チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ベンティヴォーリオ

ベンティヴォーリオ家 (Bentivoglio)

ボローニャのヴィカーリオ(教皇代理)。
14世紀中頃から16世紀初頭までの実質的なボローニャの支配者一族。
13世紀から頭角を現した一族で、サンテ(1445-1462)とジョヴァンニ2世(1462-1506)の時に最も繁栄した。
ジョヴァンニ2世・ベンテヴォーリオはチェーザレ軍の傭兵隊長。
チェーザレの進攻からはからくも逃れきるが、1506年、ユリウス2世の率いる教皇軍によって攻囲され、追放された。


ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオ(ジョヴァンニ2世)(Giovanni II Bentivoglio)

(1443年2月12日 - 1508年2月15日)

チェーザレの時代のボローニャの僭主。(1463年 - 1507年)
惣領冬実「チェーザレ」6巻 Virtu 51で、チェーザレとシレンツィオの会話に登場する「ジョヴァンニ殿」。

優れた傭兵隊長であったよう。
1467年、対バルトロメオ・コレオーニの戦いにフィレンツェ、ミラノ、ナポリ側に立ち参戦。
1477年にはスフォルツァのためにファエンツァと、
1482年にはフェラーラのエルコレ・デステを助け、シクストゥス4世とヴェネツィアと戦っている。

ボローニャのインフラや文化の発展にも貢献している。しかし民衆からの支持は低かったよう。

1502年、チェーザレのボローニャ進攻を恐れてマジョーネの反乱に参加。

子どもが16人いたらしい。娘フランチェスカはファエンツァの若き領主アストーレ・マンフレディ(チェーザレを慕っていたのにミゲルに殺された少年)の母であり、ジョヴァンニ2世はアストーレの祖父にあたる。




エルコレ・ベンティヴォーリオ(Ercole Bentivoglio)

(1459年5月15日 - 1507年6月)
ボローニャ生まれ。
ボローニャの僭主であったサンテ・ベンティヴォーリオとジネーブラ・スフォルツァの息子。
3歳の時にフィレンツェへ送られメディチ家で教育を受ける。

1463年10月父サンテが死去。その半年後、母ジネーブラはエルコレの従兄弟の子にあたるジョヴァンニ・ベンティヴォーリオと再婚する。(この時、エルコレ5歳、母ジネーブラ23歳、ジョヴァンニ21歳。)
ボローニャの新たな主は、エルコレではなくジョヴァンニが継ぎ、エルコレはほとんどボローニャに帰ることなく成長する。

1483年からロレンツォ・デ・メディチの下でフィレンツェの傭兵隊長を務める。
1486年、ジェノヴァとの戦いで活躍しピエトラサンタの城代となる。
1487年、ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオの長男アンニーバレとルクレツィア・デステとの結婚式に招かれる。ジョヴァンニは軍人としてのエルコレを称賛し、彼に対する好意と友好を正式な場で示した。

1491年、モンテキアルーゴロ (Montechiarugolo)の領主マルシリオ・トレッリ(Marsilio Torelli)の娘バルバラ・トレッリ(Barbara Torelli)と結婚。
1494年、メディチ家が追放されフィレンツェが共和制となってからも、同国の傭兵隊長を務める。

1499年、アレクサンデル6世の要請により、イモラとフォルリ攻略に向うチェーザレ軍に従軍。
1500年、チェーザレ軍の傭兵隊長としてペーザロに入城。

1502年、再びフィレンツェの傭兵隊長となる。
1502年、アレッツォを攻囲したヴィテロッツォ・ヴィテッリ、ジャンパオロ・バリオーニ、ピエロ・デ・メディチらと交戦。
1503年5月、チェーザレ軍から逃亡してきたファビオ・オルシーニとジャンパオロ・バリオーニをフィレンツェの傭兵隊長として迎え入れる。

1504年、ピサ攻略にかける日数について、マキァヴェッリとピエロ・ソデリーニともめる。
1505年7月、ピサ領有をめぐってバルトロメオ・ダルヴィアーノと交戦、大勝利を収める。
1506年、前年の大勝利ゆえ、多大な期待を背負いピサ攻略に向かう。が、失敗しフィレンツェから雇用を解かれてしまう。
1507年、ユリウス2世の下でフランチェスコ・デッラ・ローヴェレの軍に従軍する。
同年6月、死去。ローヴェレ軍へ赴いて後の彼の動きははっきりしておらず、どのような死に方をしたのかは不明。

同年9月、妻バルバラはルクレツィア・ボルジアの友人であったエルコレ・ストロッツィ(Ercole Strozzi)と再婚する。




ジネーブラ・スフォルツァ(Ginevra Sforza)

(1440年 – 1507年5月16日)
アンコーナ生まれ。
1454年、サンテ・ベンティヴォーリオと結婚。コンスタンスとエルコレ、息子2人をもうける。
1463年、サンテが死去、翌年、サンテの従兄弟の息子にあたるジョヴァンニ2世と結婚。彼との間に16人もの子どもを産んだ。(成長したのは11人)

ミラノのスフォルツァ家の分家であるペーザロの領主、アレッサンドロ・スフォルツァの庶子。このつながりでシレンツィオ(ホアン・ボルジア)はスフォルツァの票を求めてベンティヴォーリオと接触したと思われる。(惣領冬実「チェーザレ 6巻」)




アンニーバレ・ベンティヴォーリオ(アンニーバレ2世)(Annibale Bentivoglio)

(1469 - 1540)
ジョヴァンニ2世の息子、エルメスの兄。
1494年シャルル8世のイタリア侵攻時、フィレンツェに従軍。
1506年、ユリウス2世によりジョヴァンニ2世が追放された後も、弟エルメスとともにボローニャに残り、一族の復帰を期待する。
1511年から1512年の短期間、ボローニャを統治するがラヴェンナの戦いの後、フェラーラに逃走しその地で死を迎える。ベンティヴォーリオ家最後の領主。




エルメス・ベンティヴォーリオ

(1476〜1513)
ジョヴァンニ2世の息子。アンニーバレ2世の弟。
チェーザレのイモラ、フォルリ攻撃時に傭兵隊長として従軍している。
マジョーネの会議に父ジョヴァンニの代理で出席。






ジョヴァンニ1世

(〜1402)


アンニーバレ・ベンティヴォーリオ(アンニーバレ1世)

(〜1445)
バッティスタ・カネスキにより殺害される。
ボローニャの民衆はこれに憤慨、カネスキ一族をすべて抹殺。嫡男であるジョヴァンニ2世がまだ幼少であったため、フィレンツェで鍛冶屋の見習いをしていたサンテを統治者として据えた。







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