1475年〜1492年
1475年~1492年
子ども時代とロドリーゴの教皇選出
1475年(0歳)
9月13日 (14日 の説も) | チェーザレ、ローマに生まれる 父 ロドリーゴ・ボルジア(44)(対世間的には、父 ドメニコ・ダリニャーノ) 母 ジョヴァンノッツァ(ヴァノッツァ)・カッターネイ(33) |
1482年(7歳)
7月10日 | チェーザレ、ヴァレンシア司教区参事会員に |
1483年(8歳)
3月27日 | チェーザレ、教皇庁書記長(尚書院尚書)に (教皇=シクストゥス4世、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの伯父) |
7月10日 | チェーザレ、ヴァレンシア大聖堂司教座聖堂参事会員に |

8月16日 | チェーザレ、ハティヴァ司教座聖堂助祭に |
チェーザレ、ガンディア司祭に |
1484年(9歳)
9月12日 | チェーザレ、カルタヘナ大聖堂管財官に |
チェーザレ、タラゴナ大聖堂司教座聖堂助祭に | |
チェーザレ、レリーダ大司教座聖堂参事会員に |
1489年(14歳)
チェーザレ、ペルージャの大学入学 | |
家庭教師ジョヴァンニ・ヴェーラとともにペルージャヘ |

1491年(16歳)
チェーザレ、ピサの大学へ転出 | |
9月12日 | チェーザレ、パンプローナ司教に |
チェーザレが庶子であることと、15歳の子どもであることで、パンプローナ市民から激しい抗議 |
2月1日 | ジョヴァンニ・デ・メディチ、ピサ大学を卒業 |
3月9日 | ジョヴァンニ・デ・メディチ、枢機卿に |
4月8日 | ロレンツォ・デ・メディチ死去 |
7月25日 | インノケンツォ8世、崩御 |
8月6日 | コンクラーヴェ開催 23人の枢機卿が参加、3分の2以上の支持で選出される |
- この時の各国の関係
三国同盟(ミラノ、フィレンツェ、ナポリの対教皇庁、ヴェネツィア同盟)が崩壊していた。
教皇庁(デッラ・ローヴェレ家)とナポリが同盟し、フィレンツェも教皇庁支持の立場をとっていた。
(この時教皇庁の中で最も力を有していたのはデッラ・ローヴェレ家であった。なので、ローヴェレの動きはイコール教皇庁の動きとして捉えられる。)
(4月に死去したロレンツォ・デ・メディチ(フィレンツェ)は、息子ジョヴァンニを枢機卿にという悲願のために、やむなく教皇庁を支持にまわった。)
ミラノを支えるのはボルジア家のみだった。
(戦争を回避するために、ミラノを孤立させるわけにはいかなかった。教皇庁の支援を得たナポリがミラノに進攻するのは目に見えていたから。)
ボルジアの成すべきことは、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの選出を抑えることはもちろん、ナポリ派の教皇を出さないということであった。
※ ヴェネツィアは教皇庁と同盟関係にはあったが、ローヴェレ派ではなく中立的だった。
- 参加した枢機卿
- ボルジア派(スフォルツァ派)
ロドリーゴ・ボルジア(スペイン)
オリヴィエーロ・カラーファ(ナポリ)
ドメニコ・デッラ・ローヴェレ(サヴォーナ)
ジョヴァンニ・コンティ(ローマ)
フランチェスコ・ピッコローミニ(シエナ)
アルディチーノ・デッラ・ポルタ(ミラノ)
ラファエーレ・リアーリオ(サヴォーナ)カメルレンゴを務める。
ジャンバッティスタ・オルシーニ(ローマ)
アスカーニオ・スフォルツァ(ミラノ)
フェデリーコ・サンセヴェリーノ(ナポリ)
- ローヴェレ派
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(サヴォーナ)
ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼーノ(ヴェネツィア)
ジョヴァンニ・ミキエル(ヴェネツィア)
ジョルジョ・ダ・コスタ(ポルトガル)
ジローラモ・バッソ・デッラ・ローヴェレ(サヴォーナ)
パウロ・フレゴーソ(ジェノヴァ)
ロレンツォ・チーボ・ディ・マリ(ジェノヴァ)
マフェオ・ゲラルド(ヴェネツィア)
ジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリ(ローマ)
ジョヴァンニ・コロンナ(ローマ)
- 中立派
アントニオット・パラヴィチーニ(ジェノヴァ)
ジョヴァンニ・ジャコモ・スクラフェナーティ(ミラノ)
ジョヴァンニ・デ・メディチ(フィレンツェ)
- 欠席した枢機卿
ルイス・ホアン・デ・ミラ・イ・ボルハ(スペイン)ロドリーゴの従兄弟
ペドロ・ゴンザーレ・デ・メンドーザ(スペイン)
アンドレ・デスピナ(フランス)
ピエール・ドビュッソン(フランス)
1回目 | |
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オリヴィエーロ・カラーファ | 9票 |
ロドリーゴ・ボルジア | 7票 |
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ | 5票 |
他 | 2票 |
2回目 | |
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オリヴィエーロ・カラーファ | 9票 |
ロドリーゴ・ボルジア | 8票 |
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ | 5票 |
他 | 1票 |
3回目 | |
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オリヴィエーロ・カラーファ | 9票 |
ロドリーゴ・ボルジア | 8票 |
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ | 5票 |
他 | 1票 |
8月10日、3回目の投票を終えても新教皇は決定しえなかった。
ボルジアはまず、3人のヴェネツィア人枢機卿の中でも最も有力者であった、マッフェオ・ゲラルディを落としにかかる。
ゲラルディがボルジア派となったことによって、ヴェネツィアの票はローヴェレからボルジアへと流れることになる。
そしてサヴェッリとコロンナが篭絡されると、中立であった者もボルジア支持を受け入れる。
ローヴェレとコスタの2人は最後まで頑迷に拒否し続けたが、最終的には多数決を受け入れないわけにはいかなかった。
ボルジア、スフォルツァを買収。カラーファへの票はボルジアへ。
4回目 | |
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ロドリーゴ・ボルジア | 17票 |
3分の2を獲得!
(満票だったという説も。ボルジアの1票はカラーファに。(自分自身への投票は不可である。))
8月11日 | ロドリーゴ・ボルジア、アレクサンデル6世として教皇に選出 チェーザレは18時間後にはこの報せを受けていた |
8月21日 | チェーザレ、ピサを離れスポレートへ → その年の秋冬をスポレートで過ごす |
ネポティズモ(親族登用主義)への無関心を印象づけるためにローマから遠ざかったと言われるが、ナポリのミラノ進攻に備えて、要衝であるスポレートへ送られた。 | |
8月26日 | 教皇戴冠式 |
壮大で華麗な式が行われる。 サン・ピエトロ大聖堂からサン・ジョヴァンニ・ラテラーノ教会までを2時間かけて行進。 アレクサンデルは教皇の玉座に座るとき、失神しかけたという。 |
8月31日 | チェーザレはヴァレンシアの大司教に → チェーザレはこの報せをスポレートで受け取る |
従兄ののホアン・ボルジア(サヴィオ)はランソルの枢機卿に |
アレクサンデルは教会やローマ市の改革を断行。
豪奢なイメージの強いボルジア家だが、困窮していた教会の財政を立て直すために支出をきりつめ、数年で好転させたと言う。
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