チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

1496年〜1498年




1496年〜1498年

ホアンの進撃

1496年(21歳)

6月1日
 
アレクサンデル6世、オルシーニ家に問責と財産没収の勅令
→ フランス軍に寝返り支持したため
8月
 
ヴィルジニオ・オルシーニ、その息子のジャンジョルダーノ、その従兄弟のパオロ、カステル・ウォーヴォ(ナポリの卵城)に拘束される
8月
 
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、ロンバルディアに入る
→ 遅すぎた介入で事態にほとんど影響なし
夏ごろ
 
 
 
オルヴィエートにてチェーザレ・バンディーノ・デッラ・ピエーヴェが反乱を起こす。
→前支配者であったバリオーニの手引きによるもの
チェーザレはバリオーニに対して慇懃な手紙を書きこれを牽制した。
加えてミゲル・ダ・コレッラをオルヴィエートに派遣した
9月7日ナポリ王フェルディナンド2世死去、叔父のフェデリーコ1世が次王に
10月10日

 
ホアン、スペインからローマへ戻る
教皇庁軍の指揮官としてフランス軍と戦うはずだったが、到着が1ヶ月遅れた。参加するはずだったアテッラでの攻囲はもう終わっていた

 
しかしタラント、ガエタ、オスティアなどは1年以上フランスの占領下だった
→ イタリアの戦闘の緩さ
10月26日
 
ホアン、教皇庁軍総司令長官に任命される
→ サン・ピエトロ寺院にて
翌日ホアン、まずアンギラーラへ進軍
(アンギラーラはオルシーニへの割譲を教皇が承認していなかった街で、ローマの北に位置し、オルシーニの本拠地ブラッチャーノの手前にあり、要衝だった)→ 目的はブラッチャーノ陥落
副官にウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ(実質の総司令官)、ファブリツィオ・コロンナ、ルナーティ枢機卿(破門と職務停止宣言係)、ルクレツィアの夫ジョヴァンニ・スフォルツァも同行
コロンナ家、スフォルツァ家、ナポリ王も教皇を支持。ヴェネツィアも同意。
オルシーニは小部隊を編成し応戦、教皇庁軍がローマと連絡できないほど奮闘した
11月末
 
 
 
アンギラーラ、カンパニァーノ、トリヴィアーノ、スクロファーノ、ガレーラ、フォルメッロなど小規模の城塞は陥落
しかしオルシーニを支持する傭兵隊長バルトロメオ・ダルヴィアーノが善戦、ブラッチャーノは陥ちない
 このころ、湖の近くの荒地で狩りをしている時、戦況を丘の上から望見していたチェーザレは、クローチェ・ア・モンテマリまで行軍したオルシーニ軍に、間一髪捕らえられそうになっている
教皇庁軍、総攻撃に出るが失敗。グイドバルド・モンテフェルトロ、負傷。ホアンが唯一の指揮官となる
12月半ばアレクサンデル6世、スペイン人武将ゴンサロ・デ・コルドバに助力を求める
ヴェネツィア、スフォルツァは講和を勧めるようになる
 → アレクサンデル6世は耳を貸さず、日ごとに兵を増強。ナポリで戦っていたドイツ歩兵800をも加える
 オルシーニ軍にはカルロ・オルシーニ(ヴィルジニオの息子)、ヴィテロッツォ・ヴィテッリが加わる
→ 新式(フランス式?)の大砲と槍兵の精鋭部隊を従えていた


1497年(22歳)

1月15日ヴィルジニオ・オルシーニ、獄中で病死
同日教皇庁軍、2回目の総攻撃。しかし再び失敗
24日
 
 
 
両軍はオリオロとバッサーノの間で激突。
ヴィテロッツォ軍の、通常よりも長い槍で武装させた歩兵が活躍する。
→ 800人の戦死者を出し、グイドバルドは捕虜に。ホアンは顔に軽い傷を負い、ロンチリオーネへ逃走。


2月
 
 
アレクサンデル6世、オルシーニと講和(ヴェネツィアの仲立ちにより)
オルシーニ家がフランスと同盟する自由を承認
オルシーニは占領していたカステッリを返却し5万ドゥカートを納める
(しかし捕虜としたグイドバルドから身代金を取れたのでチャラ)
 → オルシーニ攻略ならず
→ 教皇庁の権威が失墜し、教皇領の各地で武装蜂起が繰り返されるように


2月21日
 
 
スペイン人武将ゴンサロ・デ・コルドバ 、アレクサンデル6世の依頼でオスティアを攻囲
 オスティアはデッラ・ローヴェレの所領でフランス軍に委ねられていた
  • ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ
    (スペイン人武将。スペイン王フェルディナンドの家臣。ナポリからフランス軍を駆逐するためスペイン両王によってイタリアに派遣されていた)
  • プロスペロ・コロンナ
    (ゴンサロの軍の副将)

二人の力で、あっさりとオスティア落城

3月15日ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ、ローマに凱旋帰還
 → ゴンサロへ「金のバラ(ローザ・ドーロ)」(教皇が一般人に与える最高の褒賞)授与
 → ホアンの評判は地に落ちる
5月13日アレクサンデル6世、ジローラモ・サヴォナローラを破門する


1495年6月(シャルル8世を避けてアレクサンデル6世とともにペルージャに行き、27日にローマに戻って以来)から1497年3月まで、チェーザレに関する記述は少なく、彼の動向ははっきりしない。
ペニテンツィエリ宮を出てヴァティカンにいたようではある。

この彼の静けさを「チェーザレは教皇の右腕でありボルジアの第一後継者であった地位を、ホアンに譲った」ととらえる説もあるし、
「チェーザレの還俗はこの頃から水面下で計画されていた(もちろんアレクサンデル6世の了解のもとに)」とする説もある。




ホアンの死

戦闘が終わり規律を失った兵士による犯罪が頻発し、ローマは荒廃する。
ホフレの妻サンチャとホアン、チェーザレの淫蕩な関係の噂。
ルクレツィアの夫ジョヴァンニ・スフォルツァのローマからの逃亡。

1497年(22歳)

6月6日ルクレツィア、サン・シストの修道院に閉じこもる
8日ナポリ新王戴冠式教皇代理にチェーザレ任命
前年1496年9月7日、ナポリ王フェルディナンド2世が27歳で死去。叔父フェデリーゴとフランス王が再び王位をめぐり対立する。フェデリーゴは教皇に王位継承権の承認をもとめ、教皇はベネヴェントの地と引きかえにこれを認めた。
→ 教皇はベネヴェントをホアンに与え、公国にすることに
6月14日ヴァノッツァ、宴席を催す
ヴァノッツァ邸に、チェーザレ、ホアン、ホフレ、サンチャ、従兄弟のホアン(シレンツィオ)と集まり会食。
ホアンは最近よくつるんでいる友人を連れていた
ヴァティカンに戻る途中、副尚書館の前でホアンは別れる
謎の友人と従者とともに
その姿を最後に、ホアン、行方不明に。
15日夜
 
ホアンの捜索が開始される。
ボルジア家配下のスペイン人たちが街を走りまわり、殺気立った様子にオルシーニコロンナ家も武装した
ホアンの従者が発見される。が重症で口がきけない
→ 後に死亡
16日ホアン、遺体で発見される
ポポロ広場近くのテヴェレ河の底から。全身に9つの刺し傷、のどへの一突きが致命傷。マントも上着も着けたまま、手袋と短剣もベルトに結ばれたまま。財布には30ドュカート。
 身元不明の謎の友人は失踪

目撃者の材木商ジョルジョ・スキアヴォニ(積荷の材木を見張るため、テヴェレ河畔の小舟で夜明かししていた)の証言

丸太を見張りながら船で休んでいると、真夜中ごろ、2人の男がスラヴォニア難民病院(現在はサン・ジローラモ教会)横の路地(リペッタ通り)を歩いて来た。(スラヴォニア難民=トルコ侵略で逃げて来た人たちのこと)

彼らは川沿いの道を歩きながら、テヴェレ河周辺に人がいないか注意深く見ていたが、誰もいなかったので路地に戻って来た。

しばらくすると、同じ通りから他の2人の男が現れ、最初の2人と同じことをし、ひと気がないことを確認して合図らしきことをした。

すると、白馬に乗った男が現れた。馬の背には死者のようなものが乗せられていて、頭と腕は片側に、足はもう片側にぶら下がっていた。

死体が転がり落ちないように支えていたのは、最初に見た2人の男だった。

一行は河に流れ込む下水道の端を横切ったところで立ち止まった。
馬は尻尾を河の方に向けられ、徒歩の1人が遺体の腕を、もう1人は脚をつかんで、馬から引きずり下ろした。そして、力いっぱい河に投げ捨てた。

馬上の男が「死体は沈んだのか」と聞くと「はい」と答えたが、マントが浮いているのが見えた。

その黒いものは何かと尋ねると、マントだというので、石を投げつけて水の中に沈めさせた。
マントが消えたのを確認すると、5人全員がサン・ジャコモ教会に通じる通りを進み姿を消した。

※この目撃者の証言はどのボルジア本でも割と詳細だが、それはブルカルドが上記のように詳細に記して残しているため。

17日ホアン、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会へ埋葬される。
 松明が200以上灯される盛大な式(普通は20くらい)


容疑者

  • アスカーニオ・スフォルツァ・・・ボルジアとスフォルツァの関係はシャルル8世の侵攻から破綻していた。最近ホアンとの口論がエスカレートし従者を殺されていた。またホアンは彼の邸宅のそばで行方不明になっていた。
  • ジョヴァンニ・スフォルツァ・・・ボルジアにとっての利用価値はもうないのにルクレツィアの夫である身は居場所がなく、進退きわまっていた。

上記の容疑者をアレクサンデル6世は正式に否定している。
(当時、アレクサンデル6世は思わせぶりな発言をしていて(「誰がやったか知っている」と事件直後につぶやいている)犯人を知っていると思われていた。
(でも事実はわからない)

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  • ホフレ・ボルジア・・・妻サンチャをホアンに奪われた。

ただの下世話なゴシップと思われる。

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  • オルシーニ・・・先立っての戦闘での恨み。一族の長ヴィルジニオ・オルシーニはボルジアに捕われて獄死した。

有力な説。
ガンディアの研究家でもあった歴史家コンスタンチン・ホフラーは、オルシーニ家が犯人と断定している。
また、ボルジア家は犯人をオルシーニと知っていて、だからチェーザレはシニガリア事件オルシーニ家の2人を処刑し枢機卿を投獄したと捉える説も強い。

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  • スペイン王国
    スペイン王フェルナンド2世はシャルル8世と同様にナポリ引いてはイタリア支配を目論んでいた。かつてアラゴン王国の配下にあったボルジア家がローマ教皇としてイタリアに影響力を持っていることは、彼にとって有益なコマだった。ホアンはコマとして動いてもらうための人質だった。
    なのに今ではスペインの手を離れローマにおり、ベネヴェント公国を得ようとまでしている。
    ボルジアの力をこれ以上強大にさせるわけにはいかなかった。

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その他、何名かの枢機卿、放蕩者だったホアンに妻を寝取られた者、などなど・・・


6月19日
 
アレクサンデル6世、枢機卿と各国大使を招集
→ スフォルツァモンテフェルトロへの疑惑を完全否定し、教会改革することを宣言
 ピッコローミニリアーリオを含む6人の枢機卿が改革委員会として選ばれる
教皇庁役職売買の禁止、司教区の授与についての規則など様々な勅書草案が起草される。が、1ヶ月後には委員会は事実上解散する
 → アレクサンデル6世の改革宣言の不履行はやる気がなくて続かなかったのではなく、息子を暗殺されるという恐ろしい悲劇を周囲に利用されることがないよう、教皇に悪意のある者を油断させ、教会とその教徒を安心させ、名のある枢機卿たちに奉仕させ、彼が支配力と指示力を維持できるように巧みに手配されたものだった。
と最近は捉えられている
7月5日アレクサンデル6世、ホアン殺害事件の捜査を打ち切る
7月22日チェーザレ、ナポリ王戴冠式のためローマを発つ
8月2日
 
 
チェーザレ、カプアで病にかかる
→ ホフレとサンチャが看病のため駆けつける
幸い順調に回復する
8月19日
(10日の説も)
チェーザレ、カプア大聖堂にて、フェデリーコに戴冠
 
 
9月25日チェーザレ、ローマに戻る
 この頃からチェーザレの還俗の話題があちこちで上りはじめる。
チェーザレの花嫁候補として、ホフレの妻サンチャや前ナポリ王フェルディナンド2世の未亡人ジョヴァンナなどの名が噂される
 教皇庁領であるチェゼーナとファノ、ボルジア家世襲の総督を置くことを決められる
10月28日チェーザレ、アレクサンデル6世とともにオスティアへ
狩りなどして5日間をそこで過ごす
 → オルシーニを警戒して400の騎兵と600の歩兵を伴っていた
11月28日チェーザレ、再びオスティアへ
12月3日
 
ホアン・ボルジア(シレンツィオ)、ロマーニャとウンブリアの視察から戻り、当地の荒廃ぶりを報告する


12月12日ルクレツィア、ジョヴァンニ・スフォルツァと離婚
カトリック世界で離婚は認められないが、ジョヴァンニの性的不能を理由に、「結婚は履行されていない=白い結婚だった」として問題を解決。

1498年(23歳)

2月22日ホアン殺害容疑者にチェーザレの名が浮上


  • 「教皇は殺害についてあらゆる情報を握っているが、事を公にすることを望んでいない。それは犯人が重要な人物であるからである」・・・フィレンツェの使者ブラッチの報告書
  • 「ガンディア公(ホアン)の死は枢機卿の兄によるものに違いないということです」・・・フェラーラの情報官アルベルト・デッラ・ピーニャの手紙


しかし、結局ガンディア公爵ホアン・ボルジア殺害の真相は解明されずに終わる。
(教皇庁書記官、ドイツ人ブルカルドの日誌は、1497年6月14日からしばらくの間が欠けているらしい)

この頃、ルクレツィアはサン・シストの修道院で妊娠、出産している。子どもはインファンテ・ロマーノ(ローマの子)と呼ばれ、ホアン(ジョヴァンニ)と名づけられる。おそらくアレクサンデル6世の侍従であったスペイン人ペドロ・カルデロン(愛称ペロット)が父親であろうと言われている。

2月11日、ペドロ・カルデロンはルクレツィアの侍女とともに、遺体となってテヴェレ河で発見される。彼らの死の真相は不明。


4月7日

シャルル8世死去
→ オルレアン公ルイ12世が新王に
5月23日

サヴォナローラ処刑
→ フィレンツェはピエロ・ソデリーニ政権の共和国に
6月10日ルクレツィアとビシュリエ公アルフォンソ・ダラゴーナの結婚が決定される
7月21日ルクレツィア、ビシュリエ公アルフォンソ・ダラゴーナと再婚
アルフォンソ・ダラゴーナは、ナポリ王だったアルフォンソ2世の庶子で、ホフレの妻であるサンチャの弟。現ナポリ王フェデリーゴの甥。
(ナポリ攻略を狙い、ナポリ王女カルロッタとの結婚を考えたチェーザレはその前段階として、この結婚を決定する)
8月5日
 
マルクーシス条約締結
→ フランス新王ルイ12世とスペインの和平条約







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