チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

スフォルツァ

スフォルツァ家 (Sforza)

15世紀〜16世紀、ヴィスコンティ家断絶後、ミラノなどを支配した一族。


フランチェスコ・スフォルツァ

(1401〜1466)
ルドヴィーゴやアスカーニオの父。 傭兵隊長としてミラノ公・ヴィスコンティ家に仕え、当主の娘と結婚し、1450年ミラノ公となる。




ルドヴィーゴ・スフォルツァ(イル・モーロ)

(1452〜1508)
ミラノ公爵。優れた軍人であったようだが、1494年のシャルル8世のイタリア侵攻を裏で手引きし、イタリアに混迷をもたらす。
イル・モーロとは「ムーア人(アラブ人)のような」の意で、色黒だったことからこう呼ばれていた。スフォルツァの紋章によるという説もある。(モーロ(moro)には「黒ずんだ」という意味と「桑」の二つの意がある。イル(il)は定冠詞。)
レオナルド・ダ・ヴィンチを軍師として雇う。
1499年、ルイ12世のロンバルディア征服時にミラノを失い、マクシミリアン1世を頼って(姻戚関係にある)神聖ローマ帝国へ逃亡。




アスカーニオ・スフォルツァ(Ascanio Maria Sforza Visconti)

(1455年3月3日 - 1505年5月28日)
スフォルツァ家最初の枢機卿。(彼の後に4人の枢機卿が出る。)
ルドヴィーゴ・イル・モーロの弟。
1492年、インノケンティウス8世死後の教皇選出時、莫大な賄賂を受けロドリーゴ・ボルジアを支持する。ボルジア教皇アレクサンデル6世選出の立役者。

ポー河中流左岸の街クレモナ生まれ。
幼少時から政治学と文学に秀でる。
10代の頃にフランス人枢機卿の有力者ギローム・デストゥトヴィルによって、枢機卿の地位を約束される。デストゥトヴィルは次期教皇選(パウルス2世の後)での票集めのために、ミラノのガレアッツォ・マリアの協力を求めており、そのための取引きだった。
しかし、デストゥトヴィルは教皇選に破れ、叙階は延期されてしまう。
6年後の1477年、デストゥトヴィルを破り教皇となったシクストゥス4世によって、枢機卿への叙階が認められる。
枢機卿団は反対したが、ミラノの状勢不安を抑えるための策であった。ロドリーゴ・ボルジア枢機卿の後押しもあったよう。(惣領冬実「チェーザレ」Virtu 63)

1486年、ミラノとナポリの同盟のために奮闘、1489年に甥のミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァとナポリ王女イザベッラ・ダラゴーナとの結婚を実現させる。
フランスはミラノとナポリの同盟を快く思っておらず、アスカーニオの動きに憤っていた。そのためか彼は、フランスの枢機卿ジャン・バリューとは犬猿の仲であった。つかみ合いに近い喧嘩をやらかしたこともあるよう。

1492年、コンクラーヴェにてロドリーゴ・ボルジアを支持した褒賞として、教皇となったアレクサンデル6世により教皇庁副尚書に任命される。これはそれまでロドリーゴの持っていた地位であり、枢機卿団トップのポジションであった。
また、ボルジア邸も譲り受けた。
1493年、スフォルツァとボルジアの同盟をより強化するため、アスカーニオは従兄弟のジョヴァンニ・スフォルツァとルクレツィア・ボルジアの結婚も整えた。

1494年、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻において、スフォルツァとボルジアの同盟は行き詰まりを迎える。
スフォルツァは密かにフランスと同盟しており、ボルジアはフランスの侵入を許すわけにはいかなかった。
教皇の勝利によりフランス軍がイタリアから放逐されると、アスカーニオとスフォルツァ家の力は衰勢する。

1497年、ホアン・ボルジア殺害の際には最も疑わしい人物の1人として取り調べられた。が、無事に無罪放免される。

1500年、今度はボルジアがフランスと同盟しミラノを攻める。
同年7月15日、アスカーニオはフランス軍に捕らえられ、リヨンに、その後ブールジュへと送られる。

1502年1月3日、ブールジュの塔での監禁は解かれる。しかしこれはフランスから出ないことが条件であった。

1503年9月、アレクサンデル6世死後のコンクラーヴェのために、ローマへと戻る。
その後、ピウス3世死後のコンクラーヴェにも出席する。
しかしもちろん、自身の選出はならなかった。
失意のままに、1505年5月28日、ローマにおいて死去する。
その頃、対フランスとの戦いのためにミラノとの同盟が必要であったユリウス2世は、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会の後陣にアスカーニオの墓を作らせた。

アスカーニオは明晰で野心に満ちた政治家であり、ミラノとスフォルツァ家のために精魂を傾けた人物だった。





ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ

ルドヴィーゴやアスカーニオの従兄弟。ボルジアだけでなくスフォルツァにもいいように利用された、可哀相というより情けない小人物、というイメージ。




カテリーナ・スフォルツァ

(1463〜1509)
ルドヴィーゴの姪。イーモラ、フォルリの女領主。
チェーザレの進撃の最初の標的とされる。ひと月近くの籠城に耐えるが、臣下の裏切りにより落城、捕らえられローマに送られる。(身元引受人はラファエーレ・リアーリオ。カテリーナの最初の夫ジローラモ・リアーリオはラファエーレの伯父だから姻戚関係にあたる)
父親も夫二人も暗殺されている。しかし悲劇のヒロインという風は全くなく、夫亡き後12年間領主として君臨した女傑。民衆からの支持は低かったようで、チェーザレ没落時にカテリーナの復帰をフォルリは拒み、最後までチェーザレに忠誠を示した。




ジャン・ガレアッツォ

(1469〜1494)
カテリーナの弟。妻のイザベッラの父はナポリ王アルフォンソ2世。叔父イル・モーロに公国を奪われる。




スフォルツァ家系図




便宜上、異母兄弟姉妹であっても、並べて表示しています。また重要でない人物は省いています。






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