チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

ナポリNapoli

ナポリ Napoli

ナポリ中央駅。

鉄道で、ローマから約1時間45分。
フィレンツェから約3時間40分。
ミラノから6時間30分。
すべてナポリ中央駅(Napoli Centrale)に到着。
飛行機で、ミラノから約1時間30分。
空港から中央駅までは、バスで約20分。

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  • カステル・ヌォーヴォ - アンジュー家の城
  • 卵城 -
  • ドゥオーモ -
  • カプアーノ城 -
  • サンタ・キアラ教会 -
  • サン・ロレンツォ・マッジョーレ教会 -
  • 国立考古学博物館 -
  • ダンテ広場 -


※写真にマウスを置くと、多少の説明が出ます。

カステル・ヌォーヴォ(Castel Nuovo)

カステル・ヌォーヴォ正面(北東側)。 アルフォンソ1世の凱旋のレリーフ。

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カステル・ヌォーヴォ中庭。

アンジュー家の城(Maschio Angioino)とも呼ばれる、ナポリ湾に面して立つ城塞。

1266年、フランス、アンジュー家出身のシャルルは、教皇クレメンス4世の支持を取りつけ、南イタリアを支配していた神聖ローマ帝国皇帝の王朝、ホーエンシュタウフェン家を滅亡させる。
シャルルは、それまでの王城であったカプアーノよりももっと堅固な城を求め、1279年、新たな城の建設に着手する。それがカステル・ヌォーヴォ(新しい城と言う意味)である。
アンジュー家の支配下で、カステル・ヌォーヴォは重要な催しの場として多く使われ、芸術家の集まる華やかな宮廷となる。

1442年、スペイン、アラゴン家のアルフォンソ5世はナポリを攻撃、陥落させる。
彼は支配下にあるスペイン(の一部)、シチリア、サルディーニャを含む王国の首都をナポリに構え、ナポリ王アルフォンソ1世となった。
城の正面の2つの塔の間にある凱旋門は、この時に作られたもの。南イタリアにおけるルネッサンス芸術の傑作とされている。

海側の連絡通路。 フェランテが陰謀をたくらむ反乱者たちを一掃したバローニの間。

聖バルバラ礼拝堂(Cappella di Santa Barbara)

1494年、アルフォンソ1世の庶子フェランテが死去すると、フェランテの息子アルフォンソ2世がその後を継ぐ。
その戴冠式は、教皇特使としてナポリに赴いた、枢機卿ホアン・ボルジア(サヴィオ・ホアン)の手で行われた。
(アンジュー家の血を引くフランス王シャルル8世は、王位継承権は自分にあるとしてこれに異を唱え、イタリアに進軍することになる。)
また、その数日後には、カステル・ヌォーヴォ内の礼拝堂で、ホフレ・ボルジアとアルフォンソ2世の庶子、サンチャ・ダラゴーナの結婚式が挙げられた
現在城内には3つの礼拝堂があるが、1つは時代が新しく1つはとても小さいので、残るパラティーナ礼拝堂(Capella Palatina)がその舞台ではなかったかと思われる。
左の写真がそのパラティーナ礼拝堂。現在は聖バルバラ礼拝堂(Cappella di Santa Barbara)と呼ばれている。ジョットのフレスコ画があることで有名。

カステル・ヌォーヴォ、海側の塔「金の塔」(Torre dell'Oro)。




1504年、ロマーニャの所領地を手放すことを条件に釈放されたチェーザレは、スペイン人武将ゴンサロ・デ・コルドバを頼ってナポリへ赴く。
チェーザレはスペイン王の下で軍務に就くことを考える。
フォルリは今だチェーザレへの忠誠を捨てていない。そこを拠点として、自らの公国を再建することも不可能ではない。
チェーザレは再起にかける。

しかしスペイン王は教皇ユリウス2世と結託する。
5月25日(27日の説も)、ゴンサロによってチェーザレは逮捕され、カステル・ヌォーヴォの塔に監禁される
城内には5つの塔があるが、「右手にサンタ・ルチアの塔を、はるか左手にヴェズヴィオの山を見ることができた」(塩野版「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」P296)とあるので、海側の2つの塔のどちらかが、その塔であると思われる。
右の写真はそのうちの西側の塔「Torre dell'Oro」。

ウィリアム・ハリソン・ウッドワード「チェーザレ・ボルジア」には、「"il Forno"と呼ばれる監房」とある。(P369)
陸側東の塔「聖ジョルジョの塔(Torre di San Giorgio)」は、以前「フォラーナ塔(Torre di Forana)」と呼ばれていたようなので、この塔であった可能性も高い。

約3ヵ月後の8月20日、チェーザレはイスキア島を経由して、スペインへ送られることになる。


城内の一部が市立博物館として公開されている。14~15世紀のフレスコ画や15~20世紀の銀器などを展示。
北東の棟1階部分は、オフィスとして使われている。

  • 開館時間
    9:00 - 19:00
    閉館 日祝日




卵城(Castel dell'Ovo)

北側から見た卵城。

サンタ・ルチア港から海に突き出すようにして立つ優美な城塞。

偉大なる詩人で魔術師とも言われたウェルギリウス(惣領冬実「チェーザレ」3巻Virtu22で、教皇へ挨拶する8歳のチェーザレの台詞に登場する)が、城内のどこかに卵を隠している。その卵が無事な間は平和が続くが、壊れた時は城も街も壊れてしまうという伝説をもつ。

もともとは紀元前に建てられた富豪の別荘。5世紀に修道士が住みつき、1139年にシチリアのノルマン王ルッジェーロ2世によって城塞へと建て替えられた。

マリーア・ベロンチ「ルクレツィア・ボルジア」では、1504年、チェーザレがゴンサロに逮捕されるのは、この卵城であったとされている。




ドゥオーモ(Duomo)

ドゥオーモ、ファサード。

ナポリの守護聖人である聖ジェンナーロ(聖ヤヌアリウス)に捧げられた教会。
305年に斬首されて殉教したジェンナーロの血が、ガラスの小瓶に入れられて納められている。
この血は年に2回、5月第1土曜日と9月19日に行われる「聖ジェンナーロの奇跡祭」で液化するということで有名。
最初の奇跡の起きたのは1389年で、以来祭りの日に血液融解の起こらなかった年には、災厄に見まわれると信じられている。

ドゥオーモ内部。












ホーエンシュタウフェン朝を滅ぼしナポリ王となったシャルル・ダンジューによって建設が開始され、14世紀初めに完成した。

ファサードのライオン像。








1494年、教皇庁式部官ブルカルドの進行により、ホアン・ボルジア枢機卿(サヴィオ・ホアン)を教皇代理として行われた、アルフォンソ2世の戴冠式は、ナポリの司教座聖堂であるここで行われたのではないかと思われる。
(1497年、チェーザレもフェデリーコへの戴冠式を行っているが、これはカプア大聖堂にて行われた。)

正面は19世紀にゴシック様式に改装されているが、中央扉口下部にあるライオン像は完成当時のもの。(左上の写真)




カプアーノ城(Castel Capuano)

カプアーノ城、東側。 カプアーノ城、北側。
ナポリに現存する城の中で、最古のもの。
カプアに続く城門近くに建てられていることから、この名が冠されている。

12世紀、シチリア王グリエルモ1世によって建てられた。その後ホーエンシュタウフェン朝のフリードリヒ2世によって拡大され、より華やかで堅固な王宮となる。
14世紀、アンジュー家の支配下で王宮はカステル・ヌォーヴォに移り、16世紀には、スペイン王代理のペドロ・アルヴァレス・デ・トレドの下で裁判所として使われるようになった。裁判所としての利用は、20世紀まで続いた。

1497年8月、カプアでフェデリーコへの戴冠を行ったチェーザレはナポリに向かい、ここに滞在したとする説がある。

いく度もの改修を重ねられており、創建当時の外観はほとんど残っていない。




サンタ・キアラ教会(Basilica di Santa Chiara)

サンタ・キアラ教会。 中庭の回廊。14世紀のジョットのフレスコ画が残っている。
1310年に着工、1328年に完成した。当時ナポリの支配者であったフランス、アンジュー家の人々が多く埋葬されている。

18世紀に華麗なバロック様式に改築されたが、第2次世界大戦の爆撃によって破壊され、復旧工事の際に創建当時のゴシック様式に戻された。

教会付属の女子修道院の回廊の美しさが有名。




サン・ロレンツォ・マッジョーレ教会(Basilica di San Lorenzo Maggiore)

サン・ロレンツォ・マッジョーレ教会。ガエターノ広場東側に建つ。

13世紀、フランス、アンジュー家のシャルル1世が南イタリアを征したのを記念して建てられた教会。(左の写真、オレンジ色の建物。)

古代ローマ時代の街並み。

教会に向かって右手に隣接する修道院地下には、古代ローマ時代の繁華街跡を歩くことができる。(右の写真。)
そのさらに下層には、古代ギリシャ時代の遺跡も発見されている。




国立考古学博物館(Museo archeologico nazionale di Napoli)

ナポリ、国立考古学博物館ファサード。

古代ギリシャ・ローマ美術を中心に展示する博物館。
1734年、ナポリ王となったスペインのカルロス3世は、母にファルネーゼ家のエリザベータを持ち、ファルネーゼ一族が集めた多くの美術品・芸術品を相続した。そのファルネーゼ・コレクションと、ポンペイなどからの出土品が展示される。世界屈指の考古学博物館。

地上階には主に彫刻を展示。
メノウ細工で神々を彫った、「ファルネーゼの皿」(第9~10室)
ファルネーゼのヘラクレス(第12室)、
ミケランジェロが修復した「ファルネーゼの牡牛」(第16室)、
ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィーコ)が寄贈したブロンズ製の馬の頭部(第36室)。

中2階には古代都市ポンペイ、エルコラーノからの出土品を展示。
ポンペイの壁に描かれていたモザイク、アレクサンドロ大王の戦い(第61室)。

上階には引き続き古代都市の出土品を展示。日常品や銀製品も並ぶ。
ヴェスーヴィオ火山が噴火した当時の絵画、 「ヴェスーヴィオ絵画」、
青いガラス壷。

地下にはエジプトからの出土品を展示。
これらの一部は、1731年生まれの枢機卿ステファーノ・ボルジアが寄贈したもの。
彼はヴェレトリ(ローマの南東の都市)を勢力基盤とした貴族の出身で、ボルジア家の遠縁にあたる人物。
(アロンソ・ボルジア(カリストゥス3世)よりも前、12~13世紀に、スペインはハティヴァから、イタリアへと移住したボルハ家の一派。だから本当に遠い遠縁。)

ステファーノは美術品の愛好家で、特にコインと写本を好んで収集した。ヴェレトリに美術館も建設している。
ヴァティカン図書館、ウルバヌス8世のギャラリーに収められている「ボルジアの天球儀」も、彼の収集したもののひとつ。




ダンテ広場(Piazza Dante)

ダンテ像。
ダンテ広場。

詩人ダンテ・アリギエーリの名が冠された広場。
市の開かれていた広場は、もともとマーケット広場(Largo del Mercatello)と呼ばれていたが、1765年ナポリ王妃の名にちなんでカロリーナ広場(Foro Carolina)と改名され、同時に建築家ルイジ・ヴァンヴィテッリによって半円形状に大きく作り変えられた。
1871年、ティトー・アンジェリーニによってダンテ像が作られ、広場はダンテ広場と呼ばれるようになっていった。

同名の広場は他に、ヴェローナ、グロッセート、ピサにもある。

1313年、ナポリ遠征中に志半ばにて倒れた神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ7世。ハインリヒを支援していたダンテ。(惣領冬実「チェーザレ」7巻)
彼らの無念を思うと、ここに立つダンテ像にやるせない思いが湧く。








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