ダルブレ
アルブレ家 (Albret)
シャルロット・ダルブレ(Charlotte d'Albret)
(1480年 - 1514年3月11日(14日の説も))
フランスの貴族アラン・ダルブレ(Alain d'Albret)とフランソワーズ・シャティヨン・リモージュ(Françoise de Châtillon)の娘。
7人の兄弟姉妹を持つ。長子である兄ジャン・ダルブレはナヴァーラ王国の王。
フランスの王室で育つ。シャルル8世とルイ12世の妻アンヌ・ド・ブルターニュの侍女。知的な美女だったと言われる。
1499年3月、チェーザレとナポリ王女カルロッタとの結婚話が暗礁に乗り上げた後、ガストン2世・ド・フォワの娘アンヌ(Anne de Foix)(後のハンガリー王妃)とともに、チェーザレの花嫁候補となる。
シャルロット自身よりも父アランが乗り気となり、6週間以上に渡る折衝の末、シャルロットとチェーザレの結婚が決定する。
持参金3万リーヴル、兄アマニュー(Amanieu d'Albret)の枢機卿叙階、シャルロットのアルブレ家にまつわる全ての継承権(両親の遺産相続、ナヴァーラ王国の王位継承権など)の放棄が条件とされた。
1499年5月10日、フランス、ブロワ、ブロワ城にてシャルロット(19歳)とチェーザレ・ボルジア(23歳)と結婚の署名が行われる。
証人にはチェーザレの秘書アガピート・ゲラルディとレミーロ・デ・ロルカが立った。
2日後の12日、式が執り行われ結婚(初夜)が無事遂行される。8回!やったと言われる。ほんと?
この結婚は当然、チェーザレとフランス王ルイ12世との同盟強化のための政略結婚であり、結婚後すぐにチェーザレはミラノ攻略に向かうルイ12世に同行する。
ブロワでの2ヶ月と軍の待機していたリヨンでの2ヶ月の計4ヶ月が、シャルロットがチェーザレと過ごした期間となる。
この時できた娘ルイーズが、チェーザレの唯一の嫡出の娘。1500年5月17日に出産した。
シャルロットはルイ12世にとって実質的には人質であり、イタリアのチェーザレのもとだけでなく、ナヴァーラの兄のもとへさえ行くことを許されなかった。
その後、彼女とチェーザレの間では手紙や贈り物のやりとりのみが行われる。
1500年秋、チェーザレはシャルロットとルイーズをイタリアへ呼び寄せようとしたとも言われるが、その論拠は何も残っていない。チェーザレが名ばかりの妻をどのように思っていたのかは不明。
チェーザレがユリウス2世により囚われスペインに送られた時には、教皇やスペイン王に釈放の嘆願を行っている。しかしこれは形のみであったとされる向きも強い。
1504年、フランスのフュジーヌ(Feusines)周辺の領主となる。
1514年3月11日(チェーザレと同じ命日!)(いや、正確には1日違い)、La Motte-Feuillyの城にて死去。フランス、ブールジュの修道院に埋葬された。
ジャン・ダルブレ
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