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マジョーネの反乱

マジョーネの反乱


ひと言で言うと

1502年10月、チェーザレ軍の傭兵隊長たちが起こしたチェーザレへの反乱。会合がマジョーネで行われたので、マジョーネの反乱と呼ばれる。
反乱軍は瞬く間にウルビーノやカメリーノを奪取、ミゲル率いる軍を敗走させ、チェーザレに脅威を与える。
しかし結束力の欠如から決定的な行動に出ることができず、もたもたしているうちにチェーザレの画策によって衰勢、シニガリア事件を経て叩き潰された。

もうひと言
この時、マキァヴェッリはフィレンツェの特使としてチェーザレの元を訪れ、チェーザレの知略に富んだ政治的手腕を目の当たりにする。その経験がやがて「君主論」へと昇華された。



反乱の要因

1502年夏、ウルビーノとカメリーノを攻略したチェーザレのやり方を見て、傭兵隊長たちは自分自身の身を案じ始める。
彼らはそれぞれに小国の僭主であり、チェーザレに征服された人々と同じ立場にあったから。次に標的にされるのが、自分の地ではないとなぜ言いきれる?
かくして彼らは反チェーザレを標榜して集結する。


また塩野七生は、チェーザレに対する「恐怖」の他にも「憎悪」「軽蔑」が、その動機であったとしている。
いわく、
代々武人として名を馳せる一家の出自であった傭兵隊長たちは、僧侶出身であるチェーザレの、目ざましい進撃に誇りを傷つけられ、妬み、憎んでいた。
また、この時代、世俗化した教会や聖職者に対する軽蔑は一般的に広まっており、教会の力を背景にしているチェーザレにも、同様の反感がつきまとっていた。




登場人物

  • チェーザレ・ボルジア(27歳)
  • ミゲル・ダ・コレッラ


反乱の参加者

チェーザレ軍の傭兵隊長

  • ヴィテロッツォ・ヴィテッリ(c. 44歳)・・・チタ・デ・カステッロの僭主。
    優秀な軍人でチェーザレ軍に最初から仕えていたが、兄を殺したフィレンツェに対する復讐心を、チェーザレの都合で黙認されたり制止されたりして、恨んでいた。
    (チェーザレは、フィレンツェの支配下にあるアレッツォやその他の街を、ヴィテロッツォの思うままに侵略させておいた。フィレンツェの力が弱まることは、チェーザレにとって都合の悪いことではなかったから。
    しかし、チェーザレの勢いを懸念するフランス王ルイ12世(フィレンツェと懇意)がミラノへやって来ると、チェーザレはルイに配慮し、即刻ヴィテロッツォに退却を命じる。しかも、言うとおりにしなければ全軍を率いて攻撃すると脅した。これにヴィテロッツォは、驚愕し激怒しつつ震えあがった。
    また、チェーザレは、アレッツォその他への攻撃はヴィテロッツォの私憤で行われたことであり、自分は全く関与していないと声明した。)
    マジョーネの会合を、ジャン・パオロ・バリオーニとともにリードする。チェーザレ打倒の急進派。


  • オリヴェロット・ダ・フェルモ(29歳)・・・フェルモの僭主。
    ヴィッテリ家によって傭兵としての教育を受けており、ヴィテロッツォと親しかった。
    また1501年、フェルモを掌握した際にはヴィテロッツォの後援を受けており、恩があったので、彼に同調した。


  • ジャンパオロ・バリオーニ(c. 32歳)・・・ペルージャの僭主。
    自国ペルージャが、いつチェーザレに攻撃されるかと怯えていた。実際彼は、ヴィテロッツォとともにアレッツォ戦役に加わっていたが、自国を空けておくことをに不安を覚え、途中で帰国している。
    チェーザレへの恐怖を「竜にひとりひとり喰われていく(Per non essere a uno a uno devorati dal dragone)」と表現した。
    マジョーネの会合を、ヴィテロッツォ・ヴィッテリとともにリードする。チェーザレ打倒の急進派。


  • パオロ・オルシーニ(40歳前後)・・・パロンバーラの領主。
    ヴィテロッツォ・ヴィッテリの舅。(娘ポーツィアが、ヴィテロッツォの妻。)
    今はチェーザレの下で軍務に就いているし、ボルジアとの関係は安寧であるが、5年前のガンディア公ホアンとオルシーニ家との戦いはまだ記憶に鮮やかであった。いずれボルジア家が敵になることは想定された。


  • フランチェスコ・オルシーニ(37歳)・・・グラヴィーナの公爵。
    今はチェーザレの下で軍務に就いているし、ボルジアとの関係は安寧であるが、5年前のガンディア公ホアンとオルシーニ家との戦いはまだ記憶に鮮やかであった。いずれボルジア家が敵になることは想定された。


以上5名が首謀者とされる傭兵隊長。その他、

  • ジェンティーレ・バリオーニ
    ジャンパオロ・バリオーニの弟。


その他の参加者

  • ジョヴァンニ・バッティスタ(ジャンバッティスタ)・オルシーニ(52歳)・・・枢機卿。
    チェーザレのロマーニャ進攻にとどまらず、ボルジアはローマの有力貴族をも次々と攻撃していた。
    オルシーニがその標的にされる日も、そう遠くではあるまい。
    彼はチェーザレとルイ12世との関係を断ち切ろうと、アレクサンデル6世の制止を振りきってまでミラノへ伺候する。しかしチェーザレとルイの離反は成らなかった。
    どうにかしてチェーザレの力を封じ、オルシーニ家への攻撃を回避したいと思っていた。

  • ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオ(59歳)・・・ボローニャの僭主
    チェーザレの次の標的がボローニャであることは明白であった。
    フランス王ルイ12世は、もはや信頼できる庇護者ではない。
    彼の恐怖は切実だった。

  • アントニオ・ダ・ヴェナフロ(アントニオ・ジョルダーノ)(46歳)
    パンドルフォ・ペトゥルッチの秘書で片腕。

  • オッタビアーノ・フレゴーソ(32歳)
    グイドバルドの甥。

  • ジョヴァンニ・マリア(ジャンマリア)・ヴァラーノ(21歳)・・・カメリーノの僭主一家の生き残り
    父ジュリオ・ダ・ヴァラーノと兄2人を、カメリーノを攻略したチェーザレによって殺されていた。

  • ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロ(39歳)・・・シニガリアの摂政
    ウルビーノ公グイドバルド・モンテフェルトロの姉。シニガリアの領主フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレの母。
    会合への出席はなかったが、陰で反乱を支持していた。



その他

  • ニッコロ・マキァヴェッリ(33歳)・・・フィレンツェ政府の第2書記官。
    チェーザレ軍の勢いに恐れをなしたフィレンツェは、彼と傭兵契約を結ぶことでとりあえず安全を確保していた。
    しかしこの契約は年に3万6,000ドゥカートという破格のものであったし、チェーザレに自国の国防を委ねることは、彼に軍事面を牛耳られることと同義であり、認めるわけにはいかないことであった。
    フィレンツェはこの契約の無効、もしくは猶予を願い、料金の支払いを催促するチェーザレとの交渉を続けていた。
    1502年6月、ウルビーノに赴いたソデリーニは、チェーザレに鋭く追及され、撃沈され、ノイローゼ寸前だった。もっとしたたかにチェーザレと渡り合える人物が必要であった。
    マキァヴェッリは正式な交渉の資格を持たない事務官であったが、この場合より好都合であった。決定権を持たないことで、時間を稼ぐことができたから。
    マジョーネ同盟発足の報を耳にしたフィレンツェは、すぐさま彼をチェーザレの元へ派遣する。
    マキァヴェッリに与えられた任務は、時間を稼ぐこと、言質を与えぬこと、チェーザレの本心を読むこと。
    10月7日から1月21日までのほぼ3ヶ月間を、彼はチェーザレの側で過ごし、フィレンツェ政府へ52通もの報告書を書いた。
    この時のチェーザレの名君主ぶりは、鮮烈な印象をマキァヴェッリにあたえ、それはやがて「君主論」へと昇華されることになった。

  • ロベルト・オルシーニ(10代)・・・チェーザレの廷臣。
    反乱勃発後も、チェーザレの元に留まっていたオルシーニ家の一員。
    傭兵隊長ではなく廷臣であった。
    チェーザレに籠絡され、反乱軍との和平交渉を取り持つ。
    ジュリア・ファルネーゼの夫、オルシーノ・オルシーニの庶子。


※ チェーザレ軍にはファビオ・オルシーニ、ジュリオ・オルシーニなども従軍していたが、彼らも「マジョーネ同盟」には参加していなかった。
オルシーニ一族の全てが、がっちりと同意見で一丸となっているわけではなかったよう。




※年齢は1502年、反乱の起きた時のもの。
(年齢の前にある「c.」は「circa(キルカ、サーカ)」は、「約」「およそ」「頃」を表します。)




経緯

マジョーネの会合

反乱の動きは、まず会合から始まった。

最初の会合は9月26日、トーディにて。ヴィテロッツォ・ヴィッテリとバリオーニ家の2人(ジャンパオロとジェンティーレ)によって行われる。
彼らはチェーザレへの反乱として、まずボローニャ攻略に加わらないことを決定する。そして彼らと同様にチェーザレに不安を募らせている、オルシーニ家を抱きこむ。
(最初の会合はオルシーニ家によってもたれた、という説もある。)

その後すぐにペルージャ近くのマジョーネ、オルシーニの所領地にてより大々的な会合がもたれる。

ヴィテロッツォ、
バリオーネの2人、
オリヴェロット、
オルシーニ枢機卿、
パオロ・オルシーニ
フランチェスコ・オルシーニ
フランチェット・オルシーニ
エルメス・ベンティヴォーリオ、(ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオの代理)
ジャンマリア・ヴァラーノ、
アントニオ・ダ・ヴェナフロ、(パンドルフォ・ペトゥルッチの代理)
オッタヴィアーノ・フレゴーソ、(グイドバルド・モンテフェルトロの代理)

らが、会合に加わる。

数度の会合を経て、10月9日、反チェーザレということで一致した「マジョーネ同盟」が発足する。
ヴィテロッツォは1年以内にチェーザレを殺害、もしくは捕らえてイタリアから追放することを宣言。連合の目的は防衛的なものから、攻撃的なものになってゆく。

チェーザレがフランスに援軍を求める前に、事は性急に起こさなければならない。
ベンティヴォーリオはイモラへの攻撃を、他の面々はペーザロとリミニへの攻撃を受けもつ。


この時反乱軍「マジョーネ同盟」の手勢は、
歩兵 9,000
槍兵 700
騎兵 100

全部で、約1万の兵。


対してチェーザレ軍は、
歩兵 2,500
槍兵 300
親衛隊(護衛兵) 100

全部で3,000に満たない軍

圧倒的にチェーザレの不利だった。


しかし、この時点ですでに同盟の結束は綻びており、
オルシーニは、
ジャンバッティスタ枢機卿がアレクサンデル6世にと会合して、恭順の意を示しており、
ベンティヴォーリオは、
エルコレ・デステを仲介にして、チェーザレとの裏取引を画策し、
ペトゥルッチは、
アントニオ・ダ・ヴェナフロをチェーザレの元へ送り、何ら反意のないことを表明していた。




チェーザレの対応 ① 周囲への牽制と支持の要請

チェーザレは、マジョーネにおける反チェーザレの動きを、10月の初めには察知していた。
(ヴァティカンは、マジョーネにおいて会合のもたれたという情報を、10月2日に入手している。)
彼はその頃、イモラでボローニャ攻略の準備を進め、ルイ12世より送られてくるフランス軍の到着を待っていた。
軍が到着すれば、それはそのまま、反乱軍へ向けることができる。フランス王は自分を支持してくれるだろう。
今のところはまだ。

厄介なのはヴェネツィアだった。
この機に乗じて、邪魔な存在である自分を排除しようと動くかもしれない。ヴェネツィアが敵にまわれば、フェラーラも追従してしまう可能性がある。
しかしそこは、同盟国フランスの存在と、教皇の権威でどうにか抑えることができるはず。
チェーザレはすぐに、アレクサンデル6世に、ヴェネツィア政府に対してチェーザレ支持を依頼する手紙を送らせる。


チェーザレはこの機に乗じて、フィレンツェとの関係を、より有利なものにしようと考える。
中途半端になっている傭兵契約(チェーザレはフィレンツェに対して年3万6,000ドゥカートでの傭兵契約を要求していた。フィレンツェはチェーザレの力が自国に影響することを恐れ、また莫大な契約料を支払うこともできず、返答を延期し続けていた。)を承諾させ、フィレンツェの同盟者としての自分の立場を、はっきりとしたものにしておきたい。
うまくやれば、フィレンツェ掌握のための足がかりとなるだろう。
災いを転じて福と為す方策は、チェーザレの得意とするものであった。
万が一、ヴェネツィアが反乱軍側についた際にも、フィレンツェの動向は重要だった。
チェーザレはフィレンツェ政府に対して、使節の派遣を要求する。

10月5日、フィレンツェを出発したマキァヴェッリは、7日にイモラへと到着する。




ヴェネツィアとフィレンツェの動き

反乱に際して、イタリアの有力都市ヴェネツィアとフィレンツェがどう動くかは、チェーザレにとっても反乱軍にとっても、重要であった。

ヴェネツィア
自領にしたいと狙っていたロマーニャの諸都市を、瞬く間に掌握してしまったチェーザレに対して、ヴェネツィアは憤懣と警戒心を抱いていた。
反チェーザレの動きは、願ってもないことだ。
ヴェネツィアは、フランス王に対して、チェーザレとの同盟を打ち切るように呼びかけながら、自国に逃亡中であったウルビーノ公グイドバルド・モンテフェルトロを復帰させようと、傭兵隊長バルトロメオ・ダルヴィアーノに指令する。
しかし、慎重で老獪なヴェネツィアは、反乱軍を支持しつつも、表立った軍事行動を起こすことは見合わせていた。
オスマン・トルコとの攻防が続いており、手を出すだけの余裕がないということもあった。

フィレンツェ
チェーザレを滅ぼしたい気もちはやまやまだが、マジョーネ同盟にはフィレンツェに恨みを抱くヴィテロッツォ、メディチ復帰を狙うオルシーニ家(オルシーニ家はメディチの姻戚)、アレッツォを狙うバリオーニ、仇敵であるシエナのペトゥルッチがいる。反乱軍を後押しすることはできない。
しかし、無闇にチェーザレを支持することも危険である。彼はどのような手段を持って、フィレンツェに踏み入って来るかわからない。
判断に迷うフィレンツェは、時間をかせぎ、チェーザレの動向を逐一報告させるために、マキァヴェッリを派遣する。


→ 両国ともに、静観というかたちをとる。
(チェーザレと反乱軍の共倒れになることを期待している。)




  • その他の都市
    • フェラーラ
      ルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ・デステの婚姻によって、フェラーラはボルジアの同盟国であった。
      また、フェラーラは親フランス派の国であり、ルイ12世とチェーザレが結びついているかぎり、反ボルジアとなることはありえなかった。
  • マントヴァ
    チェーザレの娘ルイーズと、マントヴァ侯の息子フェデリーコの婚約を協議したばかりのところで、さしあたりはボルジア派であった。
    また、姻戚関係によってフェラーラとは密接な関係にあったので、フェラーラと同じ立場をとることの多い国だった。

→ チェーザレ支持の立場にあった。




反乱軍の進撃 ① ウルビーノの奪取

10月7日、イモラに到着したマキァヴェッリは、すぐにチェーザレと面会する。
チェーザレは、マキァヴェッリに語る。
「反乱軍に勝ち目はない。彼らのしていることは、私にダメージを与えるものと言うよりもむしろ、公国を強化させることにつながるものだ。
このことで国防はより堅固になるだろうし、私は誰が真の友であるかを見分けることができる」。

しかしこの日、反乱軍の動きに呼応したウルビーノの旧臣によって、サン・レオの城塞が占拠される。

11日には、ヴィテロッツォ・ヴィッテリによって、カステル・デュランテが落城、翌12日には、ジャンパオロ・バリオーニによって、カーリが占拠される。
わずか4日ほどの間に、ウルビーノ公国のほとんどが、反乱軍の手に落ちてしまう。
18日、グイドバルド・モンテフェルトはこの報を受け、ヴェネツィアからシニガリアを経て、ウルビーノ公国に帰還する。民衆は彼を祝福して迎えた。


反乱軍はヴェネツィアに対して自分たちの有利をアピールし、チェーザレを放逐した暁には、
ファエンツァとリミニはヴェネツィアに割譲すること、
その他の地は、自分たちで分配すること、
まで上申していた。
(奪還した領地の割譲で、ヴェネツィアを味方につけたかった。)




チェーザレの対応 ② 軍備の増強

10月初旬、イモラに着いた頃のマキァヴェッリから見ると、チェーザレの置かれている状況は危ういものだった。

フランス王からの援軍が約束されているとは言え、その到着はいつになるかわからない。
チェーザレの動かせる手勢は、反乱軍の3分の1に満たない。
現に反乱軍は、敏速な攻撃でまたたく間にウルビーノを奪取している。
公爵はあまりにも彼らを侮ってはいないか。

しかしチェーザレは、いたずらに敵を軽視し、楽観しているわけではなかった。

思い切った決断と計算が、彼の中ではなされていた。
失ったウルビーノに執着しても仕方がない。手放そう。いずれ取り戻せばよいだけのことだ。
大事なのは、ロマーニャ諸都市の防御を固めること。
彼は軍を増強し、新たな傭兵隊長たちを雇用し、部隊長たちを配備する。

  • 集められた兵員
    800の歩兵
    6,000の市民兵
    500のガスコーニュ兵
    1,500のスイス兵
  • 新たに加わった傭兵隊長
    • ガスパーレ・サンセヴェリーノ(フラカッソ)
    • ルドヴィーコ・ピコ・デッラ・ミランドラ
      60の軽装騎兵を率いて
    • ラニエリ・デッラ・サッセッタ
      100の石弓兵を率いて
    • フランチェスコ・デ・ルナ
      50の銃撃隊を率いて

この雇用のために、18,000ドゥカートもの資金が、アレクサンデル6世からチェーザレに送られた。
(ちなみに、マキァヴェッリの年収は130フィオリーノほど。
※ ドゥカートとフィオリーノはほぼ同じレート。)

  • 部隊長たちの配備
    • ミゲル・ダ・コレッラ
      ロマーニャの市民兵を1,000名徴集。
      彼らを率いてリミニへ移動。
  • レミーロ・デ・ロルカ
    ロマーニャの全域の城塞の守備を強化。
  • ウーゴ・デ・モンカーダ
    ウルビーノを放棄し、リミニへ移動。




反乱軍の進撃 ② カルマッツォの戦い

チェーザレの命によってリミニへと移動したミゲル・ダ・コレッラとウーゴ・デ・モンカーダであったが、彼らはそこから独断で、フォッソンブローネとペルゴラへ向かう。
その地の城塞が、反乱軍の動きに乗じて蜂起した民衆によって、攻囲されていたのだった。
2人は城塞を奪回し民衆を虐殺、見せしめとしてその地を略奪する。

チェーザレはこの報を喜び、「反乱者にとって今年の星まわりは凶であるらしい。」とマキァヴェッリに語った。


その後、ミゲルとウーゴの軍はレミーロ・デ・ロルカの軍と合流、フォッソンブローネの方からウルビーノへ入ろうとする。
この時、ヴィテロッツォ、バリオーニ、オルシーニの軍はグッビオに終結しており、彼らもウルビーノへ進軍しようとしていた。
10月15日、両軍はカーリにて接触。戦闘となる。
17日、カルマッツォでの戦闘で多数の死傷者を出し、チェーザレ軍は敗戦する。

ミゲルは負傷し、レミーロ・デ・ロルカとともにファノへ敗走。
ウーゴ・デ・モンカーダは捕虜となってしまう。


反乱軍は勢いづく。
ジャンパオロ・バリオーニはファノへ進軍し、ミゲルを攻囲。
ヴィテロッツォ・ヴィッテリは、フォッソンブローネを侵奪。
ジャン・マリア・ヴァラーノはオリヴェロット・ダ・フェルモの助力で、カメリーノに復帰。
これらの動きに乗じて、サン・マリーノ共和国も、チェーザレからの独立を宣言。
ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオは、2,300の兵をカステル・サン・ピエトロへ送る。そこはチェーザレの本拠地であるイモラから、10キロちょっとの場所であった。
チェーザレは敵に眼前まで迫られ、イモラに孤立する。




チェーザレの対応 ③ 内部撹乱

カルマッツォでの敗戦は、チェーザレにとって大打撃だった。チェーザレ軍の精鋭であるスペイン人隊長たちの軍が敗れたのでは、ただちに身辺が危うくなる。
しかし、彼は焦りを見せなかった。
チェーザレは、なすべきことを正しく把握していた。
近隣諸国の動きは押さえている。
軍備は増強した。援軍も届く。
後は、反乱軍を内部からつき崩せばいい。

ベンティヴォーリオペトゥルッチとは、交渉が続いていた。彼らとの和解は難しいものではない。
必要なのは、反乱の要である傭兵隊長たちの同盟を崩し、軍事行動を抑えることだった。これ以上、公国を荒らされるわけにはいかない。
ヴィテロッツォとバリオーニは強硬だ。彼らは自分を打ちのめすことを望んでいる。
狙うべきはオルシーニだった。彼らなら、崩せる。
チェーザレは、反乱者たちの性格を知悉していた。彼らは統率者を持たず、結びつきは弱い。
最も脆い部分に穴を開ける。そうすれば、それが針の穴であっても、やがて堤は決壊するだろう。それがお粗末な同盟であるなら、なおさら。

チェーザレは、オルシーニに穴を穿つために、ロベルト・オルシーニを利用する。


ロベルト・オルシーニは、反乱軍にまわったオルシーニ家の面々の中で唯一、チェーザレの元に留まっていた10代の若者だった。
チェーザレは、言葉巧みにロベルトを丸めこむ。
自分はオルシーニに対して、何の悪感情も持っていないことを言明し、彼にそれを信じさせる。

サン・レオの城塞攻囲(10月7日)後すぐ、ロベルトはオルシーニの人々を和解に向けて説得すべく、イモラを発っていた。




マキァヴェッリの確信

カルマッツォで敗戦を喫し、戦局はチェーザレ不利に傾いたかのように思われた。
しかしウルビーノを奪われはしたものの、今やロマーニャの防備は鉄壁であった。そのために莫大な費用が注ぎこまれていた。
反乱軍に同調的であったヴェネツィアも、フランス王の意志を受け、今やはっきりと支持を撤回していた。
後は、フランスからの援軍が到着するのを待っていればいい。
チェーザレが各所に手を打ってしまった今、きっともう、反乱軍が何をしようとしても、遅い。

それに。
チェーザレの廷臣たちは、マキァヴェッリが情報収集に四苦八苦するほどに口が堅かった。彼らは、しっかりとチェーザレに統率されている。
チェーザレ軍の隊長たちも、イタリア人スペイン人に関わらず、誰1人反乱軍に追随していない。彼らもまた、チェーザレの下に結束している。ロマーニャ公国は強い。足並みのそろわない反乱軍とは違う。
そして何より、チェーザレの後ろには教皇の存在がある。

10月23日、マキァヴェッリはチェーザレの勝利を確信していた。




反乱軍の動揺

反乱軍の進撃が迅速に続いたなら、チェーザレを窮地に追いつめることができたかもしれない。反乱は、何ら準備の整っていないチェーザレへの急襲であったからこそ、打撃になり得た。
しかし彼らは、互いに互いを信用していない、ばらばらの集団だった。
裏では、誰がどう動いているかわからない。すでにチェーザレと講和しているかもしれない。下手に動くことを危険と考え、一気に兵を挙げることを躊躇した。
教皇やフランス王、ヴェネツィアの出方も気がかりだった。

ぐずぐずしているうちに、
各地からチェーザレへの援軍が集められた。
フランス軍もイモラへ向けて出発した。
ヴェネツィアが彼らの支持を完全に撤回した。

反乱軍は動揺し始める。
チェーザレはどう動くか。
ウルビーノを奪取した際の疾風怒濤の進攻は、鮮烈だった。彼の攻撃は非道で過酷なものになるだろう。反乱軍は戦慄する。


ロベルト・オルシーニによる和解交渉の勧めは、及び腰になっているパオロとフランチェスコのオルシーニにとって、願ってもないことだった。
もともと彼らは、ヴィテロッツォやバリオーニほどチェーザレ打倒の思いは強くなかった。講和を高く売り、少しでも優位な場所に立つことができたら、それで充分だったのだ。
ベンティヴォーリオペトゥルッチが、チェーザレと交渉していることはわかっている。彼らに出し抜かれるわけにはいかない。

10月25日、パオロ・オルシーニは変装してイモラのチェーザレの元へ赴く。マジョーネ同盟参加者全員の代表として、講和のために。




マキァヴェッリの疑念

チェーザレとパオロ・オルシーニの会談が始まっていた。
ベンティヴォーリオ家の使者も、足しげく通ってきている。
彼らの間でどういった内容の講和が行われるのかはわからないが、着実にその方向へは進んでいるようだった。

しかし、
ガスコーニュ兵が、カステル・ボロネーゼに到着し、
ロンバルディアに向けて、フランス軍追加が要請された。
スイス兵も到着する。
講和の条件が整いつつあるのに、公爵は軍備増強を止めるどころか、ますます力を注いでいる。
これは、和解と見せかけて反乱軍を撃滅させるつもりではないのか。
莫大な戦費を投じ、これだけの準備をしているのに、具体的な戦闘が予定されていないわけがない。

しかしチェーザレは全く動く気配を見せなかった。

なぜ。
このまま、チェーザレは本当に反乱軍と和解してしまうのか?
今なら反乱軍を撃滅できるのに?

マキァヴェッリはチェーザレの真意をつかむことができないでいた。

マキァヴェッリだけでなくイタリア中が、今までとは異なる静かなチェーザレに注目していた。




和解交渉

チェーザレは、パオロの来訪を手放しで歓迎する。
パオロの安全を保障するために、人質としてフランチェスコ・ボルジア枢機卿をオルシーニ家へ送ることまでする。
反乱を責めることは一切せず、そのような手段に走らせるほどの疑惑を抱かせてしまった自分を嘆く。
今回のことで、自分の成功は何を置いてもパオロたち傭兵隊長たちの支えのお蔭であることを痛感した。ぜひとも信頼関係を取り戻し、これからは倣岸であった自分を改め、もっと忠義に報いたい。

術策に長けたチェーザレの話と数々の贈り物は、パオロを感激させる。
パオロはボローニャやウルビーノを往来し、講和へ向けて反乱軍の面々を説得する。


11月23日、まずベンティヴォーリオとの講和が成立し、ヴァティカンにおいて調印された。
これを受け、あくまでも反チェーザレの立場を崩さなかったヴィテロッツォとバリオーニも、譲歩せざるを得ない状態となった。自分たちだけでは、どうすることもできない。

11月27日、講和を承認する全員の署名を持って、パオロはイモラを訪れる。

講和条文

  1. チェーザレから略奪したウルビーノやカメリーノは、全てもと通りに返還する。
  2. ヴィテロッツォ、バリオーニ、オリヴェロット、パオロとフランチェスコのオルシーニ、以上5人の傭兵隊長たちは反逆の罪を許される。
  3. ヴィテロッツォらの教皇代理の地位もそのままで、チェーザレ軍への従軍も自由意志に任される。
  4. ウルビーノ公、ならびに彼の旧臣たちも無罪放免。自由を保障される。
  5. オルシーニ枢機卿の名誉、財産、所領地は以前のままに保障される。
  6. チェーザレの望む時には、それぞれの嫡子を1人、チェーザレの下へ送る。

条文は、反乱軍にとって有利になるものは全くなく、チェーザレをロマーニャの君主と認め、全てを反乱以前の状態に戻すものであった。
表向きは和睦であったが、内実は完全に反乱軍の敗北であった。

11月29日、チェーザレはヴァレンティーノ公爵として、再びウルビーノを領有することを、宣言した。

グイドバルド・モンテフェルトロは、ヴィテロッツォを頼り、チタ・ディ・カステッロへと亡命した。
(グイドバルドは、反乱軍の中で最も講和に消極的であったヴィテロッツォの元に身を寄せることで、できるだけ講和後の立場を強くしておきたいと考えている。)




チェーザレ軍の移動

12月10日、チェーザレが動いた。
雪の降りしきる中を、イモラからチェゼーナへ移動したのだ。イモラの守備には、フェラーラからの援軍が残された。
しかし講和は締結されたばかりだった。なぜ今、チェーザレは軍を動かすのか。

講和は見せかけにすぎず、反乱軍を討ちに行くのか。
それとも、次の攻略地へ向かっているのか。
だとしたら、犠牲となる地はどこなのか。
元反乱軍の隊長たちは、何事もなかったかのように、進撃に参加するのか。

チェーザレがどのような計画をもって動いているのか、全くもって不明だった。


18日、チェーザレの進撃地はシニガリアであるとの情報が流れる。8日以内に出陣することになるようだ、とマキァヴェッリはフィレンツェ政府に報告する。

しかし、まだチェーザレの真意はわからない。


20日、チェーザレは、思いがけない行動に出る。
フランス兵を解雇しミラノへと引き揚げさせたのだ。チェーザレ軍の戦力は3分の1に縮小された。

苦労して集め、やっと整った軍だというのになぜ?
公爵はシニガリアを攻撃するつもりではなかったのか?
戦闘の予定はなくなったのか?
ではなぜイモラから進軍したのか?
いや、何よりも気がかりなのは反乱軍の反撃だ。
フランス兵があってこそ、反乱軍を威圧できていたのだ。今再び反乱軍が終結すれば、今度こそ勝ち目はないかもしれない。

マキァヴェッリは混乱する。

そして、12月23日、チェーザレの側近の1人であったスペイン人隊長、レミーロ・デ・ロルカが、チェーザレによって捕縛される。




レミーロ・デ・ロルカの処刑

マキァヴェッリは気づいていなかったが、11月末から12月にかけて、オリヴェロット・ダ・フェルモが、チェーザレの元を行き来していた。
チェーザレへの警戒心を解かないヴィテロッツォとバリオーニ、彼ら2人とチェーザレの間をとり持つためであった。

チェーザレは、ヴィテロッツォたちの武力と意見を心から頼りにしているということを、懇々と語った。
ほだされたオリヴェロットは、自分たちがシニガリアを攻略して、チェーザレに献上することを提案する。(オリヴェロットとシニガリアの領主デッラ・ローヴェレ家とは、対立する仲であった。)
それを持って、自分たちはチェーザレ軍に復帰し、完全な和解としたい。
チェーザレは喜んでこれに同意する。
ヴィテロッツォとバリオーニはオリヴェロットに説得され、しぶしぶながらも受け入れた。

フランス軍の解雇は、この約束を受けてなされたことであった。
チェーザレは軍を返すことによって、戦う意志のないことをヴィテロッツォたちに表明し、安心させたのだった。

レミーロ・デ・ロルカの逮捕も、同様にヴィテロッツォたちの不安と疑心を払拭するための行為だった。
反乱軍との確執の原因を、かねてからパオロ・オルシーニと対立していたレミーロに負わせ、彼を犠牲にすることでかたをつけようとしたのだった。
反乱の責任は全てレミーロにあった、彼を始末すればもうチェーザレと反乱軍の間に何もわだかまりはない、全ては水に流された、と。


12月26日早朝、チェゼーナの広場に、首と胴を切り離されたレミーロの死体がさらされた。


マキァヴェッリは後年、このレミーロの処刑に、もうひとつの解釈を加えている。
いわく、
「長年無能な君主に支配され荒廃しきっていたロマーニャに、平和と秩序をもたらすには、まず厳しい取締りが必要であった。
よってチェーザレは残酷かつ俊敏なレミーロを統治者に選び、この地を平定した。
しかし峻厳な統治は民衆の憎悪を惹起しもする。そして穏やかになった地に強大な権威はもはや必要ない。
チェーザレは「かつての統治の残酷さはチェーザレから発したものではなく、レミーロ個人の性格によるものだった」ということを知らしめるため、レミーロを処刑しその死体をさらしたのである。
民衆はこの残虐な見世物に、戦慄しつつも満足を覚えた。」

チェーザレはレミーロの処刑という一石で、

  1. ヴィテロッツォやバリオーニらの警戒心を払拭する。
  2. ロマーニャの民心をつかむ。

という二鳥を得たのだった。




12月29日、オリヴェロットの活躍によってシニガリアは落城する。これを受け、マジョーネの反乱は終息を迎えたと思われた。
しかし、真の結末は、シニガリアにおいて着けられることになる。




→ シニガリア事件へと続く






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