけられる。おそらくアレクサンデル6世の侍従であったスペイン人ペドロ・カルデロン(愛称ペロット)が父親であろうと言われている。
2月11日、ペドロ・カルデロンはルクレツィアの侍女とともに、遺体となってテヴェレ河で発見される。彼らの死の真相は不明。
4月7日 | シャルル8世死去 → オルレアン公ルイ12世が新王に |
5月23日 | サヴォナローラ処刑 → フィレンツェはピエロ・ソデリーニ政権の共和国に |
6月10日 | ルクレツィアとビシュリエ公アルフォンソ・ダラゴーナの結婚が決定される |
7月21日 | ルクレツィア、ビシュリエ公アルフォンソ・ダラゴーナと再婚 |
アルフォンソ・ダラゴーナは、ナポリ王だったアルフォンソ2世の庶子で、ホフレの妻であるサンチャの弟。現ナポリ王フェデリーゴの甥。 (ナポリ攻略を狙い、ナポリ王女カルロッタとの結婚を考えたチェーザレはその前段階として、この結婚を決定する) |
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