チェーザレ・ボルジアについて、とりとめのないけれど愛に満ちた探究心を発揮するサイトです。

カステル・ボロネーゼCastel Bolognese

カステル・ボロネーゼ Castel Bolognese

カステル・ボロネーゼ駅
カステル・ボロネーゼ駅ホーム

鉄道で、ボローニャから約30分。
(ボローニャまで、
ミラノから約1時間20分〜1時間50分。
フィレンツェから約1時間。
ローマから約2時間半。)


多くの城塞から成っていたというボローニャの飛び地の街。
1501年、チェーザレはボローニャの僭主ベンティヴォーリオ家に、カステル・ボロネーゼの譲渡を要求する。
ベンティヴォーリオは、拒否するが、チェーザレの力と勢いに恐れをなし、やがてはこれを呑む。







現在、カステル・ボロネーゼに、
城塞も、城塞跡地も、その名に由来するようなものは、何にもありませんでした。
カステル・ボロネーゼの駅員さんたちに、
ベンティヴォーリオ家の所有で、1501年にヴァレンティーノ公爵が奪い取った城塞。」
と尋ねても、
ベンティヴォーリオもヴァレンティーノ公爵も知ってるけど、そのような城塞はここにはない。そもそも城塞自体がない。」
と言われました。
街の地図を見てもありません。
・・・破壊されて消滅した・・・?
謎です。


→ 1501年、カステル・ボロネーゼを手に入れたチェーザレは、城塞を全て破壊し更地にしてしまう。
ゆえに現在、この地には城塞も城塞跡地も残っていない。

その後、チェーザレの命でレオナルド・ダ・ヴィンチが設計したボルジア軍の兵舎が建てられたとも言われる。
ヴィラ・チェザリーナ(Villa Cesarina)と呼ばれ、チェーザレ軍の傭兵隊長であったパオロ・オルシーニに与えられたが、彼はシニガリア事件の後、1503年の初めに処刑された。
兵舎がどのような経緯でとり壊されたのかはわかっていない。


わりと閑散としている駅前から、こういう遊歩道をしばらく歩くと中心へ出る、というつくりの街が多いように思いました。

駅前からつづく並木道。


人っ子一人いないのは、お昼だからだと思います。

エミーリア街道とその標識。
「Emilia Ponente」「Emilia interna」「Emilia Levante」と名を変えながらつづく。

「内エミーリア通り」とでも言うのでしょうか?「内堀通り」みたいな?








バッツァーノ Bazzano

ボローニャ中央駅からボローニャ-ヴィニョーラ線(linea Suburbana Bologna-Vignola)で約45分。

  • ベンティヴォーリオの城塞 -


ベンティヴォーリオの城塞(La Rocca dei Bentivoglio)

バッツァーノの城塞、マティルダの城塞とも呼ばれるようです。

カノッサの屈辱で有名なカノッサ城の女主人、マティルダ・ディ・カノッサの所有であった城塞。
マティルダによって建てられたという説もあるが、実際はそれよりももっと以前、11世紀初頭に、異民族の侵入に備えて建てられたもの、であるよう。

1115年、マティルダは後継者を残さずに死去、城塞はモデナの所管となる。
13~14世紀、エステ家によって修復と拡張が行われ、この時期に時計塔は建てられた。

1473年、ベンティヴォーリオ家の所有となり、別荘として使われる。
現在見られる姿は、ベンティヴォーリオの当主ジョヴァンニ2世によって整えられた。以降、数度の修復が行われているが、当時とほとんど変わっていない。
1階の部屋には、ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオとジネーブラ・スフォルツァの婚姻を記念して描かれた、両家の紋章が見られる。

1506年、ユリウス2世によってベンティヴォーリオ家は放逐され、ボローニャは教皇領へと帰す。城塞も教皇領に属するものとなった。


カステル・ボロネーゼとは、ボローニャを挟んで反対の方向にあるので、チェーザレの所望した城塞ではないと思うが、ベンティヴォーリオ家の城塞のひとつ。

  • 開館時間
    月曜~金曜、日曜 15:00 - 19:00
    土曜 09:00 - 12:00、15:00 - 19:00











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