チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

メディナ・デル・カンポMedina del Campo

メディナ・デル・カンポ Medina del Campo

メディナ・デル・カンポ駅。
メディナ・デル・カンポ駅。

鉄道で、マドリードから約2時間30分。
バリャドリッドから約30分。

駅を出て、道なりに右手へまっすぐ行ったところに城塞。
街の中心地に行くには、その途中にあるインファンテス・デ・アラゴン通り(Infantes de aragon)の地下通路入口を抜けて、線路の反対側に出る。
暗くて狭い通路なのでちょっと不安になるけど、すぐ通り抜けられるので大丈夫。ここを通るしかないようだし。

15 - 16世紀、大規模な定期市や見本市の開催によって栄えた街。羊毛や絹織物、本などさまざまな物品が扱われ、王室の人々もが訪れた。
財を成した人々が建築した邸宅が、今でも多く残っている。

1505年夏から翌年秋まで、チェーザレはこの街の城塞モタに幽閉されていた。

カトリック女王イサベルの死去したところとしても有名。

※ メディナ・デル・カンポのGoogleMapは航空写真が不鮮明な上、地図が古いです。故に場所の特定が不安定です。おおよそのものだと理解してください。
(すみません、作った時↑こんなだったので…今は粗くないですが、マーカーの場所は不安定なままです)

  • -
  • モタ城 -
  • 王宮 -
  • フェリアス博物館 -
  • マヨル・スペイン広場 -




※写真にマウスを置くと、多少の説明が出ます。

モタ城(Castillo de La Mota)

メディナ・デル・カンポ駅から徒歩で10分ほど。駅を出てすぐのところからも塔の上部が見える。この塔が、1505年夏から翌年秋の脱走までチェーザレが幽閉されていたところ。

モタ城全景。真正面から。

モタ城全景。 モタ城全景、裏側から。 

11世紀初頭、イスラムの侵略跡地に築かれた要塞が起源。
1354年、エンリケ2世(青池保子「アルカサル -王城-」に登場するエンリケ・デ・トラスタマラ)によって強奪され、カスティーリャの城となる。
13~15世紀までの間に幾たびもの改築・増築が繰り返され、1440年ファン2世によって現在見られる姿に構築された。
その後、イサベルとフェルナンド両王の下で軍事施設としてより強化され、カスティーリャで最も重要な城のひとつとなった。

モタ城入口。アーチの上の紋章は1483年に作られたもの。左がフェルナンド、中央がカトリック両王、右がイサベルの紋。 チェーザレが幽閉されていた塔。

1504年9月、スペインに移送されたチェーザレはチンチーリャの城に幽閉される。
翌年、チェーザレは城代カブリエル・グスマンを絞殺しようとして失敗、チンチーリャの城より堅牢な城であるここモタ城へ移される。
方形の塔の最上階が、彼の収監されたところ。(右上の写真。)


塔に登っていく階段と、登り切ったところ ↓

塔へ続く階段 部屋の入り口

部屋に入って右手から見たところ ↓
入り口入って右手から見た部屋
左手に見えるのがチェーザレが脱出した窓!
部屋の内部は20世紀初頭に改築されているよう。


外壁と堀。この堀にチェーザレは落ちた。
チェーザレが幽閉されていた塔とその下の外壁。

1506年10月25日、チェーザレは1本のロープを使って脱走を試みる。
高峻な塔に対してロープは短く、チェーザレは堀へと転落してしまう。
(右の写真が塔と外壁。外壁の左手に堀がある。
左の写真が外壁と外堀。現在堀に水はない。)
(当時、外壁は現在のものよりも低かったようだが、塔の窓から外壁の外へロープ1本で脱出するのは、チェーザレと言えどもかなり無理がある!そりゃあ落ちるさ!)
が、協力者に助けられて、どうにか逃げおおせる。
そして1ヶ月以上をかけて、かつて自身の司牧地でもあったパンプローナへとたどり着く。義兄であるナヴァーラ王ジャン・ダルブレを頼って。


窓からの景色 画像の説明 右手の窓(城の裏側にある窓)からの景色

↑ 窓からの景色。けっこう高い。右端の写真はもう一つの窓から見た景色。こちらから降りると堀ではなく城の低層階に着地する。
チェーザレはこっちから数回に分けて降りればよかったのでは!?…結んだロープを外すって難しいか。それに中庭側だから見張りがいたのかな。


イサベル女王はその宮廷をここに置いていたが、城はその堅固さから牢としてもよく利用されていた。
1503年から1505年までは、狂女として有名な王女ファナ(1479 - 1555)が軟禁されていた。(チェーザレとは入れ違いになっている。)

モタ城、中庭。 モタ城、礼拝堂。

他には、
1501年から1505年(これもチェーザレと入れ違い)、ナポリ王フェデリーコ1世の息子で、チェーザレの求婚を拒否したカルロッタの弟、カラブリア公フェルディナンドも幽閉されている。

ブランシュ・ド・ブルボン(1339 - 1361)(青池保子「アルカサル -王城-」の主人公ペドロ1世の正妻)も、1354年の一時期、ここに幽閉されている。


  • 開館時間
    4月1日~9月30日
    ・月曜~土曜
    11:00 - 14:00 / 16:00 - 19:00
    ・日祝日
    11:00 - 14:00

10月1日~3月30日
・月曜~土曜
11:00 - 14:00 / 16:00 - 18:00

入場無料。
中庭、1階の一部の部屋、礼拝堂は開館時自由に見学可。
チェーザレの塔は事務所として利用されていて見学不可。
今(2023年4月現在)はガイドツアーで見学できる!

城の向かい側に管理事務所があり、絵はがきなどが販売されている。
街の地図(観光案内所でもらえるものと同じ)ももらえるし、飲み物の自販機もあるので便利。




モタ城からの脱出

塔のガイドの方が「チェーザレがロープで降りたというのは伝説」と断言されてたらしい!
(ガイドツアーに参加された方からの情報。)  

モタ城模型

確かに、城から逃げるには城壁の外の堀に落ちる必要があり(城壁内に落ちても逃げられない)(塩野版チェーザレでは堀まで越えた城壁の外の地面に落ちている)、城壁の外に落ちるには、塔の壁を蹴って振り子運動でターザンのように7、8メートルほどの距離を飛ぶ必要がある。ので、かなり難しそう。
(窓からぶら下がって、塔と並行に振り子運動することはできると思うけど、垂直に振り子運動するってかなり難しいと思う。)

モタ城、塔と城壁、横から見たところ

← 塔と城壁を横から見たところ。

塔の高さは約40メートル。
立っている人が写りこんでいるので、何となく距離感がわかる。


モタ城、塔と城壁、近づいたところ

← 塔の真下まで近づいてみたところ。

チェーザレの時代には城壁はもう少し低かったらしい。
だからって難しいことに変わりはないよね。

↓ 堀と城壁と塔

城壁と堀

サチェルドーテ版チェーザレには、
「闇夜に紛れて脱走できなかった場合には、人数を用意して城に入り、チェーザレと彼の監視人ガブリエル・デ・タピアの身柄を押さえ、城代ベルナルディーノ・デ・カルデナスとその部下が抵抗すれば殺すことにしていた」
「しかし暴力に訴える必要はなかった」
「タピアの従僕ガルシア・デ・マジョナが1本のロープを持ち込んだ」
「合図とともにチェーザレの従僕が先に降りた。しかしロープが短すぎたため落下し、骨折してしまう」
「タピアの息子が異変に気づき警報を発した。人々が駆けつけ、窓の鉄格子に結ばれていたロープが切られた」
「チェーザレは堀の底に倒れ重傷を負った」
とある。
サバティーニ版もクルーラス版も塩野版もほぼこの通りだし、他のチェーザレ関連のものも同じような記述になっている。(または記述されていない。異なる脱出方法を記しているものは見つけられない。)

運動神経抜群の人にはできるのかな…?
(トム・クルーズなら余裕でできそう?ならチェーザレもやれる!?)

まあ方法は何にせよ、1506年10月25日夕方、チェーザレがモタ城から脱出したことは確か。
ガイドの方、窓からロープで脱出が伝説なら実際はどうやって逃げたのか、考察でいいから教えて欲しい!!






王宮(Palacio Real Testamentario)

マヨル・スペイン広場の隅にある王宮入口。小さくて目立ちません。左端は市庁舎。

1492年、グラナダを陥落させレコンキスタを完了させた、カスティーリャ・アラゴン連合王国(スペイン王国)の女王、イサベルの終の棲家であったところ。
1504年11月26日、女王はここで遺言を残し息を引きとった。遺体はグラナダに運ばれ、王室礼拝堂に埋葬された。

王宮(Palacio Real)と呼ばれてはいるが、こぢんまりとした質素な館。
Testamentario(テスタメンタリオ)は「遺言」の意味。

左の写真のアーチ部分の右横、人影の後ろ部分が入口。マヨル・スペイン広場(Plaza Mayor de la Hispanidad)の南西の角にある。

王宮、門を入ったところ。入口は、正面に見えてる扉ではなく左手に。 再現されているイサベルの寝室。

王宮、前庭にあるイサベル像。

イサベルの時代の調度品の他、年表、肖像画、彫像、遺言書などが展示されている。
奥の部屋には、イサベル女王の寝室が再現されている。
これは19世紀の画家、エドゥアルド・ロサーレスの絵画「カトリック女王イサベルの遺言」をもとに作られたもの。




フェリアス博物館(Museo de las Ferias)

フェリアス博物館、正面入口。

16世紀に建てられたサン・マルティン教会を、2000年から博物館として利用している。

フェリアス(Ferias)とは見本市のこと。
15 - 16世紀、メディナ・デル・カンポは大規模な見本市の開催で発展し、経済的に重要な街であった。
街と見本市の歴史、扱われていたさまざまな物品(毛織物、絹織物、美術品、工芸品、書籍、印刷物、金融)についての展示がなされている。
そんなに広くはないので、じっくり見ても1時間かからない(と思う)。


1570年頃のメディナ・デル・カンポ。

チェーザレが幽閉されていた前後の街の歴史がわかるのでおもしろい。
左の写真は1570年頃のメディナ・デル・カンポの街の模型。壁面に貼られている。
右上に見えるのがモタ城。

チケット売り場には、モタ城の描かれたペーパーウェイトやマグネットのお土産が置かれている。




マヨル・スペイン広場(Plaza Mayor de la Hispanidad)

マヨル・スペイン広場。

街の中心である広場。
右の写真、左に見えるのはイサベル女王像の後ろ姿。奥にサン・アントリン教会。
その右手に観光案内所があり、市庁舎があり、王宮がある。

15 - 16世紀に盛んだった見本市はここで開かれていた。

イサベル女王像。若く美人。 サン・アントリン教会。右端は観光案内所。









a:6286 t:1 y:2

powered by Quick Homepage Maker 4.74
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional