チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ピッコローミニ

ピッコローミニ家 (Piccolomini)

13世紀初頭に台頭してきたシエナの貴族。貿易と銀行業で富を築く。ジェノヴァやヴェネツィアだけでなく、ドイツ、フランスに多くの支店を持っていた。
ルネッサンス期にピウス2世とピウス3世の2人の教皇を出す。

フランチェスコ・ナンニ・トデスキーニ・ピッコローミニ
(Francesco Nanni Todeschini Piccolomini)

(1439〜1503年10月18日)
ピウス3世(Pius III)(在位1503年9月22日〜10月18日(26日間))
シエナ生まれ。ペルージャで法学を学ぶ。
伯父(母ラウドミーアの兄)のアエネアス・シルヴィオ・ピッコローミニが教皇ピウス2世となった時、22歳でシエナの大司教、枢機卿に叙任される。
(兄アントーニオはピウス2世が司教のときにアマルフィの公爵に叙任されている)
1464年パウルス2世選出のコンクラーヴェ、1484年インノケンティウス8世選出のコンクラーヴェには出席しているが、1471年のシクストゥス4世選出のコンクラーヴェは欠席している。
1492年のアレクサンデル6世選出のコンクラーヴェには出席。ボルジアに票を投じた。
アレクサンデルの教会改革に協力的だったよう。
同年、伯父ピウス2世の蒐集した人文学文献を収容するため、シエナのドゥオーモと回廊で結ばれた図書室の建設に着手。壁画をピントリッキオに依頼した。ピントリッキオは5年間苦心するが、当初意図されたものは完成されなかった。しかし、このピッコローミニ図書館はルネッサンスの傑作のひとつとされる。
1503年アレクサンデル6世死後のコンクラーヴェにより、ピウス3世として教皇に選出。
病後のチェーザレがローマへ戻ることを許可し、アレクサンデル死後のチェーザレの後ろ盾とならずとも敵ではなかったが、在位26日間で崩御。ユリウス2世にその地位を譲ってしまう。
頚骨(むこうずねの骨)の潰瘍の手術後の感染が死因とされる。シエナの僭主パンドルフォ・ペトゥルッチによる毒殺説もあるが、信憑性はない。
サン・ピエトロ大聖堂に埋葬されるが、後にローマの聖アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会のピウス2世の横に移された。


アエネアス・シルヴィオ・ピッコローミニ(Aeneas Silvio Piccolomini)

アエネアス・シルヴィオ・ピッコローミニ(Aeneas Silvius Piccolomini)(ラテン語)
(1405〜1464)
ピウス2世(Pius II)(在位1458〜1464)






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