チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ローヴェレ

デッラ・ローヴェレ家 (Della Rovere)

もともとはサヴォーナの貧しい漁師の家系であったが、フランチェスコ・デッラ・ローヴェレの躍進によって栄達する。
フランチェスコ・デッラ・ローヴェレは教皇シクストゥス4世に、彼の甥ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレは教皇ユリウス2世となる。


ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(Giuliano della Rovere)

(1443年(1453年の説も)12月5日~1513年2月21日)
教皇 ユリウス2世(Julius II)(在位,1503〜1513)
ラファエーレ・デッラ・ローヴェレとテオドーラ・マニオラの息子。サヴォーナのアルビッソラ(イタリアの北部)で育つ。伯父シクストゥス4世の意向により、フランチェスコ修道会で教育を受ける。

1471年
伯父の力によって、カルペントラ(フランス)の司教、次いで枢機卿に叙任される。サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリの枢機卿位も伯父から引き継いだので、この名(ヴィンコリ枢機卿)で呼ばれることもある。

1476年
アヴィニヨンの大司教、1478年、メンダの司教。8つの司教区を所持する。

1480年
教皇使節としてフランスへ派遣され、4年間を過ごす。(この時にバリュー兄弟(ジャン・バリュー、ピエール・バリュー)の叔父ジャン・バリュー枢機卿との接点が生じている。(惣領冬実「チェーザレ」5巻))
伯父の教皇の没後、新教皇インノケンチウス8世の代でも着々と権力を伸ばし、ロドリーゴ・ボルジアと対立、互いにいがみ合う政敵となる。

1492年
インノケンチウス8世没後のコンクラーヴェで、ロドリーゴに完敗、オスティア、次いでフランスへ逃亡する。

1494年
フランス王シャルル8世とともに、ナポリへ向けて進軍、アレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)の退位を迫るが、失敗。再びフランスへの逃亡を余儀なくされる。

1498年
チェーザレのフランス訪問の際、アヴィニヨンでその地の駐在大使として彼を出迎える。確執を乗り越えたそぶりで歓待している。

1500年 前後
甥のフランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレとアンジェラ・ボルジア(チェーザレの従兄弟の娘)の縁談が持ち上がったようだが、実現はしなかった。

1503年
病後で弱っているチェーザレを籠絡し、スペイン人枢機卿団の票を得て、ピウス3世の後の教皇、ユリウス2世となる。
一旦はチェーザレと手を組んだように見せるが、すぐに豹変、チェーザレを捕らえ、所領地を奪い取り、完膚なきまでにチェーザレを苛めぬく。

娘のフェリーチェとジャン・ジョルダーノ・オルシーニ、甥のニッコロとラウラ・オルシーニ(オルシーノ・オルシーニとジュリア・ファルネーゼの娘。アレッサンドロとの間の子ではないかという噂もあった。)を結婚させ、オルシーニ家との関係を強化。
また、コロンナ家やサヴェッリ家など、ローマの豪族とも手を組んだ。

ローマでの足元を固めた教皇は、チェーザレの没落によってロマーニャに進出してきていたヴェネツィアを追い出し、次いで自ら兵を率いて、ペルージャとボローニャを攻め落とす。

1508年
フランスとスペインと同盟し(カンブレー同盟)、ヴェネツィアを攻撃。アニャデッロの戦いでこれを敗る。
ヴェネツィアを弱体化させると、次はフランスの力を懸念、ヴェネツィア、スペイン、神聖ローマ帝国、イングランドと神聖同盟を結成する。(この時、ルクレツィアの嫁いだフェラーラは、フランス側についている。)

1512年
ラヴェンナの戦いでフランス軍に敗れるも、フランス軍総司令官ガストン・ド・フォアの死によって、フランスはイタリア半島から撤退する。
教皇軍がフェラーラに進撃しようとした2月下旬、教皇ユリウス2世はローマで崩御。享年69歳であった。(59歳の説も)

フランスを追い出すことはできたものの、スペインや神聖ローマ帝国の干渉を逃れることはできず、(これがのちのローマ略奪にもつながる。)イタリアの政治的独立は実現されなかった。
しかし、政治的そして軍事的手腕で、教皇領の独立と安定を果たしたことで、一般的に彼の評価は高い。
が、これはもともとはチェーザレの志したものであり、ほとんど彼は、チェーザレの後を引き継いだと言っても過言ではない。マキアベッリは「自らの手でするか息子にゆだねるかの違いでしかなかった」と言っている。

彼の評価の一端を担っているのは、芸術家のパトロンであったことで、システィーナ礼拝堂の天井画をミケランジェロに依頼したのは彼であるし、ラファエロやブラマンテも重用した。ラファエロにアテナイの学堂を描かせたのも彼である。(その部屋はユリウス2世の居室だった。)またサン・ピエトロ大聖堂の改築に着手している。(しかし彼の在位中にできたのは柱が4本のみ。サン・ピエトロ大聖堂の改築は120年かかっている。)

「il Papa guerriero(イル・パパ・グエリエーロ)」(イルは定冠詞、パパは教皇、グエリエーロは戦士、の意味)と言われる。
3人の娘をもつ。息子には恵まれなかった。彼も例によって、この当時の流行り病、梅毒患者だったよう。




フランチェスコ・デッラ・ローヴェレ(Francesco della Rovere)

(1471〜1484)
教皇 シクストゥス4世(Sixtus IV)(在位,)




フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ(Francesco Maria I Della Rover)

→ モンテフェルトロ家




ドメニコ・デッラ・ローヴェレ(Domenico Della Rovere)

(1442年~1501年4月22日)
ジュネーヴの司教。トリノの大司教。枢機卿。シクストゥス4世によって叙階される。
1484年のインノケンティウス8世選出のコンクラーヴェ、1492年のアレクサンデル6世選出のコンクラーヴェに参加。
チェーザレの居城のひとつであったペニテンツィエリ宮(現ホテル・コロンブス)を建設する。
1490年、トリノ大聖堂の再築に着手。費用の大部分を負担した。

惣領冬実「チェーザレ」2巻ではジュリアーノ(ユリウス2世)の実弟と言われているが、史実としての確証はないよう。
シクストゥス4世の甥というつながりはあるが、ピエモンテ出身のデッラ・ローヴェレ家の出身という説が強い。ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレとアンナ・デル・ポッツォの息子とされる。クリストフォーロという兄がいて、彼も枢機卿。

同姓ではあるが、シクストゥスやユリウスの家系とは、別の家系であったという説もある。
その説では、教皇シクストゥスと姓を共有する富裕な一族だったので、家柄を差し出すことによって(シクストゥスやジュリアーノらを貴族のデッラ・ローヴェレの傍系と認めることによって)兄とともに教皇庁に登用された、ということになっている。

1501年死去、ローマ、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会に埋葬され、今もその墓は現存する。が、遺骸は彼の司教区であったトリノ大聖堂に移されている。






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